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美しくも複雑に入り組んだ回廊を通り抜け、ようやく辿り着いた王太子府は、品の良い寛げる空間に設えられた建物であった。
今まで歩いてきた王宮のどこよりも心地良い風が吹きぬける。
聞けば、ここは王族の身分を持つ者が自ら進んで仕事をするための場所であり、それゆえに彼らの仕事を邪魔するような輩の侵入を一切禁じているのだという。
相当変わった国だと思ってみても、それは異国人の感覚であり、颱国人の感覚からしてみれば当たり前のことなのだと、聯音は自分に言い聞かせる。
自国での常識を他国に当てはめることこそ愚かしいことはない。
それぞれの風土、歴史により、常識というものは異なるものだと、彼は理解している。
それゆえ、他国の政治に干渉するときは自国の理論を用いてそれを正そうという大義名分を掲げるのだが、実際のところ、余計なお世話といえるような内容が殆どだ。
四神国の者が、そのような大義名分を掲げて他国に侵略することは有史以降、一度とてない。
請われれば、その高い技術も知識も惜しみなく分け与え、庇護を与えるのだが、それを嵩にきて何かを強制したりすることもない。
彼らは、矜持が高く、それゆえに己を律する力も強い。
決して他国への干渉を許さず、常に神に向かい恥ずる事なき行いを自分に命じているのだ。
四神国の考え方は実に正論過ぎて恥ずかしいものがあるが、それでも誰恥じることもなく胸を張って立てる。
青臭い理想も、それに従い実現すれば、このような国になるのだと聯音は苦い笑みを浮かべる。
彼に向かい渦巻くような圧迫感が、ふと消え去る。
「こちらにございます。どうぞお入りくださいませ」
小姓は、恭しく聯音に頭を下げて告げると、彼が通れるようにと道をあけ、扉を示す。
それに頷いて答えた男は、ゆっくりとその戸の向こうへと足を運んだ。
眩い光の向こうにふたつの影がある。
元はひとつであったかのように、寄り添いあい、見事な対を成している。
「よく来られた、韓殿。待っていたぞ」
若々しい声が聯音を迎え入れる。
「さぞお疲れでございましょう。こちらにお座りくださいませ」
女性にしては低めの柔らかな声が彼を労わる。
眩しそうに目を細めていた聯音は、声の主の姿を捉え、苦笑した。
「お久し振りでございます、熾闇殿下、翡翠殿」
拱手をして礼儀正しく挨拶をした長身の偉丈夫は、次の瞬間、肩をすくめてにやりと笑った。
「真面目に挨拶しようと思ったが、肩が凝っていけねぇや」
「あはははは……違いない! 俺も一瞬、誰かと思ったぞ」
聯音の言葉に、王太子府軍総大将である第三王子は弾けるように笑い出す。
これが燕であれば、即座に無礼討ちにあって仕方のない態度であるが、颱はなかなか融通が利くらしいと燕の男は片眉を跳ね上げる。
「立ち話もなんだ、そこに座って楽にしてくれ。今、翡翠が茶を入れるところだから」
「姫君自らお茶を? んなこたぁ、女官がすべき仕事だろ?」
お許しを貰った聯音は、近くの椅子に腰掛けながら、思いがけない言葉に振り返り、目を丸くする。
名門中の名門の出自である姫君が、女官や端女のように、だが彼女達よりも洗練された仕種でお茶を淹れている。
「このくらいのことで、人手を煩わせるわけには参りません。それに、この部屋には女官は基本的には入れないのですよ」
にっこりと笑った美貌の軍師は、穏やかな口調でそう説明すると、盆に茶器を載せ、彼らの前に茶碗を静かに置く。
「翡翠の淹れる茶は美味いぞ。それを飲めば、女官の淹れた茶など飲めるものか」
まるで自分が淹れたように自慢をする若者は、聯音に茶を飲むように勧める。
その言葉に誘われ、茶碗に口をつけた男はそのまま軽く目を瞠った。
「美味い」
「そうだろう? 翡翠は何をするにしても名人級だ。常に努力を怠らないからな」
「まぁ。常に努力を怠っていらっしゃる方が、何か仰っておられますね」
くすくすと楽しげに笑う娘は、自分も茶碗に手を伸ばす。
「さて。何からお話いたしましょうか」
のんびりとした口調で悪戯っぽい笑顔を浮かべる娘に、聯音は表情を改めた。
侮れないと、自分より年若い貴族の娘に思うことがあるなど、自国にあって今まで一度もなかった。
大体において、貴族の若い娘が考えることは、より良い身分の家に嫁ぐこと、己を美しく飾ることの二点のみだと思っていた。
ところが、国が違えば、考え方も異なるらしい。
それより目の前の娘が異質なのだろうか。
ことごとく予想を裏切っていく。
異質であることは、本来忌むべきものであるはずだ。
そのはずなのに、あまりにも自然体である。
異質なのは、王子も同じだ。
ごく普通の、顔立ちはかなり宜しいがどこにでもいる普通の若者にしか見えないはずなのに、その内から放つ気配は人とどこか違うような気がしてならない。
それは翡翠にしても同じだ。
この二人は似ている。
その根底はひとつであったかのように、非常によく印象が重なるのだ。
動の熾闇と静の翡翠。
人はそう言うかもしれない。
熾闇が火なら翡翠は水。
相対するものである筈なのに、結局は同じ自然のものなのだ。
常に何かを焼き尽くさずにはおられない火よりも、水の方が始末に悪いかもしれない。
一見、穏やかで静けさを保っている水は、一旦、堰が壊れれば己自身を失うまですべてを押し流してしまうのだから。
それは水が育み護る者だからだろう。
護る対象を失えば、荒れ狂うのみだ。
翡翠が護るものは、この颱と熾闇王子だ。
そのふたつを失えば、彼女は天に弓引く者となり、この地を、大陸全土をすべて無に帰してしまうだろう。
たかが女と侮れぬ相手だ。
彼女にはそれだけの力と知識があるのだから。
そして、それだけの才覚を持つ娘が主として仕える若者は、確かにそれに相応しい器量がある。
生まれながらにしての王などいないと聯音は知っている。
王は、その立場について初めて自覚し、王となっていくのだ。
人が子を得て初めて親になるのと同じように。
だがしかし、熾闇にはそれが当てはまらない。
間近で備に見つめ、言葉を交わし、理解した。
彼は初めから王なのだ。
常に自分自身という小さな国の王であり続け、それが武人として隊を束ね、一軍を束ねる者になっても変わらずにそれらを支え続ける王であった。
それは、きっと颱という巨大な国を治めることになっても変わらないだろう。
彼の治める国を見てみたいと、素直に思える。
そのために剣を手にし、血で己を汚しても構わないと、心から思える。
その思いを手に入れることができたことだけでも、颱に来た甲斐があったものだ。
会話を楽しみながら、韓聯音は己の主に相応しい人物を見つけたと、生まれて初めて思った。
燕国出身の韓聯音が王太子府軍所属八位将軍に任じられたのは、その翌日であった。
第三王子の執務室に将軍達が招集され、実に簡単に紹介がなされただけの叙任式。
客将ではなく、正式な将軍であるはずなのに、しかも先日まで敵将であった人間に対して、王太子府軍の将である男たちは何の反発もなくそれを受け入れる。
小さなことに拘らない颱の気質そのままに、彼らは聯音を同輩として認めた。
「……だからって、拘らなさすぎっつーのも、問題ありだと思うけど」
将軍として与えられた執務室で、聯音は列なる来客に思わずぼやく。
「まぁ、いいじゃないか。どうせ暇なんだろう? 手合わせしてくれ」
練習用の剣を肩に担いだ第三王子が呑気に告げる。
他の男たちも皆剣を片手に列を成している。
目的は熾闇と一緒で手合わせの申し込みだ。
彼の用兵の巧みさは、戦場で何度となく確かめている。
次は、彼個人の資質を知りたいのだと、遠慮などせずに押し掛けているのだ。
「やー……でも、普通は場に馴染んでから、仕事やそういうことをさせるんじゃねぇの?」
もはや、誰に対しても敬語を使わないほどに馴染んでいるくせに、一応正論らしきことを口にするトウが立った新人武将に熾闇は笑う。
「充分馴染んでいるだろうが! 今度は俺たちがおまえに慣れる番だ。手っ取り早く、相手しろ」
「おやおや。賑やかですこと」
救いの神か、魔の手先か、書類を手にした軍師が偶然にも通りかかり、中の騒ぎに苦笑を浮かべる。
「本日も麗しき御気色のようですね、私の軍師殿。お騒がせして申し訳ない、ただのじゃれ合いですのでお気になさらずに」
にっこりと笑い、如才なく答えたのは隙のない完璧な装いの犀蒼瑛であった。
片手が剣で塞がれていなければ、彼女の持つ書類を取り上げ、その柔らかな繊手を手に取り唇を押し当てていそうなほどに甘い笑顔と声である。
「騒ぎが外に漏れていたのか……申し訳ない、軍師殿。鍛錬場へ移動するので、じきに静かになるだろう」
相変わらず黒衣の嵐泰が申し訳なさそうに告げる。
「おーい。俺はまだ承知していないぞー!!」
最後の悪足掻きのように、聯音が来客たちに訴える。
「上将とは手合わせしたのに、我らとはできぬと仰せか? それはずるいのではあるまいか、韓将軍?」
からかうような、拗ねているような、実に微妙な問い掛けをした莱公丙が、ちらりと翡翠に視線を送る。
「確かに。上将と軍師殿のお二方と手合わせして、しかも決着がつかなかったというのに、上将からのお誘いも断り、我らと仕合うのも拒まれるのですか? 納得がいきません」
笙成明も生真面目な表情で首を傾げる。
「強いと思われる相手がいれば、手合わせをしてみたくなるのが武将の性というもの。諦めてお相手を願いたい」
普段は制止役であるはずの利南黄までもが仕合を申し出るのは非常に珍しい。
噴出しそうになるのを堪え、翡翠は品の良い笑みを浮かべた。
「韓将軍は、手合わせすること自体に異存はないようですが、問題は人数の多さにあるようですよ? 皆様は、韓将軍の実力の程をお知りになりたいのでしょう。それなら良い考えがございますが、如何でしょう?」
「あー、質問! 俺に拒否権はないのか?」
「あるとお答えして差し上げたいのですが、皆様に異存があるようですので多数決によりなしですね」
「……やっぱりか」
助け舟を出してくれた翡翠には悪いが、思わず楽な道を選ぼうと挙手した聯音は、あっさりと否定され、仕方なさそうに肩を落とす。
「できるだけ、手っ取り早く終わる方法で頼む」
「畏まりました。それでは、二回で済む方法を取りましょう。まずは聯音殿と蒼瑛殿が組み、熾闇様と嵐泰殿が組んで二対二で仕合ってくださいませ。その次は、聯音殿と成明殿、南黄殿と公丙殿の組で。青牙殿がいらっしゃいませんので、都合よく組み合わせができましたね。もしよろしければ、明日は青牙殿と聯音殿が組んで、私と青藍殿と仕合ってくださいませ」
にこやかに笑って告げる翡翠に、聯音は不承不承頷いた。
「何か、今日より明日の方が怖ろしいんだけど、気のせい? なぁ、気のせい?」
思わず辺りを見回し、つい訊ねてしまった聯音に、気の毒そうに熾闇が首を横に振る。
「翡翠と青藍相手なら、俺は誰と組んでも絶対に負ける気がするぞ」
「あああぁ~、やっぱり」
「今日、俺たちと仕合って、明日は筋肉痛で不戦勝という手もあるぞ」
指を鳴らし、嵐泰と利南黄に聯音を捕らえるように命じた熾闇が悪魔の囁きを口にする。
「その手もあったか」
引き摺られながら、盲点を突かれたように聯音が納得している。
戦わずして勝つというよりも、すでに負けを認めているあたり、この男は機を見るに敏な性格なのだろう。
ずるずると引き摺られていた男は、俄然張り切って歩き出す。
「……あの男か、おまえが言っていたヤツは」
回廊で見送っていた翡翠の足許に不意に現れた白虎が楽しげに尻尾を振りながら問いかける。
「はい。左様にございます」
「なるほど。面白そうなヤツだ」
ふりふりと拍子を取りながら呟く神に、娘は苦笑する。
「駄目ですよ」
「……まだ何も言っておらぬが?」
「ご自分も仕合を申し込まれるおつもりでございましょう? お二方とも無茶をなさる性格ですから、駄目です」
まるで幼子を窘めるかのような口調は、どちらが年上なのかわからない。
「どうしても駄目か?」
「今はまだ駄目です。第一、白虎様が人形を取るなど秘中の秘なのでしょう? お楽しみは後に残して置いてくださいませ」
「ふむ。よし! 翡翠の琵琶で手を打とう!」
「承知いたしました」
仕方ありませんねと言いたげに笑った娘は、書類を手に歩き出す。
上機嫌な白い神は、跳ねるような足取りで娘の後を追った。