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四神国の西に位置する颱王宮は、思政宮と王太子府、奥宮から成り立っている。
思政宮では文武の執政官が己の仕事を果たし、奥宮では王とその家族が心豊かに暮らしている。
王家の血に連なる者が務めている王太子府では、それぞれが己の役目を果たしていた。
王太子府軍参謀室で文書を認めていた碧軍師は、窓辺に置かれた紅梅の枝にわずかに笑みを浮かべた。
「珍しいですね、故老。あなたがこちらに来られるとは」
誰もいない、というよりは何もない空間に向かって語りかける娘の姿は少しばかり異様である。
だが、本人はまったく気にした様子もなく、むしろごく自然に目の前に人がいるかのように話している。
「最後のご挨拶に参りましたのじゃ、ひいさま」
しわがれた声がどこからともなく聞こえてくる。
床からとも天井からとも思えるが、やはり姿はない。
「……最後……?」
「引き際を得ましてのう。次の棟梁をひいさまにお目にかけるために参りましたのじゃ」
小首を傾げた翡翠の視線の先に、ふたつの人影が浮かび上がる。
ひとつは小柄な好々爺と言った風情の老人で、もうひとつは若木のようにしなやかな体躯の青年である。
「そうでしたか……今まで故老には本当にお世話になりました。言葉に尽くせぬほど……」
「この爺もひいさまにお仕えできたこと、望外の喜びでございました」
「わたくしが故老に初めてお会いしたのは、そう、よっつになったときでしたか」
幼子であったはずの少女は、その聡明さから神童と呼ばれ、次代王を支える者か、王そのものに選ばれるだろうと言われていた。
それゆえに、危機感を抱いたある人が翡翠のために彼を遣わしたのだ。
「いいや。実はひいさまが生まれた時分にお会いしたことがございましてのう。勿体無いことに御方様が爺めに生まれたばかりのひいさまをお見せくださいましたのじゃ。爺の指をしっかと握ってひいさまはお笑いくださった」
懐かしそうに笑った老人が、そう告げる。
「おばあさまが……」
「そのひいさまが大人におなりじゃ。わしも年を取ったはずじゃのう。ようやく跡継ぎが育ってくれたのでな、これを限りにいたそうとこうしてお目汚しをいたしましたのじゃ」
「……そうでしたか」
老人に促され、控えていた青年が静かに前に進み出る。
翡翠よりいくつか年上の、笙成明と同じくらいの年頃の青年は、寡黙な性質なのか僅かに会釈をしたのみで、言葉を発しようとはしなかった。
ただ熱を帯びた視線を主に向けてくるのみである。
「何とお呼びすればよいのでしょう。名をお伺いしてもよろしいのですか、故老?」
軽く頷いた翡翠は、未だ飛梅を統括する役にある老人に問いかける。
「さて。何と答えるかの?」
老人は翡翠に直接答えずに、青年に視線を流す。
「親につけられし名は、今この場で捨てました。我が主に名を頂きたい。春を誘う東風の姫様」
すっと床に片膝をつき、頭を垂れた青年が、低く掠れた声で囁くように告げる。
「わたくしが、東風だと?」
「我ら飛梅を導くは東風の香り。西風の神が最も愛される御方だと伺い、育ちましてございます」
感情を抑えるような掠れ声が低く届く。
その言葉に、翡翠は首を傾げるように考える。
「そう、ですか……東風は春の先触れ……そうして、あなた方がそのわたくしの駆けるいくつもの道を照らす。先駆ける者……そう、『魁』とお呼びしましょう。よろしいですか?」
「ありがたき幸せ。確かに、名を頂戴いたしました」
深々と頭を垂れ、青年が同意する。
「この名、一命を以って姫様にお仕えいたします」
「魁」
すっと立ち上がった娘は、片膝をつく青年の前に歩み寄ると、その肩に手を置いた。
「最初の命を与えます。生涯これを遵守し、違えることないと誓えますか?」
「白き神に誓いましょう」
「では、決して自らの命を絶ってはならぬことを命じます。何があっても生きなさい。例え、わたくしの命に背くことになっても、これだけは守ってください。己の命にかかわるときには、秘中の秘という情報でも口になさい。相手はその情報を鵜呑みには決してしません。訝しみ、疑うことでしょう。その時、隙ができます。その隙があれば、あなたはわたくしの元へ戻ってこれるでしょう」
柔らかな口調で告げられた意外すぎる言葉に、魁の名を与えられた青年は驚いて思わず顔を上げる。
「しかし、それでは……」
「生きていれば、何とでもなります。敵とは他人ではなく、己の心です。生き恥がどうと言うのです? 生きていればこそ、雪辱を果たすこともできましょう。故老のように己の心と戦い抜き、次代へ命を継ぐことができた者を真の勝者というのです。逃げることは負けることではありません。負けるというのは、己の心に負け、自ら命を絶つことです。魁の名に恥じぬように、わたくしの前に立ち続けなさい」
優しげな笑みを湛え、そうしてその笑顔に相応しい声が魁が考えもしなかった言葉を紡いでいく。
魅入られる。
絡め捕らえられる。
確かに自分が主のものなのだと、急速に実感が湧いてくる。
「承知いたしました。生涯これを遵守し、姫様の影として傍に控えさせていただきます」
一族で仕える間者は、主を選ぶことができない。
組織を抜けるときは、一命を落とすときだ。
他の間者の不幸を知る青年は、己の身の僥倖に心震わす。
取るに足らない使い捨ての駒だと、間者を扱う主もいるが、目の前の主はあまりにも綺麗過ぎた。
清廉潔白な人柄だとはその立場上、決していえないかもしれないが、それでもどんな相手でも身分に拘らずに誠実に接してくれる。
それがどれだけ得がたいことなのか、おそらく本人にはわからないだろう。
恋ではないが、恋以上に主に心酔し、溺れてしまいそうな己に魁は目を伏せ、俯いた。
「ひいさまは相変わらず罪作りじゃ。相手の心を奪うだけ奪って、どうなさるおつもりじゃ?」
「奪うつもりなどは毛頭……」
「陽の光たるものはそういうもの。ただ、己の思うままに輝いていると、そう仰せなのじゃな。致し方あるまいのう」
好々爺のような老人はふんわりと笑い、軽く手を振る。
その合図に青年が姿を消した。
鮮やかな消失である。
老人が自分の後釜にと考えるだけのことはあった。
「ひいさま。わしの最後の仕事じゃ」
紅梅の枝に結びつけた文を老人が差し出す。
その手紙を翡翠はすんなりと受け取った。
「故老。これからどうなさるおつもりですか?」
「さてさて、どうもこうもただの爺ゆえに、のんびりと過ごさせていただこうかと」
「のんびりついでに花を相手に茶など嗜みませぬか?」
「はて?」
翡翠の意図が読めず、故老は不思議そうに彼女を見つめる。
はんなりと微笑んだ娘は、執務机の引き出しから小さな箱を取り出すと、それを老人の目の前で開けて見せた。
中には水晶で作られた鍵が入っている。
「これは、花の庵の鍵です。わたくし、実はこの庵の世話をしてくれる方を探しておりました。もしよろしければ、故老、あなたに引き受けていただけないかと」
「花の、庵……ですと!? ひいさま、それは……」
ぎょっとしたように故老の表情が動く。
「たまにで構いません。花と共にお茶でも楽しんでくださいませ」
「……では、御方様はこちらに……」
水晶と金で作られた鍵を凝視し、老人が低く呟く。
「引き受けていただけますか?」
「ひいさまは、まこと、お人使いが荒い。引退した爺をまた扱き使おうと……」
くしゃりと顔を歪め、老人は笑った。
「王太后様が庵に……お元気でいらっしゃいますかの」
「お確かめくださいませ」
「よい仕事を得ました」
飛梅の長は、翡翠の手から小箱ごと鍵を押し頂くと深々と頭を下げた。
「故老。今までありがとうございました」
それが最後の言葉であった。
老人はそのままの姿勢で姿を消す。
そうして、参謀室には翡翠以外の姿はどこにも見当たらなくなる。
それを確認した娘は、先程老人から寄越された手紙に目を通し始めた。