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颱での暮らしは、思っていた以上に破天荒で愉快なものだと、燕から来た将軍はのんびりと思った。
己の能力を充分に活かせてくれる新しい主と、その親友であり従妹でもある従者。
己の欲するところをよく知る勝手気ままな同僚達。
実に居心地の良い場所である。
当分はここの暮らしを楽しめそうだと、木蔭で昼寝を楽しんでいた。
さくりと、ほんの僅かに草を踏む音がする。
今まで物音などしなかったのに、突然聞こえた足音は、おそらく自分の気配を聯音に悟らせるためのものだと、彼は目を開けた。
「ん? 何か、用かい?」
「えぇ、ぜひ」
にっこりと極上の笑みを浮かべた美姫が、ゆったりと頷いてみせる。
手に物騒なものを抱えてさえいなければ、聯音とて喜んだことだろう。
「できれば、他のヤツを当たってくれれば嬉しいんだけどなぁ……」
「手加減なしでと注釈をつけて引き受けてくださる方は、聯音殿以外にいらっしゃらないものですから」
少しばかり困ったように告げる娘は、名門綜家の末姫だ。
手加減なしに相手を務めれば、翡翠の怪我を心配するよりも自分の身の方が危険に晒されるのだ。
相手を努めたいと思う男がいるかどうか。
だが、その危険性を聯音がこよなく愛しているのも事実だ。
「……それで? それ以上強くなってどうするつもりだ?」
嫁の貰い手云々などは馬鹿らしくて言うつもりもない。
これほどの娘なら、自分より数段強くても欲しいと思う馬鹿な男はそれこそ掃いて捨てるほどいるだろう。
だからこそ、強くなりたい理由に興味が湧いた。
「えぇ。ちょっと……神殺しをするつもりですので」
「……は?」
冗談とは思えない和やかな表情でさらりと思いがけないことを言い出した娘に、聯音は思わず起き上がってしまった。
「えぇ。ですから、神殺しです」
「神!? ってぇと、何かい? あんた、天上界の神族を殺すつもりかい?」
「はい、そうですよ」
半信半疑で問いかけた言葉に、娘はあっさりと頷いてみせる。
「わたくしが射落とした軍師殿、あの方、あれでも一応、神族ですよ」
「……あれで?」
神族とやらに、少しばかり思い入れらしきものを持っていたとは言えないが、それでもあれほど簡単に人に殺められるとは思ってもいなかった。
「まぁ、かなり下の位の神族なので、力はそう持っていらっしゃらなかったようですが」
「ってぇと、なにか……あんた、まさか、天上界とやりあうつもりでいるのかい?」
「わたくしにはそのつもりは毛頭ありませんが、あちらが望んでいるのなら受けて立つほかないでしょう? たったひとつしかない命を己の意に反した形で失うつもりはございませんから」
「……ま、道理だな」
翡翠の言葉は同意するに値すると頷いた男は、ふと疑問に思う。
「だが、あの技量があれば、これ以上強くなる必要などないと思うが?」
「問題はそこなのです。わたくしの力は、本来、あの程度ではないのです。それすら使いこなせぬ未熟者では、この先、どうして主を守ることができましょう」
「使いこなせていない?」
嘘だろうと、目を瞠った男は、佇む娘を見上げる。
「お恥ずかしい話ですが、まったく。以前は己がこれほど未熟であると感じたことはございませんでした。器が違うと、勝手が違うようで……何か?」
肩をすくめ、淡々と事実だけを告げている様子ではあるが、その言葉に激しく引っ掛かりを覚えた聯音は、右手を挙げて質問を求めた。
「器が違うって……本当に、器? あんた、どう見ても女だろう? まさか以前は男だったとか言わないよな?」
「そのまさかです。確かに生前のわたくしは男で、主とは常に親子ほどの年が離れておりました」
「……『常』に……?」
「はい。信じてはいただけないとは思いますが」
穏やかな口調で告げた翡翠は、己の手に視線を落とす。
「守るべき女性の柔らかな手……以前はそう思っておりましたが、実際、自分の手がそうなってみると如何に頼りなく、力不足にもどかしさを覚えずにはおられませぬ。これでは、我が主を守りきることができぬ。以前と異なる器ゆえ、力の配分がつかめず、神力が暴走するやもしれぬ状況に、戦々恐々としております。早くこの器に神力を馴染ませねば、神殺しはできませぬ」
「…………意外と俺、常識人だったんだな。ちょっとばかり、理解に苦しんでるけど、つまり、強くなりたいということじゃなくて、元々持っている力を十二分に引き出したいということなんだな?」
娘の話を要約して、この際、己の常識をどこかへやった聯音は、とりあえず理解したことを口にしてみる。
ゆったりと、しっかりと頷いて見せた翡翠に、男は肩をすくめる。
「その、稽古に適しているのが俺っていうことだな? わかった。その貧乏くじ、引かせてもらうことにしよう」
はあっと大仰に溜息を吐いて見せた聯音は、芝居っけたっぷりに告げる。
「よろしくお願いいたします」
神妙な表情で告げる翡翠は、安堵したようにひそやかに微笑んだ。