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さくさくと草を踏みしめる足音。
本陣は喧騒に包まれていた。
その中を掻い潜り、軍師である娘は主を己の天幕へと案内する。
侍女達に人払いを申しつけ、完全に周囲に人がいなくなったことを確認した娘は天幕ごと結界を張った。
うら若い女性の天幕が珍しいのか、若者は中に置かれている小物をしげしげと眺めている。
その前に、娘は片膝をつき、頭を垂れた。
「お久しゅうございます、我が主」
「うむ。幾年振りか……と、言いたいが、何やら可愛らしい守護者殿だの」
挨拶を受けた麒麟は、鷹揚に頷いて見せたが、すぐに自分と相手を見比べ、腑に落ちないような表情になる。
「いつもおぬしは我より年嵩であったと記憶しているが、何ゆえこのように愛らしい姿をしておる?」
「……機織姫の御意にございます」
「何だ、それは!? 何ゆえそのような真似をする。おぬしを次代の機織にするためか?」
「さて。尊きお方のお考えは図りかねますれば……わたくしは、常に御身の御意に沿う者にございます」
そう告げる翡翠に、麒麟である者は僅かに微笑む。
「相変わらずだな、おぬしは。今生の名を尋ねてもよいか? それと、膝をつくな。我の前で膝を折ってはならぬ」
「わたくしが膝を折る相手は、唯一、あなた様だけにございます。今生の名は、翡翠、と」
「翡翠か。良い名だ。では、翡翠、立つがよい」
手を差し伸べた若者は、宝玉の瞳を覗き込む。
久方振りに出会った守護者を懐かしむような、それでいて嬉しげな笑み。
「主?」
「我より小さい守護者殿は、初めてだ」
「そうでしたか?」
「そうだ。いつもおぬしは我より大きくて、とても強かった」
笑顔で告げる麒麟は、じっと翡翠を見つめ、なにやら思いついたようであった。
「翡翠……我が守護者殿、願いがあるのだが……ぎゅっとしてもよいか?」
「え? ……えぇ。御意のままに」
何を言われたのかと、一瞬、目を瞠った翡翠は、何の抵抗もなく頷く。
無邪気な笑みを浮かべた麒麟は、嬉しげな色を閃かせ、両手を広げると娘を抱き締める。
すっぽりと両腕に納まるのにしっかりとした確かな感触。
何よりも暖かいと感じる温もりと鼓動。
「そういえば、いつも同じ言葉でわたくしの腰の辺りにしがみついてきましてたね、あなたは」
かつての記憶の中で、いつも年下だった麒麟は守護者に甘えるように腰の辺りに抱きついてきた。
それだけの身長差があったのだ、いつもは。
だが今回に限っては、彼の方がほんの少しだけ年上で、性別の差から背も逆転してしまった。
そうしていつもじゃれるように抱き締めてくる。
今まで気にもしなかったが、あの癖は麒麟の記憶の片鱗だったのだろうか。
「追いつきたいと思っていても、おぬしは我よりも遥かに大人で強かった。天帝位に就けば、おぬしは役目が終わったとばかりに我を置いて逝く。おぬしに護られてばかりで、我はおぬしの力にもなれず、やっと力を手に入れれば、おぬしは我を置いて時の彼方に去ってしまう。我もおぬしを護りたいといつも思っていた」
「……良かれと思っておりましたが、哀しませていたのですね」
「おぬしのせいではない。おぬしには感謝しているのだ、守護者殿」
抱擁を解いた麒麟は泣きそうな笑顔で告げる。
「幸いにも今生の我は長年の望みを叶えた。おぬしを護る力も地位も手に入れた。ずっと傍にいられる」
「……我が主」
「我侭を言ってもよいか?」
首を傾げ、翡翠の瞳を覗き込む。
奇しくもそれは熾闇の癖とまったく一緒であった。
笑みを浮かべた翡翠は、ゆっくりと頷く。
「我は今生は決して天帝位に就かぬ。人として終えたい。駄目か?」
「御意のままに、我が麒麟」
おそらくそれは熾闇も望むことだろうと、娘は承知する。
「もうひとつ。我を置いて先には逝くな。我を護るなとは言えぬ。それがおぬしの存在意義だと知っている。だが、我を置いては逝くな……絶対に」
癒しきれぬ傷を内包した声だった。
どれだけ願っても、常に置いていかれる悲しみが降り積もった痛み。
自分が傷つけてきたのだと知り、翡翠の中の守護者の意識が痛みを覚える。
ただ護りたかった相手を他ならぬ自分が傷つけてきたのだと知った悲痛。
守護者を失うたびに、天帝位に就いた麒麟は慟哭してきたのだろう。
此度の天帝位を退けるほどに。
「……承知」
言霊に誓い、告げてもいいと、柔らかな笑みを浮かべて囁く。
「ありがとう」
短い承諾に麒麟は嬉しそうに微笑む。
「傷の手当てをさせてはいただけませぬか、我が主」
本来の用件を思い出し、翡翠は問いかける。
「……傷?」
手の甲に視線を落とし、麒麟は首を傾げる。
「血は止まっているし、掠り傷だ。手当ての必要もないほどだが?」
「わたくしが拘ります。我が主君に掠り傷でも傷を残すことをわたくしが許すとでも?」
きっぱりと言い切る翡翠に、麒麟は苦笑する。
「本当に、相変わらずの心配性だ。それゆえ、此度の我もおぬしを好いておるのだろう。のう、翡翠」
「はい?」
「この傷ゆえに我は目覚めた。本来ならばまだ眠るべきであろうが、此度はそうもいかぬらしい。何やら天界の動きが不穏のようだ」
少しばかり気配を探るように小首を傾げた若者は、真顔になってそう告げる。
「何も知らぬ我が身を抱えては、おぬしも辛かろう。かと言って、我が目覚めたままでは何かと支障も出よう。いずれは融合すべき記憶の欠片のような我だ、このまま少しずつ、時間をかけながら此度の我に溶け込もう。少しでもおぬしの役に立ちたい」
真摯な言葉を紡ぐ麒麟に、翡翠は小さく頷く。
「わたくしは永劫に御身の僕にございます。我が主の決められたことに否やを告げることがありましょうや」
「多少混乱することもあろうが、よろしく頼む」
「御意」
承諾する翡翠に笑いかけ、麒麟はゆっくりと意識を沈み込ませていく。
手の甲の傷を消すために、麒麟の守護者は主の手に接吻ける。
「うわぁ!! な、何だ!? なに……」
突然、狼狽えたような叫び声が頭上から聞こえてくる。
本来の自我である熾闇が目覚めたようだ。
その騒がしい様子に、娘は苦笑を浮かべた。
紗がかかったようにぼんやりとしていた熾闇は、いきなり意識がはっきりし、目の前の状況に心底驚いた。
いつの間にか翡翠の天幕にいて、その翡翠が彼の手に唇を押し当てているのだ、驚かずにはいられない。
だが、翡翠はというと、呆れたような笑みを浮かべ、彼の手を取り、その甲を本人の目の前に差し出して見せた。
「え? あ、あれ?」
「傷の手当てをしておりました」
迷いない口調は、彼女の行動を裏付けている。
「そ、そうか……いつ、怪我したんだ、俺は?」
「怪我したことさえ忘れられるようなお年になられましたか、三の君様は」
同じ年のクセして強烈にあてこすってくる娘に、何となく嫌な予感を覚える。
「怪我をしたら笑ってさし上げますと申し上げたのに、このような傷をお作りになって、その上、覚えていらっしゃらない、と」
「あ、あははははは……すまん!」
絶対に怒っていると理解した熾闇は、笑って誤魔化そうとしたが、翡翠の視線に耐え切れず、咄嗟に謝罪を口にする。
「それで、手当て、か……」
納得して呟けば、呆れたような溜息が聞こえてくる。
「お貸しくださいませ」
言葉は丁寧に聞こえるが、口調に容赦はない。
再び熾闇の手を取った翡翠がその手の甲へと唇を落とす。
掠めるような柔らかな感触の後、ぽうっと暖かく感じ、そうして驚くべきことに傷が消えていた。
「……翡翠、これは……?」
「この程度であれば、力を振るうことができます。このような他愛もない怪我をなされる主を持つと、薬の調合も面倒になってきますからね」
「や、申し訳ない」
自分もよく怪我をするくせにとは、熾闇にはとても言えない。
翡翠の場合は、戦場ではなく、日常の中での些細な怪我であるのに対し、熾闇の場合は戦場である。
一撃必殺の相手であれば、剣の刃に毒を塗布していることもよくあるのだ。
従妹が心配するのも無理はない。
相手が韓将軍であったため、毒の危険性については心配してはいなかったのだろうが、やはりやってしまったことに変わりない。
「それで、韓将軍は?」
「速やかに退却し、燕へ向かっておられます」
「……そうか」
こんなことはありえないのだが、戦いの途中から記憶がぼやけている。
完全に失っているわけではない。
そうであれば、大問題だ。
だがしかし、何故記憶が半分飛んでいるのか、理解できないのだ。
「怪我を負った分だけ、俺の負けか……口惜しいぞ」
「あれだけの大物担ぎ出しての負けですからね」
「……俺が悪かったって、翡翠。心の傷口に塩を塗りこむような真似はやめてくれ」
容赦のない言葉に、どれだけ翡翠が心配していたかを知り、第三王子は素直に反省する。
「一日休養してから、王都へ戻るか」
「御意」
敵が退却したからといって、戦は終わりではない。
事後処理が山積しているのだ。
まずは、遺体を手厚く葬ること。
もちろん、敵と味方の区別することなく行う。
他にも怪我人の手当てや詳細な報告を受け、褒賞などを決めていかなければならない。
それから、戦で荒れた大地を整えてやらなければならないし、戦の様子を克明に記録しなければならない。
敵の進入路を分析し、その場所から進入できないように仕掛けを施すというのも、やはり仕事のうちだ。
誰に何を分担させるのか決めることは翡翠の役目だが、勿論、熾闇もそれについて承知していなければならない。
事後処理に面倒ごとが多いから戦などない方がよいと、反戦論者でありながらいささか怠け者的発想で彼は溜息を吐いた。