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白虎の宝玉  作者: 西都涼
蠢動の章
157/201

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「げっ! 追って来るぞ!!」

 仕合を放棄して逃げ出した第三王子は、追手の気配に振り返り、嫌そうに顔を顰める。

「公丙殿に青牙殿、成明殿まで? いかがなさいますか?」

 同じく肩越しに振り返った翡翠は、主を見上げ、問いかける。

「決まってるだろ!? 何としてでも逃げ切る!」

 褒められないことを堂々と宣言した熾闇は、親友の手を握り、走る速度を上げる。

 徐々に追いかけてくる声が遠のき、気配が薄れる。

 ぴったりと横を走る従妹に、熾闇は視線を向ける。

 その視線に気がついた翡翠が熾闇を見上げ、ふいに柔らかく目を細めたかと思うと、晴れやかに声を上げて笑い出した。

 伸びやかで楽しげな笑い声。

 微笑むことは多くても、声を上げて笑うことが少なくなっていた従妹の笑い声に、熾闇も嬉しくなり笑い出す。

 ふたりして幼子のように笑いながら走り、そうして東宮まで辿り着くと建物の陰に隠れた熾闇は、従妹の腕を軽く引き、自分の胸に凭れかかるようにその背に腕を回す。

 乱れた呼吸を整え、再び視線を合わせると、発作のように笑いが込み上げてくる。

 ひとしきり笑った二人は、手を繋いだまま、遠くに視線を向けた。

「撒いたかな?」

「そのようですね」

 隠れ鬼をしているような口振りで、声を潜めて囁きあう。

「撒いたついでに、街へ降りよう。いいだろう? 翡翠」

 ねだるような口調に、翡翠が軽く噴出す。

 どうやらお互い童心に返ってしまったかのようだ。

 昔はこうやってねだった熾闇に付き合い、翡翠も街へとついてきたものだ。

 ほんの数年前のことが、これほどまでに無邪気に懐かしい。

「わかりました。よろしいですよ」

 晴れやかな笑みを湛えたまま頷いた娘は、宙に手を差し伸べる。

 そこには二振りの剣が握られていた。

 ひとつは熾闇の剣、もうひとつは翡翠の大切な剣だ。

「……また、妙な術を覚えたものだな。便利だけど」

 神力を使って呼び寄せた己の剣を受け取りながら、熾闇は真面目な表情でそう評する。

 翡翠に関することで、彼が従妹を否定することは有得ない。

 それゆえに、どんな不思議なことが目の前で起こっても、彼は素直に受け止めるだけだ。

「少しお待ちを。このままでは目立ちますゆえ、姿を変えます」

 そう言った翡翠は懐から緋色の紐を取り出し、器用に髪を纏めると髪結い紐で束ねてしまう。

 元々紅を差していない唇は、緋色の髪結い紐の鮮やかさから少しばかり色を失って見える。

 仕合をするために動きやすい武官服は、いつもの地味な官服と違い結い紐と同じ緋色を基調にした華やかなものである。

 意外なことに、見た目が華やかな男物の服は、穏やかな笑みの美姫を端麗な容姿の若者へと変えてしまう。

「どうでしょうか、下士官の若武者に見えますか?」

 声の音程も僅かに下げ、歯切れよく問いかけて笑う。

「いつも以上に鮮やかな手際だなー。うんうん、どっからみても、武官になったばかりのどこかの子弟だ」

 感心したように、従妹を眺め、熾闇は大きく頷く。

「では、私のことは綜碧と。熾闇様は、私の従兄の綜紫苑殿でよろしいですね?」

「懐かしい名だな。うん、それでいい。行くぞ」

 お忍び用の偽名に笑みを深くした熾闇は、元気よく抜け道へと向かった。


 城下に行くと必ず、彼らは市へと向かう。

 いつものように墨と紙を求め、軽く食事を摂り、露店を冷やかすように眺め歩く。

 毎回、見事に姿を変え、気配を変える翡翠を見て、誰も綜家の末姫だとは気付かない。

 ぽかんと口を開け、振り返ってまで眺めてしまう容姿端麗な若者は、きっと王の直属の近衛に所属するのだろうと、誰もが思っているのが見て取れる。

 それが熾闇にはとても愉快に思えた。

 勿論、その隣を歩く熾闇の顔を眺めた者達も、翡翠と見比べ、納得したように頷いて王の近衛だと思い込んでいるのだが。

「ここら辺も変わらないな。音無屋へ寄るか?」

 活気のある日常に満足したように笑った熾闇は、連れに問いかける。

「紫苑が自分から言い出すのは珍しいね。どういう風の吹き回しだろう? 足を伸ばすのには否やはないが」

 微妙に砕けた言葉遣いで、翡翠は首を傾げる振りをしながら頷いてみせる。

「邪推するようなものは一切ないぞ。この流れだと、そこに行き着くだろうと聞いてみただけだ」

 自慢げにきっぱりと告げた若者は、逆に従妹の行動を指摘する。

「それは、説明する手間が省けてありがたい。音無屋に行かせて……ん? 紫苑、どうかしたのかい?」

 不思議そうに翡翠の後ろへと視線を向けている熾闇の姿に気付いた彼女は、首を傾げてその視線を追う。

「……紫苑の好きな蜂の蜜か。目聡いね」

「あれが蜂蜜!? はじめて見たぞ!」

「そうか……では、寄って行こうか」

 くすっと笑った綜碧は、綜紫苑の肩をぽんっと叩くと、先に立ち、蜂蜜屋へと足を運ぶ。

「すまないが、少し見せておくれ」

 店主に声をかけ、熾闇を促す。

「紫苑、これが蜂巣だ。蜜を集めた蜂は、この巣に蜜を溜める。この蜜を搾り出したのが、蜂の蜜。巣の方は、華燭の儀などで使われる蜜蝋になる」

 店先に置いてある大きな蜂の巣を指差し、翡翠は若者らしい言葉で従兄に説明する。

「へぇ……さすがに詳しいなぁ……」

 感心したように無邪気に笑う熾闇は、店先に出てきた店主に気付く。

「すまぬが、店主。蜜を分けてくれ。そうだな、全部で八つだ」

 結構な数に店主も翡翠も驚く。

「あ、いや。ほら……俺の分だろ、おまえの分に、青藍に、白華殿に、義母上達にも、それにあの方も甘いもの好きだし」

 言い訳のように土産を振舞う者の名を挙げる熾闇に、翡翠は噴出す。

 気付いていないだろうが、自分と白虎以外はすべて女性に渡すつもりのようだ。

 女性は甘いものが好きだということを本能的にわかっているらしい。

「それはさぞかし喜ばれることでしょう」

 笑顔で頷いた翡翠は、懐から財布を取り出し代金を店主に支払う。

「おい、ひ……碧。財布は俺も持ってるぞ」

 懐に手を突っ込んでいた熾闇が恨めしそうな瞳で従妹を見つめる。

「先程、紙を頂きましたので、そのお返しです」

「律儀といおうか、何と言おうか……このくらい使っても散在したことにはならない程度の恩賞は受け取っているつもりだぞ」

「…………ささやかですねぇ」

 溜息交じりのその言葉に、熾闇は完全にむくれた。


 蜂蜜屋に荷物を綜家に届けてくれるよう頼んだふたりは、目的地である音無屋へと向かう。

 珍しい楽器でもないか、顔を出そうかという程度の目的でのんびり歩いていたふたりは、かすかに聞こえた悲鳴に気配を変えた。

「……悲鳴、ですね」

「女だな。行くぞ」

 正確に方向と距離を測ったふたりは、武人の表情で走り出した。


 碁盤目状に区画された角を曲がったふたりは、剣を手にする無頼漢どもと可憐な風情の少女の姿を認めた。

 音無屋のすぐ近くで、騒ぎを聞きつけたらしい店主が今にも飛び出さんとしていたが、ふたりの姿を認め、安堵したように店の中へ戻っていく。

「何をしている!?」

 わざと大音声を上げた熾闇が少女と男達の間に割って入る。

「娘一人相手に剣を抜くとは穏やかではないな」

「ガキは引っ込んでろ!」

「そうだ! 怪我ぁしたくなかったら、おとなしく眺めてろぃ」

 酔っているのか、呂律の回らぬ口調で無頼の輩は熾闇を嘲る。

 若く、しかもすらりとした体躯であるために、さほどの力量はないと思ったらしい。

「それはこちらの台詞だな。怪我をしたくなかったら、さっさと剣を収めて行け!」

「あ~ぁ……状況も確かめず、先走りましたね、あなたは」

 呆れたように肩をすくめた翡翠が、注意を引くように声をかける。

 その声に気付いた男達は翡翠の顔を見るなり息を呑む。

「……男、か……?」

「男でもいい。上玉じゃねぇか。そいつを片付けて、相手ぇしてもらおうかい」

 あまりにも品性に欠ける言葉に翡翠の表情が僅かに動く。

「紫苑」

「手を出すな、碧。おまえはそこの娘さんを護ってろ。おまえが出るほどの相手でもない」

 不機嫌そうに告げる熾闇に、翡翠は軽く肩をすくめる。

「承知。剣を抜くほどの相手でもないようだ。あなたに任せましょう……大丈夫ですか、華姫?」

 少女に手を差し伸べ、翡翠は柔らかく微笑む。

「は、はい……」

 震える手でその手を握った娘は、心配そうに覗き込む若者の驚嘆に値する美貌に息を呑む。

「そうか。じゃあ、立てますね? ここは危ないですから、少し離れた場所へ行きましょう。怖ければ、私にしがみついて目を閉じていても構いませんよ」

「あ……ありがとう、ございます……」

 恐怖と安堵の間を行ったり来たりしながら、娘は何とか立ち上がる。

 年の頃は十五だろうか、大人びた綺麗な顔立ちをしているが、どこか幼さを孕んでいる。

 身奇麗に身なりを整えているが、白粉の薫が仄かに漂う。

 その年で白粉の薫をすでにさせているのは花柳界に住まう者たちだけだ。

 それゆえ翡翠は華姫と呼びかけたのだ。

 少女もそれを訂正することなく、受け入れる。

 熾闇が動きやすいようにと、翡翠は娘を道の脇まで連れて行き、己の背で醜い争いを見えぬように遮ってしまう。

「紫苑。存分になさい」

 気迫だけで彼らを威圧していた熾闇は、従妹の言葉ににやりと笑った。

 剣を抜き、血を流しては、少女が怯えると言外に告げた翡翠の言葉を守り、若者は体術だけで彼らを地に伏せていく。

 常に戦場で他者を圧倒し、勝ち続けてきた彼にとって、戦場を知らぬただの無頼漢ごときに遅れを取るわけがない。

 赤子の手を捻るように、簡単に倒していく若武者を見て、見かけ通りの若造ではないとようやく悟った彼らは、戦法を変えることにする。

 もっと楽に倒せそうな方を相手に選んだのだ。

「そっちの女と優男の方を狙え!」

「……品のない言葉だ」

 深々と溜息を吐いた翡翠は、すっと右手を挙げる。

 刃先を人差し指と中指に挟み、剣を受け止めたのだ。

「……ぬ! け、剣が……」

 指に挟んでいるだけだというのに、剣が抜けず、ぴくりとも動かなくなったことに男は焦る。

 ふわりと黒髪が宙を舞う。

 その軌跡を目で追ううちに、男は地に沈み、すべてが終わる。

 右手で剣を押さえたまま、左手の手刀で男の首を打ったのだ。

「すまん! ひ……碧」

 他の男たちをすべて倒した熾闇が、慌てて駆け寄り親友に謝る。

「いや、上出来というものだろう。こちらに来たのはひとりだったから」

「そうか。怪我はないか?」

 翡翠に頷いて見せた熾闇は、彼女の後ろで震えている娘に声をかける。

「は、はい。ありがとうございます」

 震えていた娘が顔を上げ、切れ切れに礼を述べると、若者は驚いたように目を瞠る。

 娘の瞳は緑柱石であった。

 従妹と同じ翠の瞳は非常に珍しい。

 それゆえに、彼は驚いたのだ。

 一方、娘の方も、自分を庇っていた美貌の若者に劣らず精悍な顔立ちの若者に目を奪われる。

「あ、あの……危ないところを、本当にありがとうございます。お名前をお伺いしても宜しいでしょうか」

 最低限度の礼儀を守らなくてはと、娘は自分を助けてくれた凛々しい若者達に名前を尋ねる。

「あー……えーっと……?」

 困ったように視線を彷徨わせたのは、精悍な顔立ちの若者の方であった。

 名乗れぬのは、後ろめたいことがあるものか、それとも身分が高く名が通っている者のどちらかだろう。

 娘には後者にしか見えない。

「この者は綜紫苑。私は綜碧という」

「綜……」

「あぁ。綜家縁の者だ。あなたの名は? 可憐な華姫殿? どちらの楼閣にお勤めなのだろうか、そこまでお送りしよう」

 微妙に声をかえ、低い響きのある声で問いかける翡翠に、熾闇が戸惑うような視線を向ける。

「楼閣……」

 小さく呟いたその声には困惑の響きがありありと伺える。

 びくりと娘の肩が揺れた。

「すまない。気を悪くされたかな? この男は、以前、とある楼閣で少しばかり嫌な目にあったものだから、苦手としているだけだ」

「おまえ! 何で知ってるんだ!?」

 庇うように告げた翡翠の言葉に、熾闇が目に見えて動揺する。

「同行していた方が、詳細に渡って教えてくださっただけだよ」

「あいつか! あいつだな!」

 焦ってはいるが、実名を出さないだけの考えは働くらしい。

「ほら、ご覧の通り。見世までお送りしよう。遠慮せずに言いなさい」

 驚嘆に値する美貌の若者ににっこりと微笑まれ、娘はつい素直に告げる。

「春嶺楼の春琳と申します」

「春嶺楼の……もしかすると、琵琶太夫?」

「……はい。若輩者ですが、そのように呼ばれることもございます」

 恥ずかしそうに告げた娘に、綜碧と名乗った若者は頷く。

「なるほど……ならば、あなたが襲われた理由も頷ける。行こう、紫苑」

「あ、あぁ」

 何故納得がいくのか、不思議そうに首を傾げる熾闇に、翡翠が視線で合図する。

 あとで説明するとの合図に、とりあえず疑問を納めた若者は、少女が勤める春嶺楼へと向かうことになったのだ。


「姐さん!! お母さん! 姐さんが、姐さんが……!!」

 春嶺楼の前でウロウロとしていた幼い少女達が、春琳の姿に気付くと、店の中に大きな声で呼びかける。

 年の頃からしても蕾子のようだ。

 その声で店から女が飛び出してきた。

「春琳! おまえ、無事だったのかい!?」

「お母さん。えぇ、どうしたの?」

 店の者達のただならぬ様子に、春琳は驚いたように訊ねる。

「どうしたもなにも、おまえを預かったからという文が来て……こちらは……?」

 娘の腕を掴んで、無事を確かめていた女将は、その背後に立つ二人の若者に目を瞠る。

「危ないところを助けていただいて、ここまで送ってくださったの」

「そいつは……うちの子をお助けいただいてありがとうございます。どうぞ、中へ」

「いや。無事に送り届けたなら、俺達はこれで失礼させてもらおう」

 何だか嫌な予感と顔に書いて、熾闇がすぐに断りを入れる。

「恩人に礼をしないで返したとあっては、春嶺楼の名が廃ります。琵琶太夫はうちの看板。その看板を守ってくださったお方に礼をしなければ、これから先……」

「あの、どうか……お礼をさせてくださいませんか?」

 おずおずと娘が熾闇を見上げる。

「拙い琵琶ですが、どうか聴いてくださいませ」

「……琵琶?」

 先程から琵琶とよく聞くなと首を傾げる熾闇に、翡翠が顔を寄せる。

「春嶺楼の春琳太夫は、琵琶の名手として最近名を挙げている太夫なんですよ。よい人助けをなさいましたね」

「それで琵琶太夫というのか……」

 ようやく納得した熾闇は、楽の名手と聞き、少しばかり心を動かされる。

 どうしようと、大切な従妹で親友に視線で問いかけると、万事承知している黒髪の若者は頷いてみせる。

「あー、じゃあ、少しだけ……」

 好きにしてよいとの合図を受け、熾闇はおそるおそる頷いた。

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