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「韓将軍! 颱軍が動きました!!」
燕の斥候が、鋭い声で注意を促す。
「さらに二騎、前に出ます……女だ!!」
驚愕を孕んだ声に、のんびりと床机に腰掛けていた漢はゆらりと立ち上がる。
「慌てるな! 女だろうが、颱の兵士は油断ならぬと前の戦で身体に刻み込んだろうが」
燕では女が剣を持つことがないゆえか、女兵士の姿に動揺しがちである。
それを苦笑して宥めた男の目が突出してきた騎馬に向けられ、丸くなる。
「おお、こりゃまた別嬪さんだ」
すっきりとした姿の兵士に、顔も良く見えない距離であるのに聯音は美人だと決めつけ、相好を崩す。
「早う射よ! 射落としてしまえ!」
その隣で、狂ったように命じる黒衣の男の言葉に、聯音は不愉快そうに顔を顰めた。
「風向き、距離、どれを取っても矢は届かぬが、軍師殿?」
皮肉気に肩越しに告げれば、異国の男は忌々しげに顔を顰める。
「冷静な判断は良いが、己の無様を披露して何とする!? 届かぬなら、届くようにするが武人ぞ」
「大弩でも届かぬ距離でか? 軍師殿は荒唐無稽なことを仰る。実戦を知らぬ方は何とでも言えるな」
聯音のあからさま過ぎる言葉に、傍にいた反軍師の兵士たちも嘲笑を浮かべる。
現在、韓聯音の意志とは裏腹に、燕軍は大将派と軍師派とに分かれていた。
軍師を仰ぐ者はごく一部で、その大半は韓総大将を主と戴いていたが、それでも分裂していることに憂慮している聯音は、何とかしてこの不気味な男を本国へ返そうと企んでいる。
「韓総大将! あれをご覧ください!!」
斥候の言葉に、視線を転じた聯音は、面白そうに笑みを刻んだ。
馬上で風を受け、疾走すると高揚した気分になる。
それは何も翡翠に限ってではない、騎馬の民なら誰でもそうだろう。
このまま、どこまででも走って行きたい気分になる。
赦されるなら。
だが、今回は走ることが目的ではない。
手綱を放した翡翠は、鐙に足をかけたまま立ち上がる。
両膝で馬の胴を押さえ、それだけで愛馬を操る。
このくらいなら、颱の人間なら子供でも簡単にやってのける。
「申し分ない風ですね」
左手に長弓を持ち、のんびりと笑って告げる軍師に、隣を走る娘が苦笑する。
「その余裕があれば大丈夫のようですね。派手に行きましょうか」
翡翠の背には矢筒がない。
矢を持っていたのは、青藍である。
白金の髪の娘は、矢を手に取ると、翡翠へと手渡す。
「ふふっ……さぞかし熾闇様も残念がることでしょう。敵の度肝を抜くのがお好きな方ですから」
楽しげに笑った翡翠は、気負うこともなく矢を番え、狙いを定めて放った。
「燕よ! 心ある者はよく見よ!!」
凛とした声が草原に響き渡る。
それほど大きな声ではない。
だが、不思議と心に響く声であった。
「そなたらが軍師の真の姿を!」
その言葉に、ぎょっとした燕の兵士達は己の軍師を注視する。
「騙されるでないぞ! あれは陽動じゃ」
颱の娘──麒麟の守護者の真意を読み取れず、軍師は動揺しながらも否定し、味方となった人間達を鼓舞する。
「早う射よ! あの娘さえ居ねば、颱は崩れる……ぎゃああ!!」
憎き敵を見据えたはずの男の眉間に矢が生える。
翡翠の放った矢が、軍師の眉間へと見事に突き刺さったのだ。
弩で届くかどうかの距離で、しかも眉間という非常に難しい急所を狙い済ました娘の神技とも言える見事な技量に度肝を抜かれた燕陣営は絶句する。
だがしかし、本当に言葉を失ったのはその直後のことであった。
聞き苦しい絶叫を放った異国の軍師の身体が、さらさらと崩れ去り、風に乗って消えていく。
人は、死した後は骸となる。
骸が残らぬのは人ではないせいだ。
矢に触れたのは、二人の娘。
矢を手渡した娘は青く澄んだ破邪の瞳を持ち、矢を放った娘は封魔の翡翠の瞳を持つ。
護符として最上級の色彩を持つ娘達だ。
遠目でもはっきりとわかる見事な瞳の色を持つ彼女達が魔ではなく聖であることは、本能的な確信であった。
清らかな者達が放った矢で絶命した男は、骸を残さず消え去った。
「あの軍師は、『魔』か……」
天界の者も死すれば、力の源であった器を失うのだが、そのことは知られていない。
そもそも、天界の者達は不老不死であるという刷り込みがなされている。
永遠にも近い生を紡ぎ、肉体への影響が微々たるものであったとしても、彼らもまたいつかは死する存在であると知る人は少ない。
それゆえ彼らは、翡翠の矢で絶命した男を天界の者だとは思わなかった。
魔に加担した国と、神が守る国。
どちらに理があるか、自ずと知れている。
「……あ……」
この戦、負けてしまうと、燕軍は浮き足立つ。
「狼狽えるな! 軍師は戦場の理に於いて倒された、ただそれだけのことだ。怯えることはない」
朗々たる声が一喝する。
その声で我に返った者達が、己の総大将に視線を向ける。
「己のすべきことを思い出せ! 全軍前進!」
剣を手にした韓聯音が大音声で指揮を執る。
平常心を取り戻した燕は、武器を手に前進した。