136
その日、風は北から吹いていた。
颱軍の背から吹く追い風は、勝機を運ぶと翡翠は淡く微笑む。
この日、彼女は皆の反対を押し切って最前線へ先鋒として立つ。
左手には鮮やかな五色の糸を巻きつけた淙国製の長弓。
右手には鷹を模した冑。
すでに瞳と同じ色の鎧を身につけ、凛々しい若武者振りである。
どうしても、この戦を有利に進めるためには、今日、翡翠が先陣を切る必要があった。
天才軍師と名高い彼女の言葉を退けられるような武将達はそういない。
軍議は紛糾の様相を見せるかと思われたが、たったひとりの反抗を除いては簡単に賛同を得ることができた。
「翡翠!」
全身、白い軍装の若者が、やや不機嫌そうに彼女を呼ぶ。
「……三の君様」
まだ機嫌を損ねている総大将に、副将であり軍師である娘は呆れたように彼を見やる。
「冑を貸せ! 緒を締めてやる」
ぶすりとしたままの表情で手を差し出す王子は、一応妥協しているつもりなのだろう。
仲直りの糸口を探る子供のように、その態度はたどたどしい。
「三の君様?」
「鎧組紐の礼を言ってなかったな。俺のは白で、成明のは翠なのだな」
冑を差し出さない翡翠に業を煮やし、奪い取った熾闇は、ぼそりと呟く。
鎧の肩を留める組紐を恋人の髪で編み上げた綾紐にすれば、必ず生還できるという呪いを以前、成明から聞かされた翡翠が、成人の儀に切り落とした髪で綾紐を作り贈るという約束をしていたのだ。
その言葉通り、熾闇の分には白の絹糸を、成明の分には翠の絹糸を織り込んで、見事な組紐を作り上げた娘は、今度の戦の前にふたりに渡したのだ。
「えぇ。鎧の色に合わせました。冑緒は自分でいたしますから」
素直に頷いた翡翠は、冑を受け取ろうと手を伸ばす。
それよりも早く、赤紫色の癖毛の若者は冑を従妹の頭に被せてしまう。
慎重に位置を直し、鮮やかな糸を縒って紡がれた緒を意外と器用に結びつける。
「ほら、できた。俺もそこまで不器用ではないと思うぞ」
自慢げに笑った王子は、肩口で結わえられた黒髪に指をくぐらせ弄ぶ。
「翡翠、無理はするな。韓聯音は惜しいと思うが、おまえと比べるまでもない。おまえに怪我をさせるくらいなら、韓将軍を討った方がまだマシだ。優先順位を間違えるな」
まっすぐに、上から従妹の瞳を覗き込んだ若者が、そう告げる。
「御意」
白皙の美貌が僅かに綻び、緩やかに頷く。
「お話中、申し訳ございません、上将」
そこへ爽やかな声が割り込む。
「おう。笙将軍か」
笙成明の声とわかり、熾闇の瞳が和む。
「は。失礼をいたします」
「許す。時間か?」
「御意」
緑青の鎧に身を包んだ成明が、律儀に頷く。
「先鋒、前衛の準備が整いました。後は、軍師殿の号令を待つだけにございます」
「……そうか。成明、翡翠を頼むぞ」
「この命に懸けましても」
年若い男達が大真面目に言葉を交わすその隣で、美貌の軍師が呆れたようにそのやり取りを眺めている。
「まぁ、大層な仰りようですこと。まるで負け戦に臨むようですね」
「負け……おまえが策を練ったのに、負けるわけがないだろう!! だがな、相手がおまえの命を狙っているとわかっている以上、どんなに用心しても足りるということはないと思え!」
「韓将軍は、わたくしの命など狙いませんよ。それに、その韓将軍を今から口説きに行くのですから」
軽やかに笑った娘は、ふわりと愛馬の背に飛び乗る。
「翡翠!」
「このような無骨者の口説きに乗ってくださるかどうかわかりませんが、全力を尽くしてまいりましょう。高みからご照覧あれ」
手足のように馬を操り、先頭へと向かう翡翠の背を眺めていた熾闇の顔が紅く染まる。
「麟霞! 晴璃! 珀露! 手柄を立てたくば、翡翠から離れるな! 成明、頼むぞ」
「御意」
慌てて追い駆ける三王子とは対照的に、穏やかに微笑み拱手をした成明が身を翻す。
「犀蒼瑛! 青牙! 後衛の指揮を執れ! 利南黄、莱公丙は本隊を預ける! 嵐泰! 遊撃軍はおぬしだ」
それを見送った総大将が、次々と配置を告げる。
名を呼ばれた将軍達が、己の場所へと移動する。
俄かに活気付いた本陣に、不機嫌そうに佇む総大将。
ゆっくりと深呼吸をした若者は右手を上げ、そうして振り下した。
銅鑼の音が賑やかに鳴り響く。
それは開戦の合図である。
「先鋒、前衛軍、前進!」
声、高らかに、翡翠と成明が唱和する。
「前進!」
次々と唱和が重なり、騎馬が動き出す。
「成明殿、青藍殿をお借りしますよ」
にこやかに笑って告げた娘は、愛馬の腹に軽く蹴り入れ、速度を上げる。
黒と白金の髪の娘達が、二軍の先頭に躍り出、さらに彼らを引き離して素晴らしい速度で前へと進む。
その卓越した馬術に、先鋒、前衛の二軍を任された成明は苦笑した。