166
「お珍しいこと。疲れておいでなのですね、翡翠様」
自分の天幕へと足を運んでいた翡翠は、柔らかな声に呼び止められ、足を止めた。
「青藍殿……」
「私のことは青藍、とお呼び下さいと何度申し上げたことか」
青の瞳と銀の髪の娘が嘆かわしいと言いたげな表情を作り、茶目っ気たっぷりに告げる。
「でしたら、わたくしのことも翡翠と呼んでくださらないと」
苦笑を浮かべた黒髪の娘は、生まれて初めて同性の友人といえる娘に向かって詰ってみせる。
「人目がありますわ。あなたは私の上官ですもの、そう気軽には呼べません」
「では、呼んでいただける場所へご案内いたしましょうか? 狭いところですが」
「えぇ、喜んで。お招きいただけるなんて、嬉しいです」
色彩は正反対だが、受ける印象がよく似通っている娘達は笑顔で話している。
普段は凛々しい印象を受ける彼女達だが、共に並んで話をしている姿はいつになく華やかで麗しい。
その華やぎをいつまでも見ていたくて、このふたりが話をしているところに割り込むような無粋な輩は滅多にいない。
それを承知している青藍は、時々、このように翡翠に話しかけてくるのだ。
「……窺見がおりますね。気付かないと思っているのでしょうか……へたくそ」
にこやかな笑顔を作りながら、ぼそりと青藍が低い声で告げる。
その言葉に、翡翠は危うく噴出しかける。
仙術が使える青藍にとって、周囲の気配は虫の足音すら大きな物音に聞こえるのだ。
間者の気配は、それこそ耳障りなのだろう。
だがしかし、一流といわれる間者を捕まえて『へたくそ』呼ばわりする豪胆さは、さすがに自分にはないと翡翠は笑いを堪えて思う。
「あら? この気配は以前にも……人ではありませんね」
へたくそな間者が実は人間ではないことに気付いた青藍は、不愉快そうに眉を顰める。
「気付かないと思っているのですね、この間抜けは」
「だんだん、人が悪くなっていましてよ、青藍殿」
銀の髪に指を絡め、内緒話をするように、翡翠がからかう。
「天界人の傲慢さは、ほとほと呆れておりますから。いえ、四神族ではなく、神人と言われる天帝に列なる一族ですわね。我ら人が、神に劣るとでも思っているのでしょうか? 仙道は元はと言えば人間であるというのに……」
仙術を操りながらも、地仙でも天仙でもない青藍は、翡翠と係わってから大の神族嫌いになってしまったようだ。
「大々的に攻めてこようとせず、下っ端を人に紛れ込ませてからの卑劣なやりよう。尊敬に値しませんわ。いっそ、神人など滅びてしまえばよいものを」
神をも恐れぬ発言を、大胆にも言ってのけた娘は、ちらりと翡翠に視線を向ける。
「お許しいただけるのでしたら、捕まえましてよ?」
「今は、泳がしておきましょう。天界人は、基本的に地上界に係わってはならぬことになっています。その禁を大っぴらに犯すわけにはいかないのでしょう。だから、神としての能力を使うことなく、知恵だけを授ける軍師として留まっているのでしょう」
「お優しいこと。私、知っていますわ。あの卑劣な神人は、あなたの命を狙っているということを。火の粉を払うだけではなく、大元の火事を消してしまえばよろしいのに」
苛烈さを増す青藍の言動に、翡翠はただ微笑むだけである。
「翡翠様!」
「ありがとうございます、青藍殿。ですが、まだ時期ではないの。まぁ、人の世の戦は、人が行うもの。人以外のものが起すようであれば、速やかに、そして人知れず退場していただくのが地の理というものですね」
心地良い風に髪をなびかせて、翡翠が囁く。
「……翡翠様」
その言葉に、何か思い当たることがあったのか、銀髪の娘の表情が厳しいものへと変わる。
「そのお役目、ぜひ、私に」
「係わってはなりません。人は、人の理の中、神は、神の領域で、それぞれの生を紡ぐものですから」
「わかりましたわ」
実に残念そうに、青藍が頷く。
頷きながら、青藍はふと視線を巡らせる。
同じように、翡翠も視線を流した。
「……悪い。なんか、邪魔したか?」
無邪気な声が、朗らかに響く。
黙って立っていれば、誰もが振り向く精悍で秀麗な顔立ちの若者だが、ひとたび口を開けば、ただの悪ガキにしか見えなくなるから不思議だ。
「殿下」
苦笑を浮かべた青藍と翡翠がほぼ同時に首を横に振る。
それをきょとんとしたような表情で、熾闇は首を傾げて眺めている。
「翡翠様に御用でしたか、殿下?」
気を取り直したように、青藍が穏やかに声をかける。
「あ、いや。ふたりに、だ。むこうで、お茶の準備ができたから、一緒にどうかと思って」
「それでわざわざ殿下が?」
少しばかり呆れたような口調で青藍は問う。
「ああ。何か、皆、おまえたちに声をかけられないとか言って尻込みしてるんだ。たかだが茶に誘うくらいで情けない奴等ばかりだが、お茶が冷めても困るからな、俺が来た」
含むところのない無邪気な表情で、熾闇は告げる。
「それはご足労をおかけしました。ぜひ、いただきましょう」
にこりと笑って見せた翡翠が、和やかな雰囲気を漂わせて答える。
「……あー……翡翠?」
戸惑ったような表情を浮かべた第三王子は、乳兄弟の名を呼ぶ。
「はい?」
「おまえの予測では、初戦は三日後だよな?」
「はい。その通りですが」
「……んーっと……その前に、無茶はやらかすなよ?」
心底困ったような表情で、熾闇は親友に言い含める。
「何故、そのようなことを?」
まるで心当たりがないような眼差しを向ける翡翠は、主の様子を注意深く見つめている。
「何となく、そう思った。お茶、冷めるから、早く来い」
自分の告げた言葉に自信が持てなかったのか、幼子のように視線を彷徨わせながら言葉を紡いだ熾闇は、二人を置いて元来た道を戻る。
「……翡翠様?」
「参りましたね。釘を差されてしまいました」
苦笑を浮かべた翡翠は、青藍に笑いかけると、主の後を追う様に足を踏み出した。