15
麗梨が異国の地を踏んだのは、十と少しを過ぎたときのことであった。
父は羌きっての大族長──皇帝であり、母もかなり大きな部族の族長の娘であった。
武を好み、自由闊達な騎馬の民と称する羌も、ただ馬を駆り、奪うだけを由とはしない。
和を図ることもあるのだ。
そうして、その和を図る手段として、王族同士の婚姻を父帝は選んだ。
近隣諸国の中で最も強大な力を持つ颱国と、婚姻を軸とした和睦。
その贄に選ばれたのが、麗梨だった。
皇女達の中で、最も際立って美しかった麗梨は、颱国の王子と娶されるべく、彼の地へと向かった。
本来ならば、颱国王の妃として差し出すはずだったのだが、第二正妃を失い、喪に服しているこの時期、次の妃を差し出すことは、彼の国の感情を害することだった。
それゆえに、弔問の使者として麗梨を立て、そうして王子達の前で挨拶をさせる。
必ず、麗梨の美貌が彼等の目に止まるだろうと、そう考えてのことだった。
賢帝であった父は、殊の外麗梨を可愛がり、そうして彼女の望むままに知識や技術を学ばせた。それは、この日のためであったのだと、麗梨は知っていた。
何よりも、民の安寧のために、和平が必要だと、それが麗梨ひとりの肩にかかっているのだと諭されれば、断る術はない。
健気にも、勇気を振り絞り頷きやって来た異国に、幼い麗梨は圧倒されてしまった。
白い白い神獣が護る風の国、颱。
同じ草原の民でありながら、どうしてこうも違うのかと、王宮に到着した麗梨はその建物の大きさに圧倒された。
パオと呼ばれる天幕で暮らす彼女達と、風除けの防風林を築き、その内側に街を造る颱とでは、その文化も人も何もかもが違いすぎる。
羌一の美貌を持つと言われていても、まだ幼い少女である麗梨と颱の美女達とでは、格段の差があるように思われた。
白い肌と色とりどりの髪と瞳を持つたおやかな美貌の女性達と、陽に焼けた小麦色の肌の麗梨とでは、その美しさの種類自体が違うのだが、それが彼女にはわからない。
こんなにもみすぼらしい自分が、煌びやかな颱の美女達の中で王子の目に止まることは有り得ない。だが、和平のために、国に戻ることも叶わない。
とても哀しくなって、羌ではとても珍しい噴水の傍で泣いているときに、彼等と逢ったのだ。
「あの、これを……」
そう言って、濡れた巾を差し出したのは、長い黒髪をみづらに結った子供であった。
草原を思わせるような澄んだ若草の瞳は、まるで宝玉のようである。
驚いてその子供を見つめていると、少しばかり居心地悪そうに小首を傾げ、おずおずと声を掛けてくる。
「泣いていると、瞼が腫れるから……姉上がよくこうやって冷やしていたので……」
「……ありがとう」
瞳と同様に澄んだ声からは、男の子なのか女の子なのかはわからない。
だが、見るからに上質な絹を身に纏う子供は、王族か、それでなければ大貴族の子弟であることは確かだ。
「お姉様は、異国の方なのですか?」
丁寧な口調で尋ねられるその子供に、異国の者を侮る色はない。
そう、颱の人々から、羌族を侮蔑するような態度は欠片も見出されなかった。
これが他国──晋や彩であれば、確実に彼等羌の民を侮る視線を向けられただろう。だが、颱の人間は、他国に対しての傲りは欠片もなかった。
「……あ、失礼しました。私は、綜家の末子で翡翠と申します。遠路遙々のお越し、心より歓迎いたします」
子供らしい好奇心が先に立っていた翡翠は、己の失態に気付き、少しばかり恥じ入った様子で完璧な挨拶を施す。
綜家の名を聞いた麗梨は、相手が颱国でも由緒ある名家の子供であることを悟り、さらに驚いた。
翡翠という名は、男にでも女にでも使う名前であるため、やはり性別はわからなかったが、心優しい利発な子供が、一瞬にして油断できぬ相手に変わってしまった。それでも、その子供を憎くは思えない。
「わたくしは……」
「翡翠! いつまでそこにいるつもりだ」
礼を返そうとして口を開いた麗梨の声を遮るもうひとりの子供の声。
仰ぎ見ると、不満げに口をへの字にした少年が立っている。
「熾闇! そこで待っているように言ったでしょう!?」
翡翠と名乗る子供が、きっぱりとした口調で告げる。
その名は、麗梨もよく知っていた。
自分の結婚相手になるかもしれない王子の名前であった。
第二正妃の嫡子である第三王子熾闇と、第一正妃の嫡子である第一王子が、彼女の夫候補である。
第一王子と第三王子の年齢差は丁度十歳。
麗梨とは、どちらも五歳違いになる。
この二人のどちらかが次期王になるらしいが、体の弱い第一王子とまだ幼い第三王子では、やはり頼るべき相手としてはどちらも役不足である。
その意味において、麗梨は絶望した。
「俺を放っておくおまえが悪い! 大体、翡翠は俺に冷たすぎるぞ」
いかにもやんちゃな少年は、怒った素振りで彼女達の元へと近付いてくる。
「それは、熾闇が人の話をきちんと聞かないからでしょう? あまり我儘を言うと、本当に家に帰りますからね」
どうやらお気に入りとの遊びの時間を邪魔され、不快に思っているらしいと気付いた麗梨は、少しばかり困惑しながら立ち上がり、熾闇のために座を譲る。
いくら同じ王族といっても、格が違いすぎる。
そうして、綜家の子供もこの口調からして、王族の血を引いていることは確かだ。
今の自分の立場は、人質も同然である。
彼等の機嫌を損ねてはならないことだけは、麗梨にはわかっていた。
「何だと!? せっかく、こっちへ来たというのに。ホントに冷たいヤツだな!」
「お客様へのご挨拶もできないような方に、翡翠はお仕えしたつもりはありませんが?」
とても子供とは思えない皮肉を即座に返したその賢さに、麗梨は驚き、そうして言われた本人は返す言葉を失う。
「……確かに、俺が無礼だった! 許されよ」
ムスリとした表情に浮かぶのは、自己嫌悪。
かなり素直な気質に育てられたらしい。
とても好きになれそうな子供達を前に、麗梨は初めて笑みを浮かべた。
そうして、彼等に話しかける前に、彼女は自分の前に開かれた道を知った──
夏を間近に控えた風は、草の青臭い薫りを運ぶ。
萌える緑に輝きを増す光。
草原にとって、最高の季節が訪れる。
強い風に煽られ、髪を乱した少年が馬上より遠くを見据える。
彼の眼下に広がるは、広大な草原と、厳めしい軍馬である。
「──先鋒、中堅を前へ。右翼、左翼はそのままの位置に留まれ。敵の出方を慎重に探り、そうして一気に叩き潰す」
近くに控える片腕の様子に安堵しながら、白い甲冑の少年は、冷静に指示を下す。
怪我を負った昨日は、気力で動いていたが、今日は顔色もよく、そうして普段同様に動いているように見え、安心していた。
その大切な乳兄弟のためにも、戦を長引かすわけにはいかないと、そう決めた少年は、彼の軍師が提示した作戦を蹴り、短期決戦の策を持ち出した。
これには彼女もある程度の察しがついていたらしく、すぐにその提案を受け入れ、さらにそれを改良したものを提示した。
今、その作戦に基づき、彼等は軍を動かしている。
「……おぬし達には恨みはないが、この戦、これ以上長引かせるわけには行かぬ。許せ」
誰にも聞こえぬ程の小さな声で呟いた熾闇は、剱の柄を握り締める。
もし、前線に女帝の姿が見えたら、この軍の大将として一騎打ちを申し込むつもりだった。
それが羌の滅びに繋がろうとも、決して退くわけにはいかないと、彼は敵の赤い旗を見つめ、唇を引き結んだ。