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その日より、時折二人連れ立って姿を消すようになった翡翠と聯音に、周囲の者が不満を覚えたのは無理からぬことであった。
姿を消すのは、昼のほんの一刻にも満たない短い時間だ。
手に得物を持っての行き帰り、何をしているのかは一目瞭然なのだが、その手合わせの姿をどこをどう探しても見出すことができず、しかもほんの一刻の手合わせにしてはやけに消耗した姿で戻ってくるのが疑問でもあった。
第三王子に尋ねても、白虎神に問いかけても、返って来る言葉は『手合わせ以外の事は知らぬ』であった。
熾闇の場合は本当に何も知らない様子だが、白虎は何かを隠している様子である。
彼が言わないのは、言う必要もないことだと判断しているからだろうと、無理やり納得しようとする者もいるが、やはり生来好奇心が強い颱の民である。
彼らに張り付いて追いかける者まで出てくる始末。
そんな中、ふらりと現れた熾闇が、翡翠と聯音を連れて街へと降りた。
燕にいた頃、彼の人生の大半を占めていたのは、『退屈』であった。
だがしかし、颱に来てからというもの、人生の親友はナリを潜めたというよりも裸足で逃げ去ってしまったかのように、思いがけないことの連続であった。
目の前の光景はその中でも最大のものではないかと、微妙な表情を浮かべた韓聯音は、杯を口許へと運んだ。
王子が連れてきたのは、何と楼閣。
春嶺楼という名の実に品の良い見世であった。
まだ新しいために格式が高いと威張れるほどのものではないため、馴染みやすい良い雰囲気を醸し出している。
そのせいか、客足も多く、結構人気店なのだそうだ。
これは、何故かこういったことに精通している翡翠に耳打ちされて知った情報である。
世継ぎと目されている王子が真昼間から楼閣に足を運ぶなどという衝撃的な事実も、目の前の光景に比べれば大したことではないだろう。
それが妙に情けなく、泣きたい気分にまでなってくる。
「……なんだかなぁ……」
「どうなされた、聯音殿?」
長い黒髪をゆるりと束ね、肩から身頃へと流した凛々しい顔立ちの若者が、訝しげな表情で問いかけてくる。
驚くほどの美貌だが、そこに女々しいものはなく、立派な若武者振りが多大なる違和感を聯音の中に産み落としているのだ。
「なんか、騙されてるような気になってさぁ……」
「おや、それは。名将たる韓将軍を騙すような稀代な策士がいるとは、私もお会いしたいものだな」
くつくつと肩を揺らして笑う魅惑的な若者が、声を落として低く囁く。
その男らしい艶やかさに華姫どころか女将までが頬を染めて彼──否、彼女を見つめる。
違和感ないその仕種に、逆に違和感を感じていた漢は、絶対これが彼女の素であると確信する。
外見は若々しく、そうして凛々しいと表現した方が似合いそうな美貌の若者だが、その中身は包容力があり、滴るような蠱惑的な大人の男の色香が潜む。
以前は男であったと漏らした娘の言葉が正しいと実感できる光景だ。
その手のことには慣れきっているはずの女達をこうまで誑し込んでしまうとは、彼の生前は相当華やかだったに違いない。
主一辺倒な人生よりは、少々問題があってもこちらの方がいいような気がする。
うら若き女性に、男の魅力で負けたというのは少々アレだが、本人が楽しそうなので深く考えないことにした。
彼らの前に置かれた膳には、営業前だというのに見事な酒肴が並べられている。
見世が上客だと判断し、大切に扱っている様子が知れる。
「それなら、今度、鏡をご用意しよう、綜碧殿。しかし、よく、昼間から足を運んで咎められぬものだな」
堂々と酒を口にしながらも、殊勝なことを告げる男に、綜碧と名乗る若者は苦笑する。
「己が為すべきことを為す。それが唯一にして最大の努め。それさえ為せば、後は自由というのが、颱の流儀。咎める者などおりませぬよ。務めを果たしておらぬ者には、それは当てはまりませぬが」
「なるほどな」
「……黙って聞いていれば、それは俺に対する当てこすりか!? 碧も聯音殿も性格が悪いぞ!」
むうっと拗ねた様子で綜紫苑と名乗る若者が睨みつける。
「おや? 紫苑は今の話に当てはまるものがあったのか? あぁ、それよりも。太夫への贈り物はどうしたのだい?」
ゆったりと笑った綜碧が、さらりとかわしてこの場合の問題事項となりうる懸案を口にする。
「……う……あ……」
一瞬にして頬を染めた若者は、あらぬ方へ視線を彷徨わせる。
「春琳。その、土産だ」
困ったように従妹を睨みつけた後、覚悟を決めた綜紫苑は、懐より包みを取り出し、琵琶太夫のほうへとそれを滑らせる。
「私に、で、ございますか?」
仕度を整え、弦の調子を確かめていた春琳は、驚いたようにそれを見つめ、受け取っていいものか戸惑うように包みと紫苑を見比べる。
「そなたのためにあつらえた物だ。いらぬなら、勿体無いが捨て置く他ないだろうな」
「そんな! 紫苑様が私にお土産などもったいないことでございますが、捨てることなどできませぬ。ありがたく頂戴いたします」
両手でそれを受け取った春琳は、目の上に掲げ、丁寧に一礼すると、包みを解いた。
「……何と、勿体無い……ありがとう存じます」
そこには、燁の南海でしか取れぬ鼈甲の撥が包まれていた。
めったに手に入らぬ稀少品に、目を瞠って驚いた春琳は、断ることが紫苑に対する侮辱になると震える手でそれを胸元へと抱き込み、頭を下げる。
「いや。いつも良い手を聴かせてもらっているからな。ほんの礼だ。使ってもらえると嬉しいが、困ったことがあれば遠慮なく手放してもいいぞ。何かの足しにはなろう」
「手放すなど!!」
大切な宝物を手放すことなど決してないと、そう断言したい少女は、慌てて首を横に振る。
「うん。今は、気にしなくていい。碧の見立てだから、手に馴染むと思う」
気にするなと手を振った若者は、杯を口許へと運ぶ。
「では、早速、これで演奏させていただきます」
嬉しそうに笑った琵琶太夫は、極上の鼈甲撥を軽く握り、弦を弾いた後、さらに笑みを深くしてそう告げた。
抒情溢れる音色が房の中に静かに響く。
さすが、琵琶太夫と冠されるだけあって、その技量は天性のもの。若くとも確かな音色だ。
その馥郁たる音色に満足そうな笑みを浮かべた若者が、杯を口許へと運ぶ。
ひそかに彼に想いを寄せているらしい琵琶太夫は、そんな若者の様子に目を伏せながらも嬉しげに微笑む。
場所が遊郭でさえなければ、初々しい恋人達の図とも見えなくはないが、惜しむらくは少女の方はともかくも若者の方に色気はない。
純粋に楽の音色を楽しんでいるだけだ。
そうして、もう一人の若者はどうかというと、微妙な苦笑を浮かべつつも、ふたりの様子を見守っている。
おそらくは、恋に疎い若者を微笑ましく思いながらも、そんな年になったのかと感慨深く頷いているのだろう。
まさに、親父。
聯音は感心したように頷く。
どこをどう見ても、立派に好青年を演じるうら若き乙女の正体は、子煩悩な父親というのは結構笑える。
しかも、その息子役の若者は、見かけ以上に幼いお子様だ。
見かけによらずというべきなのか、それとも似たもの同士というべきか。
必要以上の見た目のよさは、それが男であろうが女であろうが眼福であることには違いない。
ならば、その眼福を楽しめるだけ楽しもうというのが、聯音の流儀である。
見目良い男女と心浮き立つ楽の音、そして上手い酒と肴。
人生最良の日の一日だと、彼は心ゆくまで楽しむことにした。
演奏が終わると、惜しみない拍手が琵琶太夫に送られる。
面映そうに恥ずかしげに微笑んだ春琳は、琵琶を床にそっと置く。
「太夫、もう一曲、聴かせてはもらえぬか? 碧、太夫に笛を合わせてくれ。持ってきているのだろう?」
必ずといっていいほど、何か楽器を持ち歩く翡翠の癖を知る若者は、最愛の従妹に我侭を言う。
「綜碧様は、笛をなさるのですか?」
愛らしい声の持ち主が、興味深げに綜碧を見つめる。
「……嗜み程度です。我々は、物心つく前から、書、楽、武術を学ばされるのです。あぁ、舞もね」
苦笑した翡翠が貴族の子弟の日常を簡単に説明する。
「では、紫苑様も?」
「えぇ。ですが、この男は、私を隠れ蓑にし、何度も脱走を図ろうと……」
「楽や舞は、おまえの方が断然上手い! だから、おまえに任せようとしただけだろう」
「逃げたことには変わりない。下手ではないくせに、そうやって逃げるから、上達しないのだろう?」
手厳しい言葉だが、表情は柔らかい。
言われた方も苦虫を潰した表情だが、本気で怒っているわけでも困っている風でもない。
「武術の稽古は休んだことはなかったぞ」
「単にお好きだったからでは? この男の我侭に付き合う必要はありませんよ、可憐な華姫」
威張れぬことを威張る若者をさっくりと切り捨てた美貌の若者は、このやり取りを興味深げに見守っていた琵琶太夫に笑いかける。
「それでも、碧様は、紫苑様のご要望にお応えするのでしょう?」
華奢な少女は小首を傾げ、可愛らしく問いかける。
その言葉に、綜碧は笑みを深くする。
「太夫が望まれるなら、お応えもしましょう。あなたは、私の笛を所望してくださいますか?」
従兄の我侭ではなく、琵琶太夫の望みなら叶えるつもりはあると、黒髪の若者が告げる。
一瞬、驚きに目を瞠った娘は、楽人の表情に戻る。
独奏で弾き語る恍惚感は、何ものにも代え難いものではあるが、共に楽を合わせる歓びは、何ものにも勝る。
望むと、頷き答えようとした少女の耳に、刻限を告げる太鼓の音が届いた。
「……あぁ、申し訳ない。これから少しばかり用事があるので、今日はこれで引き上げることにしよう。この男は置いて行くから、何でも我侭を言うといい」
太鼓の音に、怖いほど真剣な表情になった綜碧が、ふと溜息を吐いて立ち上がる。
「あぁ、そうだ。お詫びといっては何だが、これは私から華姫への贈り物だ。願いがかなうお守りだから、いつも身に着けるといい」
懐から取り出した細長い箱を春琳の掌に乗せた黒髪の若者は、扉へと向かう。
「ひ……へ、碧! 用事って?」
思わず名を呼ぼうとした熾闇は、慌てて言い直しながら用件を尋ねる。
「会議だ。御前会議。これでも私は文官位も持っているのでね。忙しいことだ」
肩越しに振り返り、肩をすくめて答える。
「若君、俺は? 俺も一緒に帰るべき? それとも、こっちの坊やと一緒がいい?」
はいはーいっと手を挙げた聯音が、茶目っ気たっぷりに問いかける。
「ご随意に。できれば、そこにいる我が従兄殿のお守をお願いしたいのだが」
「お守、ね。了解! 頃合い見計らって帰るとするさね」
「明日の朝、定刻に登城していただければ、どこに泊まろうと問題はない。余暇は楽しむべきだろう」
あっさりとした口調でとんでもないことを告げる娘に、聯音は一瞬固まった。
最初から返事を期待していなかったらしい翡翠は、そのまま房を出て行き、楼閣を後にする。
その頃になってようやく男は息を吐いた。
「漢前どころか、底抜けに度量が広すぎるぞ、あの親父」
「……親父って……まさか、碧様のことではありませんよね?」
傍に控えていた妓女達が、おずおずとした様子で聯音に確認する。
「ああ? 他に誰がいるって言うんだ? 見た目はああだが、中身は絶対俺より年上の親父だぞ! 俺は断言するね」
「酷いですわ。碧様は、見た目通り、私どものような妓にも優しくしてくださるできたお方ですのに……」
「……騙されてる。絶対、騙されてるって」
「ありえませんわ。碧様ほど、誠実な殿方はおりません。そりゃ、紫苑様も誠実な方だとわかっております。ですが、贔屓であろうがなかろうが、皆平等に心付けなさるほど気を配ってくださる優しい方に、そのような仰りよう……」
まるで悪鬼に立ち向かうような真剣な表情で妓女達が抗議を申し入れる。
この世で一番罪作りな美女に、聯音は少しばかり恨みがましく思った。