153
風の神が守護する国とあって、颱は実に心地良い風が吹く地であった。
木々はすべて泰山を示すように腰を折っているのが実に奇妙である。
旅人は、この奇怪な景色を感心したように眺めていた。
以前、何度かこの颱に足を運んだことがあるが、そのすべてにおいて景色を堪能するような暇も余裕もなかった。
そのことについては仕方ないと割り切ることができるが、それよりも見るものすべてが珍しく、面白い。
この国に住むことになるかもしれないが、そのときは、きっと厭きは来ないだろうと楽しげな表情を浮かべ、馬の背で伸びをする。
草原の中に、焼き煉瓦を敷き詰め、整えた幅の広い道がどこまでも続いている。
これが颱の交易路であると、先程擦れ違った商隊に教えてもらった。
何百年にも渡って、地道に整備を続け、そうして王都へと繋がっている。
この道沿いには常に警備隊が目を光らせているため、決して野盗などが襲ってくることはなく、安心して旅が続けられるのだ。
それを聞くだけで、颱という国が決して神に頼っているだけの国ではないことが知れる。
常に微細に渡って神経を配り、統治を行っているため、これだけの繁栄が約束されているのだと、ここまでの旅で十分理解できた。
そのために出身国を問わず、有能な人物を適所に抜擢しているらしい。
色々な話を道すがら訊ねては情報を仕入れた男は、王都を目指す。
南の燁とよく似た造りの都だが、一番の違いは城壁があるということだ。
それは、燁は他国から攻め入られることがないが、颱は常にどこからか攻め入られているという違いだろう。
頑健ではあるが、決して閉鎖的ではないと、皆が口を揃えて言う城壁が、目の前にポツリと見えてきた。
馬を走らせ、近付いてみた旅人は、あまりの大きさに目と口を丸く開けてそれに魅入った。
王宮への出入りは、非常に簡単であった。
門番はいるものの、取り立てて身元を調べるような真似はしない。
彼は簡単に中に入ることができたが、それができない人間もいた。
他の人間と同様に中に入ろうとして、まるで見えない障壁がそこにあるかのように跳ね返されてそれ以上前に進めないのだ。
そういう人間が出ると、初めて門番が動く。
身元を照会するふりをして、身柄を確保していくのだ。
つまり、何かの条件で王宮へ出入りする人間に制限をかける仕掛けがあるらしいと彼が理解したのは、門を入ってすぐのところにある案内役の詰め所まで辿り着いたときであった。
「人に会いたいのだが……私は燕の韓という者だが、綜軍師……王太子府軍の軍師を務めている女将軍を訪ねて参った」
とりあえず場所がわからないため聞いてみようという、実に大胆な行動に出た韓聯音は、てっきり咎め立てされるだろうと予想していたのだが、対応した文官らしき男は柔らかく頷いたのみであった。
「燕の韓聯音様でございますか? 碧軍師から伺っております。今、遣いを出しましたので少々お待ちくださいませ。私がご案内いたしましょう」
「……碧軍師?」
聞き慣れぬ言葉に一瞬眉をひそめた聯音は、物問いたげに文官に視線をやる。
「あぁ。これは失礼いたしました。他国の方はご存じなかったのですね。綜右大臣の御子様は綜季籐将軍、綜偲芳大夫、綜翡翠将軍といずれも名高い方ばかり。姫君であらせられる牡丹様、芙蓉様はすでに嫁いでいらっしゃいますが、才色兼備の美姫にございます。綜将軍と言えば、黒獅子軍総大将、女子軍総大将の御二方をお呼びする言い方になりますので、区別してお呼びする場合は、あえて御名で季籐将軍、そうして翡翠様はその瞳の色をとりまして碧軍師とお呼びしております。特に王太子府軍の軍師である場合は碧軍師で通しておられます」
「なるほど……見事な緑碧の瞳だった」
「はい。最高級の翡翠玉でもあれほど美しい色合いはないでしょう。さて、王太子府へご案内いたしましょう。どうぞこちらへ」
にこやかに実に愛想良く対応した文官は先に立ち、聯音を手招きする。
「遣いを出したと言っていたが、案内人が来るのではないのか?」
さすがに本人が迎えに出ることはないだろうが、それでも意外に思って問いかけてみる。
「それでは韓様を長いお時間お待たせすることになってしまいます。あちらは非常に複雑な造りになっておりまして、限られた方しか中へ入ることができないのですよ。無理やり入れば、皆が皆、迷子になってしまいます。中にいらっしゃる方をお呼びするには、あちらに仕える小姓に連絡を取り、中への案内を頼むことになっております」
「では、剣はその小姓に預ければよいのだろうか?」
「その必要はございません。施政宮や本宮と異なり、王太子府に入れる方は帯刀が許されております。外から王宮に入れる方は、悪意なき者と限られておりますので、中は割合鷹揚になっているのですよ」
「悪意があれば、中に入れぬのか?」
「はい」
「どうしてそれがわかるのだ?」
「それはそれ。昔々からずっと続いてきた約束事ですので、我らには計りかねるようなものがあるのでしょう」
知らぬ顔をして煙に巻こうとしているのか、本当に知らないのか、実に読みづらい表情で答える男に、聯音は肩をすくめる。
「つまり、人外の力が働いているのかも知れぬ……と、そういうことなのか」
「人外の力と申しましても、仙術あたりは人でも学べば使えるそうですからね。人がしたのか、仙道様か神様か、ご存知なのは白虎様だけでしょうね」
「つかぬ事をお伺いするが、白虎様にお会いしたことはあるのか?」
「ここら辺でお姿をお見せになることはございませんが、奥ではのんびり昼寝をなさっているそうで、ちらりと拝見したことはございますよ。その名の通りのお姿でした」
「神というのは、目にすることができるものなのか……」
美しく整えられた庭を歩きながら、感心したように聯音は呟く。
「もちろん、姿がある神様とない神様がいらっしゃるそうで、姿がある神様も人に見えないようにすることが可能だとか……あと、神に仕える精霊方も普段は姿を見ることは叶わないのですが、時折見ることができると王族に近しい方々が仰っておりましたね」
「ほぉ……」
あっさりと煙に巻くかと思えば、忌憚なく詳しく話したりする文官に、聯音は警戒と戸惑いを隠し、感心したように頷いてみせる。
話して良いことと悪いことを予め台本を読んで答えているのだろうか。
それほどまでに、彼の説明はわかりやすく、そうして曖昧であった。
歩いているうちに、燕から来た男は空気が重く感じられることに気付く。
重いというよりは圧迫感といった方がいいだろうか。
かなりの圧力がある方向から放たれている。
今、彼が向かっている方向だ。
この先に王太子府があるというのなら、この気配を放てる者は二人しかいないだろう。
「ここが王太子府の入り口になります」
そうとはわからぬほど質素な門構えに控えめな門兵の前で文官が柔らかに告げる。
「こちらの者がこれより先のご案内をいたします」
見れば、幼さを残す少年が聯音に向かって深々と頭を下げている。
「忝い」
ここまで案内して来てくれた文官に短く礼を言った男は、小姓に視線を向ける。
「よろしく頼む」
「は。こちらへどうぞ。殿下がお待ちです」
緊張した面持ちで告げた少年が先に立って歩きだす。
少年の発した言葉に幾許かの疑問を抱きながらも、聯音は素直にその後を追った。