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白虎の宝玉  作者: 西都涼
蠢動の章
140/201

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「翡翠!」

 一番最後に陣へ戻ってきた綜翡翠に明るい声がかけられる。

 幼い頃に比べるとかなり低くなった、それでも屈託のないそうして意志の強さを秘めた声。

「三の君様」

 彼女の唯一の主である第三王子熾闇の姿を認めた翡翠は、柔らかく優しげに瞳を眇める。

「ただいま戻りました」

「あぁ。首尾はどうだ?」

 にっと悪戯っ子のような笑みを浮かべた若者は、馬の横へと立ち、娘に向かって手を差し伸べる。

「お気が早い。まだ種を蒔いただけですよ」

 くすりと笑った娘は、手綱から手を離すと、差し出された腕に手を這わせ、従兄に支えられるようにして馬から下りる。

 ふわりと軽やかに馬の背から宙を舞った翡翠は、すとんと地へと降り立つと熾闇の腕の中に納まる。

「そうか。慎重に手順を踏んでいるんだな」

 小姓に手巾を持ってくるように言いつけ、望みの物を手にした若者は、それで雨に濡れた従妹の艶やかな黒髪を拭き始める。

「殿下!? いきなり何をなさっておられるのですか」

 驚いた翡翠が問いかけると、不思議そうな表情で熾闇が己の手と従妹を交互に見やる。

「何って……風邪を引くから、髪を乾かそうと思って拭いているんだか……?」

「王族が臣下の髪を拭くなど、以ての外です! 人前でなさらないでくださいませ」

「……ん。人前じゃなければいいんだな」

「意味が違います」

 熾闇の手から手巾を取り上げると、若者は残念そうに、そしてどこか恨みがましい視線で翡翠を見つめてくる。

「俺がしたかったのに……」

 いつも翡翠にやってもらって気持ち良かったから、今度は自分がしてやろうと思っていた熾闇は拗ねる。

「ありがたい仰せですけれど、自分でやれますから」

 溜息混じりに告げた娘は、視線を周囲に配る。

「成明殿と青藍殿は?」

「うん。青藍が成明を天幕へ連れて行ったところだ。濡れた姿で御前に参ることはできませんと言ってな」

 肩をすくめた総大将は、そう素直に答える。

「俺は別に構わないが、今日の武勲は成明のものだからな、風邪を引いて台無しにするわけにもいかぬから」

「左様でございましたか。では、青藍に任せることにいたしましょう。わたくしも御前を失礼いたします」

「うん。ちゃんと乾かして、暖かくして来いよ」

「御意」

 暢気な声をかける王子に、綜家の末姫は優雅に一礼をして踵を返した。




 燕軍本陣では、事態収拾に追われていた。

 何と言っても開戦の一矢。

 颱軍の軍師が放った矢が、想像を絶する遠距離にもかかわらず、燕軍の軍師の眉間に突き刺さり、かの軍師は煙と消えてしまった。

 その事実が燕を混乱に陥れる。

「軍師が死した後、煙となって消えた。あれは魔物だったのか……」

「魔物に組したこの戦、神が護る颱が相手では絶対に負ける」

「やはり、無謀だったのだ。御大将の仰る通り、颱ではなく彩を相手にすればよかったものを」

 過ぎたことをぐちぐちとぼやく兵達に、韓聯音は盛大に顔を顰める。

 できる限り兵を鍛えてきたつもりだが、やはり颱に比べると燕の兵は三流だと思えてしまう。

 兵が欲しかった。

 彼の手足となる忠実で有能な兵が。

 そうして、彼が仕えるに値する主が。

 どこにいるというのだろうか、そのような相手が。

「韓将軍! 王へはどのように報告をいたしましょうか!?」

 燕との伝令役である兵士に声をかけられた聯音は、肩越しに振り返る。

「報告? 見たままを話せばよいだろうが。私見を交えずに、素直に報告すればいい。軍師殿が魔物か神族かなど、俺にはわからん。ただ人ではなかったことだけは確かだ」

「はっ!」

 思わぬ真実を突かれ、驚いたように目を瞠った伝令は、拱手をするとすばやくその場を立ち去った。

「俺の力を活かせる場所、か……」

 落雷と豪雨の中、誰も翡翠の言葉を聞いた者はいなかった。

 雷鳴が声を消してくれるとわかっていたから、彼女はあの時言ったのだろう。

 常々思っていたことを、誰かに指摘されるほど面白くないことはない。

 だが、誰かに気付いて欲しかった。

「あるのか、あの国に……」

 ふと思いを馳せてしまいがちになるが、彼には今やらなければならないことがある。

 軽く首を横に振って、聯音は己の仕事に戻った。




 着替えを終わり、本陣の天幕へと向かった翡翠を迎えたのは、将たちの暖かな眼差しであった。

「お見事でした。軍師殿」

 利南黄が陽に焼けた精悍な頬に笑みをかすかに浮かべて告げれば、嵐泰が静かに頷く。

「次は私を供に」

 莱公丙がにっと笑って誘いをかける。

「麗しの軍師殿の華麗なる演舞を見逃してしまいましたが、無事のお戻り、お喜び申し上げます」

 少しばかり残念そうな表情で後衛にいた犀蒼瑛が告げると、青牙が真面目な表情を作る。

「見事な一矢でした、従姉殿。まさに神技と思いました」

「えぇ、間近で見た私も鳥肌が立ちましたよ」

 共に先鋒で軍の指揮を取っていた笙成明までもが同意する。

「大袈裟ですよ、皆様。あれは、風に乗せただけですし、成明殿と青藍殿がいらっしゃったからできた賭けのようなものです」

 最初から賭けに勝つつもりでいたくせに、心から謙遜する娘に男たちは微苦笑を浮かべる。

「おい。翡翠が人並み外れて凄いのはいつものことだから置いといて、軍議を始めてもいいか!?」

 正面に据えられた床机に腰掛けていた熾闇が、退屈そうに声をかける。

「おや。それは失礼いたしました」

 くすりと笑った娘が、主の許へと歩を進める。

「明日は俺が出てもいいんだろう、翡翠?」

 期待を込めた瞳がまっすぐに翡翠を見つめる。

 段取り通りであれば、決して断られることはないと確信しての言葉だろう。

「わたくしもお傍に控えさせていただきますよ」

「勿論だ」

 にんまり笑った若者が、嬉しそうに頷く。

 そうして翌日、彼の思惑通りに熾闇は前線に立つことになったのだ。

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