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己の天幕へと戻った翡翠も、鎧を外し、濡れた服を着替えると、乾いた布で髪の水分を丁寧に拭き取っていた。
侍女たちが気を利かせて手伝おうとするのを断り、彼女は一人で仕度をする。
いくら侍女たちが彼女に仕えているからといって、そう簡単に用事を頼むような娘ではない。
彼女達もまた女子軍の将兵であり、仕事がいくらでもあるのだ。
個人的な些末事に拘らせるわけにはいかないのだ。
「姫様。青牙様以下、殿下方がお見えになられておりますが、お通ししてもよろしゅうございますか?」
衝立の向こうから、鈴蘭が静かに問いかけてくる。
「構いません。お通しなさい」
髪を拭く手を止め、翡翠はすぐに応じる。
「畏まりました」
気配が消え、そうして数人分の気配がこちらへと近づいてくる。
「お休みのところを失礼します、翡翠殿」
扉代わりの幕布を持ち上げ、声をかけた青牙が、衝立から顔を出し、驚いたような表情を浮かべた後、すぐに目礼し、何事もなかったかのように衝立へと隠れる。
「申し訳ありませんでした。お仕度の途中だったのですね」
同じ年の兄とは大違いの対応で、彼は従姉妹に謝罪する。
「もう済んでおります。こちらこそ、お気を遣わせて申し訳ありません」
髪に当てていた布を折り畳み、卓子に置いた翡翠は従兄弟たちに声をかける。
「いえ。非礼はこちらに。女性の天幕へ押しかけるような真似をしているのですから」
生真面目に応じた青牙は、ひとつ下の弟達に頷いて見せ、衝立の奥へと足を運ぶ。
「無事のご帰還、お慶び申し上げます、従姉妹殿。お聞かせいただきたいことがあり、お訪ねいたしました」
「わたくしに答えられることでしたら、何なりと」
王族とは言え、官位が上位に当たる従姉妹を前に、彼らの態度も自然と丁寧なものになる。
それを知る翡翠も、穏やかに、そして厳粛に応じる。
「今更ながらと、お笑いになられるかもしれませんが、韓将軍を我が軍へ招くその理由をお尋ねしたいのです」
一度信頼した相手に対しては、疑うことを知らない兄王子とは違い、弟王子たちは、他国の将を招くことに懸念を抱いたらしい。
それは、ある意味、尤もらしい疑念でもあった。
「理由、ですか」
ぽつりと呟いた翡翠は、彼らに座るよう床机を勧める。
彼らが座るのを見届け、右大臣の末娘は小首を傾げる。
どう答えようかと思案するような表情でもあり、笑みを堪えるような表情でもあった。
「ありません」
「は!?」
無表情にきっぱりと言い切った娘の言葉に、驚愕の表情を浮かべて異口同音に叫ぶ王子たちに、翡翠はくっと肩を揺らして笑う。
「失礼。冗談です」
くすくすと声を殺しながら笑う軍師に、王子たちは顔を顰める。
だが、その一言が、緊張感に溢れていた彼らの心を解き放ったことは自覚していた。
自分達の緊張感を解すための茶目っ気なのだと素直に理解できるのだが、真面目な表情で冗談を言わないで欲しいと、若者達は不満げに思う。
「韓将軍は、和平への布石です」
女性にしてはやや低めのしっとりとした声が、柔らかな口調で理由を告げる。
「畏れ多くも陛下や三の君様が、戦のない世を望んでおられることはご存知でございましょう?」
さらりと音を立て、艶やかな黒髪が肩から滑り落ちる。
その軽やかな音に敵う優しい言葉であった。
「戦のない世を現実にするためには、色々と布石が必要でございます。敵対していた国の将を招き、相応に優遇する。この意味が、おわかりになれますか?」
「……颱という国の度量の広さを示すと共に、戦をすること自体が馬鹿らしく思えてきますね。初めから争うよりも、益なる情報を手に降れば、さらに優遇されるかもしれないという気にはなります」
ふと考え込んだ第九王子珀露が、冷静に指摘する。
「そうなると、戦を仕掛ける方としても、勝てぬ戦をして負け、頼みの武将を引き抜かれては、戦を仕掛けるほうが損をすると思うようになりますね」
珀露の言葉を受け、青牙が呟く。
「ですが、兄上のお好みとは違う気もいたします」
「ともあれ、戦が減ることは、兄上や父上のお望みであると思いますが? 五の兄上」
第七王子麟霞がきっぱりとした口調で告げる。
母親同士が血縁であるため、驚くほど麟霞は熾闇に似ている。
「兄上方のお言葉も一理ありますが、翡翠様の本来の目的は他のところにあるのではないでしょうか?」
第八王子晴璃が穏やかな眼差しで従姉妹に問いかける。
「それは……確かに、私もそう思います。韓将軍でなくてはならなかったという理由があるのですね?」
兄の言葉に、珀露も頷く。
翡翠が親衛隊の参謀にと考えるほど、珀露は冷静に状況を判断する。
「はい」
及第点ともいえる質問を口にした珀露に対し、翡翠はにっこりと微笑む。
「燕の総大将ではなく、韓聯音という武将だからこそ、颱に来て欲しいと願うのです。あの方は、ご自身が気付かれずとも、稀有な資質の持ち主です。不幸にも、主に恵まれぬゆえにその資質を開花させることができませんでした。熾闇様が、あの方が探されている主であるかはわかりません。ですが、その万が一に賭けたいのです」
笑みを捨て、真剣な表情で告げる軍師の言葉に、王子たちはごくりと息を飲む。
天才軍師と呼ばれる綜家の末姫が、ここまで気にかける相手がただの武将だとは思えない。
「……羨ましいな。あなたにそこまで言わせる男がいるなんて」
どこか口惜しげな表情を滲ませて、青牙が呟く。
「すべては王太子府軍と颱のためです。もし、仮にわたくしが軍を離れた時に、三の君様をお諌めし、他の武将方を取り纏める器量を持つ方がもうひとりいていただきたいのです。失礼ながら、殿下方は、兄君に心酔しておられ、お諌めなさるようなことは……」
言葉を濁し、娘は苦く笑う。
軍神の申し子と言われる熾闇を諌める役を担っていたのは、今は亡き一の王子であった。
そうして、それを継ぐべき二の王子も、呪縛に捕らえられ、悪影響が出る前にと死を望み、五の王子青牙の手にかかって散った。
兄の真意を知らず、その手に踊らされ、手にかけてしまった青牙は、今でもそのことを悔やんでいる。
それゆえに兄のことを決して口に出さぬ翡翠の思いやりに感謝すると共に口惜しく思っている。
未だ、彼女に思いやられる存在でしかないのだと。
「利将軍おひとりでは、犀将軍や莱将軍を抑えるのはお気の毒ですからね」
朗らかな口調で告げた翡翠に、王子たちもかすかに笑う。
「ところで、翡翠様。軍を離れるというのは、何が理由なのでしょうか」
冷静な表情のままで、珀露が切れ長の瞳を従姉妹に向ける。
「何が、と仰られましても、仮定でしかございませんので、しかとはお答えできかねますが……わたくしは、女子軍を預かる身でもありますゆえ、女子軍の指揮を執るために王太子府軍を離れることもございます。また、文官の位をも戴いております。文人としての仕事があるときには、もちろん」
穏やかに、にこやかに答える軍師の言葉に、麟霞があからさまに、晴璃もわずかにだがほっとした様子を見せる。
だが、青牙も珀露も表情が硬い。
それ以外の想定も理解している表情だ。
しかしながら、翡翠はそれらのことには触れず、穏やかな笑みを口許に刷いたままだ。
「疑問の点、納得いきましたでしょうか?」
「大方は……すべてにお答えいただきたいところですが、それは叶わないのでございましょう?」
珀露の言葉に青牙が頷く。
それで翡翠は合点がいく。
何故、今頃になってこんなことを聞きに来たのか。
珀露が翡翠の真意を聞き出そうと、青牙を担ぎ出したのだ。
珀露ひとりでは、下位の武官が上級武官に質問など許されない。
だが、武将の一人である青牙と、他の王族が揃えば、王子の立場にある者として対等に尋ねることができるからだ。
そしてそれを知りながら、あえて弟達を庇うために出てきた青牙も人が好い。
柔らかな笑みを浮かべ青牙を見つめると、双子の弟王子は決まり悪げに視線を彷徨わせる。
「えぇ。お考えくださいませ。ただ、韓将軍を手に入れることができれば、颱は平和の道を歩くことができるでしょう」
「あなたのお考えは理解いたしました、碧軍師。我々は、あなたと兄上に従います。いつまでも」
青牙がゆったりとした仕種で一礼する。
「では、我らはこれで」
「……青牙殿」
踵を返し、出て行こうとする王子の背に翡翠が声を掛ける。
「わたくしは何時如何なる時でも熾闇様の意に従います。ですから、あの方の御意志がない限り、彼の君を王位に就けようとする輩が動けば、遠慮なく排除いたします。どうか、ご理解くださいませ」
感情のない声であった。
弟王子たちは皆、熾闇が次の王に相応しいと考えている。
しかしながら、熾闇本人は、王位に興味なく、武将としての一生を望んでいることは明白だ。
誰よりも熾闇に忠実である翡翠がそう告げるのは、納得ができる。
暗に動くなと釘を差されて、青牙は黙り込む。
明言したからには、翡翠は容赦しないだろう。
紅牙は熾闇を王に、そしてその正妃に翡翠をと画策している。
双子の片割れの動きを知りながら、どちらにも組することができない青牙に大義名分を与えたのだと気付いたのは、それから少し後のことであった。