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次に彼女が向かったのは、本陣の天幕である。
蒼瑛の様子を知るために将軍達が集まっていた。
「遅くなりました、皆様」
柔らかな笑顔で告げる軍師の登場に、一同がほっとしたような表情になる。
彼女がここへ戻ってきたということは、蒼瑛が無事であったという何よりの証拠だ。
「おう、翡翠。蒼瑛はどうだ?」
「はい。落馬の打ち身だけでございます。少しばかり休まれてから、こちらに来られるとの由。それと、幻術に関して申し上げますと、明日からの戦で気になさる必要はございませんので、存分にお働きくださいませ」
「そうか?」
怪訝そうな表情で熾闇が問いかける。
「はい。術者は一人だけにございましたゆえ、場を乱し、術が使えぬように手配いたしました。おそらく、先方はまだそのことに気付いてはおりませぬゆえ、ご安心を」
にっこりと微笑む娘の言葉に、皆が納得したように頷く。
「そうか。まぁ、蒼瑛のおかげで敵の動きも大体把握できた。いつもながらおまえの言う通りに動いていた。ならば、一気に叩き潰してもよかろう? なにやら西南方面がきな臭くなってきた。戦を長引かせても利は無い。すぐにでも取って返せるような体制を作っておきたい」
「御意」
熾闇の言葉に軍師が穏やかに微笑み、頷く。
それはまるで息子の成長を喜ぶ父親のような笑みである。
だが、その笑みの意味を気付く者は多くは無かった。
「では、上将のお考えをお聞かせくださいませ。それに沿って策を練りましょう」
「あぁ、わかった。皆の意見も聞かせてくれ」
素直な若者は、乳兄弟に己の意見が通ったことを嬉しく思い、笑顔で話しかける。
軍議は一刻ほどで終わり、明日の攻撃布陣を再確認して解散した。
「なぁ、翡翠」
夕餉を共にと望んだ熾闇に付き合い、質素な食事を愉しげに摂っていた翡翠に第三王子がおずおずと話しかける。
「はい、何でございましょうや?」
先を促すように小首を傾げて見せると、艶やかな黒髪が肩から零れ落ちる。
「……うん。あれは、本当に幻術だったのか?」
皆の手前、動揺させるような真似をするわけにもいかず、黙って受け入れていた熾闇だったが、ふたりだけならばと思い、真偽を問い質そうと口に出したようだ。
「神族には、神族なりの掟がございます。天界ならいざ知らず、地界に降り、人間に対して神力で何らかの影響を及ぼしてはならぬ、と。つまり、神力で人を傷つけてはならぬという禁忌がございます。それを破れば、相応の罰が下ります」
「直接では罰が下るゆえ、間接的に幻術を使ったということか?」
「御意。どちらにせよ、罪は罪にございますが、己の神力で傷つけたわけではございませぬゆえ、格段に罪は軽くなります」
箸を置き、ゆったりとした口調で説明をする従姉妹に、熾闇も神妙な表情でそれを聞く。
「だが、幻術は普通相対した人間のみが対象となるのではないか?」
「それは仙術での場合、神力は場さえ整えられればさらに広範囲、大多数に影響を与えることが可能となります」
「そうか。では、場を乱すというのは?」
「場の条件と言うのは、それぞれ異なりますが、石ひとつ、その場に増えるだけで乱れることになりますゆえ、とても簡単な作業ですね」
にっこりと笑って告げる翡翠に、若者は素直に頷く。
「ところで、その罰を与える者というのは、天界の場合、天帝ということだろうか?」
尤もな疑問に対し、翡翠は首を横に振る。
「天界は不文律の戒律となっているようでございます。真名がその神族の力の源であり、掟ともいえます。わたくしにもはっきりとはわかりませんが、名に縛られる存在ゆえ、名を奪われることを極端に厭い、また親愛を誓うために他者へ名を預けるとも言います。おそらく、罰を与えるのは、己の真名なのでございましょう」
「……そうか。強い力を持つからこそ、己自身が律せねばならないということか……面倒だな、神族というものも」
少々呆れたように呟いた若者は、乳兄弟へと視線を向ける。
「なにか?」
その、些か強すぎる視線に、翡翠が戸惑ったように問いかける。
「いや。昔、白虎殿に神族は美しい者が好きだと聞いたことがあるが、その代表格のようなおまえを滅しようという奴等の気が知れぬと思っただけだ」
「……はぁ?」
何とも大胆な台詞を告げたことを両者とも気付かず、二人して納得の行かぬ様子で互いを眺めやっている。
「熾闇様、お湯を使われますか?」
ふと気付いたように翡翠が問えば、王子も頷きながら別ことを口にする。
「おまえが先に使え」
「わたくしが、ですか?」
「うん。蒼瑛の手当てで疲れただろう?」
「えぇ、ですが、天幕の方で用意しておりますので」
「天幕……」
微妙な間がそこに生まれる。
「……熾闇様、もう成人の儀をお迎えになられたのですから、わたくしの天幕へお忍びで来られるような真似はなさらないでくださいませ」
溜息交じりに告げられ、熾闇は大いに慌てる。
「ば、馬鹿を言うな!!」
「冗談でございます」
「真顔で冗談言うな……さすがにそれはまずいことくらい、俺だってわかってるんだからな」
本当に焦ったらしく、深呼吸をして息を整えながら、若者は力なく呟く。
「大人になんてなるものじゃないな」
何を指して言っているのかは不明だが、心からの言葉に翡翠は肩をすくめる。
「時は止まってはくれません。進むだけですもの、仕方のないことです」
「そう、だな……」
どこか切なげに頷いた熾闇は、苦い笑みを浮かべる。
「今宵はおまえもゆっくり休め。夜襲があっても、出なくていいぞ。利将軍が勤めているからな」
「はい。おやすみなさいませ」
柔らかな笑顔を残し、綜家の末姫は本陣の天幕をあとにする。
己の天幕に向かう途中で娘は足を止め、夜空を見上げる。
「禁忌を犯した罪は、罪。贖ってもわらねばなりませんね……」
ぽつりと呟いたその表情は、冷徹な守護者のものであった。
「麒麟が地上にあるときは、地上の秩序を護るがわたくしの務め。乱す者に容赦は致しませぬ。お赦しあれ、白虎様」
一言告げた美姫の姿が闇に消える。
その行き先を知るのは、風だけであった。




