16
鬨の声と共に、軍馬が草原を駆け抜ける。
それはまるで、大津波のようであった。
大地を揺るがす蹄の音、己を鼓舞する叫び声。
敵地を目掛け、我先に向かう彼等に、恐怖以外の何を覚えるだろうか。
馬蹄轟く草原の丘の上で、それを見つめていた翡翠は、祈りを捧げるかのように瞑目した。
「何をお考えになられておいでかな? 麗しの軍師殿」
静かに馬を歩ませ近付いたのは、後衛を指揮する犀蒼瑛であった。
「蒼瑛殿……昨日は、ご迷惑をおかけいたしました」
「なんの。軍師殿のことなれば、役得という言葉しか浮かびませぬな」
相変わらず浮薄な態度を崩さぬ男に、翡翠は小さく笑う。
その気遣いがありがたかった。
「それで、お怪我の方は?」
「とても優秀な医師が、治して下さいました」
「ほう。それは羨ましい。軍師殿専任の御方ですな」
くすくすと笑った男は、今朝方の彼女とその主のやり取りを思い出す。
痛みまで取り去った『軍師専任医師』に、少年が盛大に文句をつけていたのだ。
絶対に依怙贔屓をしていると。
「我が君に於かれましては、大変ご立腹のご様子で……」
同じく笑い含みの声で告げた軍師は、彼から視線を逸らし、笑いを噛み殺す。
「さもありなん。だが、医師殿のお気持ちはよくわかりますな。美しき大輪の蕾が、華開く前に萎れる様を誰が望もうか……咲き急ぐは、華の罪でござろう」
「華はただあるだけ。あるがままに咲き、そして枯れるだけ。それを罪と言われれば、咲くこともかないませぬな。散ることを許されずして、どうして咲くことができましょうや」
「すべては理のまま……そう仰せか?」
穏やかに微笑う少女に、蒼瑛は溜息を吐く。
「もう一度、お尋ね申す。何をお考えになられておいでか?」
「……あちらの御方のことを……彼の君が何を思っておいでなのか、判りましたゆえ。叶えてもよいものかと思い悩みました」
「何を?」
その言葉に、蒼瑛の表情が引き締まる。
今朝の軍議はいささか気妙であった。
勝ちを急ごうとする熾闇。
そうして、それを諫めようともせずに、彼の出した案に修正を加えるだけの翡翠。
「何を望んでおいでなのか?」
「羌の滅びを。彼の君は、颱にその手を委ねておいでなのです……」
まさかとは、とても言えなかった。
王太子軍に従軍するようになり、碧軍師の優秀さは否応なしに認めさせられた。
まだ成人もしていない幼い少女と呼べる年だが、彼女は古参の老兵の落ち着きと、そうしてすべてを見渡せる目、先を見通す聡明さを持ち合わせていた。
将棋盤の駒のように、敵の打つ手、自軍の展開をきちんと把握し、見事に操る少女の才能に、恐怖したことは一度や二度ではない。
その少女の一番怖いところは、相手の心理状態を見事に読むことが出来るということなのだ。
敵味方、生まれた所も育った条件もまったく異なる見知らぬ相手を、まるで親友を眺めるかのようにその心理を探り、そうして彼等の手の内を知る翡翠は、もし男に生まれていれば、大陸を統べる覇王になれたかもしれない。
彼女の為人を考えれば、まったくそのようなことを望みもしないことは、百も承知だが、もしそれを望めば、どうなることかと考えたこともある。
「……自ら滅ぶために、戦を……上に立つ者としてあるまじきことを」
思わず呟いた蒼瑛に、わずかに苦笑を浮かべた翡翠が、首を横に振る。
「自らではありません。羌という国を、滅びに導くため、です。わたくしには、何が正しき道なのかはわかりませぬ。ですが、心を決めぬことには、先には進めませぬ。彼の君のお覚悟、どれだけのものか……」
「滅びたいのなら、勝手に滅びの道を歩ませればよいではありませぬか。それは、羌の勝手というもの。我らは、我らの道を行けばよいのでは?」
実にあっさりとした口調で、そう答えた青年将校に、軍師はひとつ頷く。
「そうですね。蒼瑛殿の仰るとおりです。すでに機は熟しました。我が君の御為に、我らは我らの道を行きましょう」
そう告げた少女は、宝玉のような翡翠の瞳を真っ直ぐに向ける。
軽く手綱を引き、馬首を巡らせると、にっこりと見事な笑みを浮かべ、蒼瑛を見つめる。
「後衛を任せます」
ただ一言。
それだけ言を紡ぐと、馬の腹を蹴り、愛馬を走らせる。
目指すは前衛、主将の下。
「……やられたっ!」
一瞬、そのあまりのも麗しい笑顔に見惚れてしまった男は、鞭の柄で己の膝を打つ。
まだ年端もいかぬ蕾姫と侮れば、こちらを覆すような笑みで応じてくる気の置けなさに、彼は苦笑を浮かべた。
あまり歓迎したくはないが、あの軍師殿は宜しくないことを考えついたらしい。
大将が暴走する危険性を十分承知の上、それを止めるべく走り出したのだろう。
「信頼して下さるはありがたいが、この場合、貧乏籤を引かされたと言ってもよいものか」
もしもの時は、勝手に動けと命じられた男は、額に手をあて、溜息を吐く。
その彼の脇を風が通り抜けていく。
風の行く末を見守るように、そちらに目を向けた犀蒼瑛は、仕方なさそうに馬首を巡らし、己が陣営に戻ったのであった。