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白虎の宝玉  作者: 西都涼
揺籠の章
12/201

12

「……何だと? もう一度、申してみよ」

 本陣の巨大な天幕の中央部で、床几を蹴倒して立ち上がった熾闇は、目の前に跪いて奏上する武将に、怒りのこもった視線を向けた。

「はっ……刺客を放った主は、二の君、莱軌様にございます」

 莱公丙は、主の心中を思い、陰鬱な表情で再度告げる。

「──なんと!」

 ざわりと声が上がる。

 てっきり、羌国が大将を射止めんが為に放った刺客だと思い込んでいたのだが、それが自国の、しかも庶子とは言え第二王子が仕組んだことに、苦々しく思う。

 元々彼等は、第二王子のことを快くは思ってはいなかった。

 病弱ながら、政治面で王を助ける第一王子と、幼い頃より戦場で馬を駆り、国を、民を護ろうと懸命に動く第三王子の間に立ちながら、戦場で剣を握ることもなく、民人の暮らしを憂いることもなく、ただ口先で不満だけを述べる中途半端な王子に、不満と軽侮の念を持ちこそすれ、心からの尊敬など、欠片も持ち合わせていない。

 ただ、主である熾闇が、年長者たる兄達に素直に懐いていたからこそ、表面上は敬っているふりをしていたに過ぎないのだ。

「何故、兄上が俺を……翡翠を!!」

 驚いてはいるようだが、その声には悲痛な色はない。

 あまりにも驚きすぎて、感情が追いついていないのかもしれない。

「それは、意趣返しのつもりだったのでしょうねぇ。風舞の大祭に、思いっ切り軍師殿に振られたようですから。殿下が邪魔だったのでしょうよ」

 ひとり、ケロリとした表情で告げたのは、犀蒼瑛だった。

 大祭の熾闇と白虎の喧嘩の原因を問い詰めた彼は、傍観者ならではの冷静さで、事の核心を掴んでいた。

 王位に有り余る執着を抱く王子が、白虎のお気に入りである翡翠を手に入れようとし、それが叶わぬことを知ると、その原因たる第三王子を害しようと短絡的行動に出た──と、あまりにもお粗末な話だが、本人にしてみれば、壮大な計画だったのだろう。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい話に、武将達の表情が苦々しいものになる。

「────莫迦か?」

 眉根を寄せ、理解できないとばかりに吐き捨てた熾闇の顔に浮かぶ、純粋な怒り。

 そう、少年は怒っていたのだ。

「殿下、いつまででもそのお姿では……お着替えを」

 見かねた小姓が、手に着替えを差し出すが、血に染まった戦衣を身に付けた熾闇は、まったく頓着せずに、手を振って彼を下がらせる。

「殿下!」

「翡翠の血だ。かまわん!」

「……ですが」

「かまわんと言っているだろう! 下がれ!」

 ものすごい剣幕で一喝すると、総大将である少年は、イライラと天幕の中を歩き回る。

 小さな砦ぐらいの大きさはあろうかという大きな天幕を厚い布で仕切り、小部屋を作った本陣の中央に位置する大将の間で、怒りに駆られながらも、彼は考えをまとめようと、親指の爪を噛みながら、ひたすらに歩く。

 毒矢に倒れた翡翠を医師に預け、自分は単身、前線に向かい、兵士達の士気を盛り上げ、羌の出方を見つめた熾闇だったが、総大将の突然の登場に動揺も見せない羌に、訝しみながら彼等を蹴散らし、潰す好機を自ら逃し、陣を構えて護りに入ったことに後悔はない。

 一刻も早く、翡翠を安全な場所で治療させたかったのだ。

 目の前で大切な者を失う喪失感に、心底恐怖した。

 母を失って以来、否、それ以上の喪失感だった。

 目の前が暗くなり、足許がガラガラと音を立てて崩れ去るようなという陳腐な説明が、驚くほどしっくりと当てはまる状況に足が竦んだ。

 従兄妹で乳兄弟で、親友。

 自分の一番はすべて翡翠なのだ。

 多分、翡翠もそうだろう。

 自分よりも自分のことを理解してくれる唯一の人。

 自分が自分らしくあるために必要不可欠な存在。

 その魂の半分とさえ言える者の喪失に、耐えられなかったのだ。

 イライラと歩き回っていた熾闇の足が止まる。

 その視界に、彼女の血で汚れた戦衣が映る。

 風と体温で殆ど乾きかけた赤褐色の血の跡。

 頬と手の血は、さすがに拭き取ったが、服に残ったこの血は、彼女が命懸けで自分を護ろうとしたその証である。

 その血の跡をそろそろと伸ばした手でなぞり、そっと握り締めた熾闇は、唇を噛み締める。

 彼女が自分に示した友情と忠誠に、自分は値する人間なのだろうかと、切なく思う。

 自分のために完璧すぎるほど完璧な翡翠に、自分は応えているのだろうかと。

 ただ今は、彼女の容態だけが気懸りだ。

 毒の種類は特定できたのだろうか、解毒は間に合ったのだろうか──翡翠さえ無事ならば、この戦、多少の被害を受け入れても彼女を安全に王都へと送り、長期化させても良いと、熾闇は思った。

 その主の心中を思いやってか、武将達は黙して己の床几に腰を落ち着けている。

 申し述べたい儀はあるだろう。

 だが、今は思い乱れる熾闇が、落ち着くまでは待つべきだと、誰もが時機を待っている。

 戦場では聡明で有能な大将だ。

 すぐに落ち着きを取り戻すと、そう信じているのだ。

 己の戦衣を握り締め、立ち尽くす少年を見つめていた男達の耳に、はっきりとざわめきが聞こえてきた。

 人払いをしているはずの場所へ、制止を振り切って近づこうとしている者がいるようだ。

 剣の鞘を掴み、鍔を鳴らせ、立ち上がった武将達は、扉代わりの幕布がふわりと上がり、そこから現れた人物の姿に絶句した。


 手当の途中だったのだろう。片袖を脱ぎ、白い肌にきっちりと包帯を巻き締めた軍師が蒼白の顔で立っていた。

 白い容の中、噛み締めた唇だけが赤い。

「──翡翠!」

 振り返った熾闇の顔に喜色が浮かぶ。

「気がついたのか!? 傷の具合はどうだ? 毒はすべて抜けたのか? 傷を見せてみろ」

 大股で彼女の傍へと寄ると、その包帯の白さに眉を寄せ、心配そうに声をかける。

 彼女の顔に浮かぶ表情に気付かずに、痛々しい様子に心を痛める。

「俺なんかを庇うから……」

 その呟きは切実な響きを持っていた。

 それは、彼にとっての真実。

 だが、決して臣下の前で言ってはいけない言葉であった。

「……なにゆえ、この場におられますのか? 我が君、皆様」

 ポツリと、低い声で、颱の宝玉といわれる少女が呟く。

「翡翠?」

「軍師殿……?」

 その言葉に、一同は怪訝そうな表情を浮かべる。

「戦の最中、敵を前にして戦を放り投げ、何をしておられるのかと聞いております!!」

 落ち着いた、だが、とても重傷を負っているとは思えないほど覇気のある言葉に、鞭打たれたように、一同がびくりと首をすくめ、背を正す。

「颱が攻めず、護りに入れば、敵はそれを好機とみなしましょう! 相手に攻め入らせる隙を与えて何となりましょう。急ぎ、己が持ち場へ戻り、襲撃に備えなさい。護りに入れば、颱の負け! 何の為の戦をやっているのです? 民の営みを守るための戦なら、我らが護りに入ってはならぬこと」

 その名に恥じず、まさしく宝玉のように澄んだ瞳を一同に向け、叱咤すると、手にしていた乗馬鞭を振り上げ、かすかに揺れる幕布を示す。

「わたくしもすぐに仕度を整えます」

「ならぬ! おまえはここに残れ!」

 翡翠の声を即座に封じたのは、熾闇だった。

「戦場に立つことはならぬ! 俺が許さん!」

「我が身は己が一番良く知っております。無理であれば、指揮は他の者に預けます。ですがこの身はこれしきのことでは指揮を執るに影響はございません」

「ならぬ! 絶対にならぬ! 今後、俺を庇うことも許さん」

 無事な左腕を掴み、至近距離から翡翠の瞳を覗き込んだ少年は、きっぱりと宣言する。

「我が君?」

「おまえの代わりはいない。頼むから、俺を庇って怪我したりするな」

 今にも泣き出しそうな声音で告げる熾闇に、翡翠の表情が変わる。

「わたくしは従者としての役目を果たしたまで。総大将の命を守るは、臣の務め。当たり前のことをしたまででございます」

 意外なことを聞いたと、その表情が雄弁に語っている。

 確かにそうだろう。

 他の誰かが、熾闇を庇い、その命を落としたとしたら、彼の者の犠牲に心を痛め、その忠誠を無駄にしないためにも熾闇は犠牲を最小限に留めるように作戦を練り、そうして一日も早い平定を心懸けるだろう。

 王太子府の将軍として、それが取るべき道だとわかっている。

 だが、その犠牲が翡翠だと思うだけで、納得がいかないのだ。

「おまえを失うわけにはいかぬ。王都に戻り、その傷を大切に癒やせ……いや、王都では駄目だ。莱軌兄上の傍におまえを置くわけにはいかぬ。あの男は、絶対に許さぬ」

「莱軌様の手の者でしたか、やはり」

 どこかで見かけた者だと、射手の顔をほんの一瞬だけ見た翡翠は、ポツリと呟く。

「……ッ! 知っていたのか? この戦が終り次第、兄上を俺は弾劾するぞ」

「それこそ、なりませぬ。捨て置くが得策でございましょう。我が君が生きておられる以上、莱軌様は次の手を打つことはできませぬゆえ」

「庇うのか! おまえを殺そうとした男を!!」

「致死量ではございませんでした。わたくしには薬草に関する知識がございます。莱軌様はそのことをご存知です。放って置かれる方が、『おいた』の罰としては最適でございましょう。今は、目の前の敵を倒すべきかと」

 熱くなる熾闇を前に、冷静さを失わない翡翠は、かなり素っ気なく答える。

「軍師として皆様に申し上げます。即刻持ち場へお戻り下さいませ」

「まだ前に立つつもりか! ならぬと何度言えばわかるのか!?」

 ぎりっと歯を軋ませた熾闇は、掴んでいた腕を乱暴に手繰り寄せ、乳兄弟を詰る。

「総大将の権限で、おまえの軍師の地位を剥奪しても良いぞ!」

「──熾闇っ!」

 第三王子の言葉に目を向いていた武将達は、次の瞬間、軍師の唇から漏れた言葉にさらに驚愕する。

 全身に怒りを滲ませた少女が、捕えられていた腕を振りきり、主の名を呼び捨て一喝したのだ。

 確かに、颱でも名門中の名門である綜家の末娘として生まれた綜翡翠は、第三王子の乳兄弟である。そうして、彼女の母は、現王の妹姫であり、翡翠自身は王族ではないものの、彼等の主の従兄妹でもあるのだ。

 生まれる前から共にある間柄で、幼い頃はその地位に関係なく同等に扱われてきた二人だ。古参の将であれば、翡翠が熾闇を呼び捨てにしていた頃のことを覚えている。

 臣下の立場を取っているが、敬称をつけずに彼の名を呼ぶことを許された者だということは、颱の者なら誰でも知っている。

 だが、実際にそれを間近で聞くとは思ってもみなかった。

 左腕を振り上げ、彼からの束縛から逃れた少女は、まっすぐに彼を睨んでいた。

「地位剥奪を本気で言っているのか」

「……本気だ」

「何の咎で? 理由を申し述べよ」

「おまえが、俺の言うことを聞かないからだ……おまえを失えば、俺はどうなる? もう、おまえしか残っていないんだぞ。俺の家族は」

 翡翠しか目に入らないらしい熾闇は、己の弱さをさらけ出す。

 幼い頃の孤独を埋めてくれたのは、翡翠だけだった。

 熾闇を産み、身体を壊した病弱な母を慕ってはいたが、家族の暖かさを彼に与えてくれたのは、翡翠だったのだ。

 永遠に失うくらいなら、遠くに置いた方がまだマシだと、その瞳が正直に告げていた。

 だが、それは翡翠の思いとはまったく異なるものであった。

 例え、道の途中で息絶えようとも、熾闇の傍で彼を護ることが、彼女にとっての最善なのだ。

「……こ、の……うつけ者が!」

 ぐっと拳を握った少女は、次の瞬間、痛めている右手で熾闇の頬を打った。

 渾身の力を込めた平手に、さすがに熾闇も蹌踉めき、膝をつく。

 頬を打たれたことが信じられず、驚いた様に目を見開き、彼女を見上げている。

「それが総大将の言葉か!? 駒の一つを失ったぐらいで、自身を失うなら、最初から人の命を預かる資格なぞないわ! 即刻荷物をまとめて王都へ帰るがよろしかろう! そんな弱き者に軍を預けるわけにはいかぬ」

「……翡翠」

「他に王都に帰りたい者がおれば、この者と共に行くがよろしかろう。帰りたければ、この場に残るといい。そうでなければ、即刻持ち場へ戻られよ」

 熾闇に背を向けた翡翠は、武将達にきっぱりと命じる。

 春風のように穏やかで優しげだと思われていた軍師からは想像もできない荒々しい態度と厳しい言葉。

 翡翠の言葉に驚いた様子を見せたものの、彼等は少女に一礼すると、部屋の外へと出ていく。

 その背を見つめていた熾闇は、彼女の背が赤く濡れていることに気付き、顔を顰めた。

 自分が負わせてしまった傷。

 塞がっていたはずの傷口を再び開かせてしまったのも自分。

「ごめん、翡翠。ごめん」

 ズキリと、自分までもが痛みを覚え、熾闇は素直にその言葉を口にしていた。

 自分が軍人として国を護ることを選んでしまったから、従者となった翡翠までもがその繊手に剣を握ることになってしまった。

 今までいくつもの大きな戦をしてきた。

 その度に、熾闇も翡翠も怪我を負ってきた。

 いつも、死を覚悟してのことだった。

 自分が残されると思った瞬間、死が怖くなったのだ。

 自分ではなく、相手の死が。

「……ごめん」

「頭が冷えましたか?」

 上からかけられた声は、いつもの穏やかで優しい声であった。

「──うん。面目ない」

「上に立つ者は、人に弱みを見せてはなりませぬ。例え、それが死の直前であっても、笑って鷹揚に構え、弱者への労りを忘れてはなりませぬ。どれほど辛かろうとも、魂を殺してはならないのです」

 優しく、そして厳しい声だった。

 その声に、熾闇は安堵する。

「おまえはいつも無茶を言う。俺みたいな子供に、老齢の武将の強さを持てと言ってるぞ」

「できぬことは申し上げません。あまり小姓を困らせてはなりませんよ。血の染みは落ちにくいのです。早く着替えて皆の前にお姿を。わたくしもすぐに参りますゆえ」

「わかった」

 素直に応じた熾闇は、翡翠を見送り、戦衣を脱ぎ捨てた。


「…………ッ!!」

 総大将の居住を出た少女は、背に走る激痛に、思わず唇を噛み締め、天幕を支える柱に取りすがった。

 意識を取り戻し、医師の制止を振り切ってきたのだ、手当は完全ではない。

 解毒も完璧ではないだろう。

 それでも、彼女は王子の許へと行かねばならぬことを良く理解していた。

 無茶は承知の行動の上に、怪我をした利き手で熾闇の頬を打ったのだ。

 じわりと熱く濡れる背に、傷口が開いてしまったことを悟る。

 ずくりと疼くような痺れた痛みに、眉を顰める。

 今、自分に痛みに負ける弱さを認めてしまえるわけがなかった。

「まぁーったく、意地っ張りなんですからねぇ」

 くすくすと笑い含みの声が、翡翠の耳を打つ。

「蒼…瑛殿……」

 掠れた声で呟いた翡翠は、はっと顔を上げ、平常を保とうとする。

「意地っ張りは嫌いではありませんが、こういうときは多少なりとも男を頼りなさい」

 落とした声で低く囁いた男は、躊躇いなく翡翠を抱き上げる。

「蒼瑛殿! わたくしにお構いなく……」

「言ったでしょう? こういうときは人を頼っても良いのだと。今後のことを思うのなら、ご自分を慈しみなさい。人目につくことがお嫌なら、私に任せるといい」

 堅い声で辞退しようとする少女を封じた男は、片腕で彼女を支えたかと思うと、自分の外套を彼女にかけ、すっぽりとくるんでしまう。

「ほら、これで誰だかわからない」

 くすくすと笑いながら、蒼瑛はしっかりとした足取りで本陣の天幕を後にする。

「犀将軍、そちらは?」

 警邏の兵士がその姿を見咎め、問いかけてくる。

 その声に、蒼瑛は悪戯っぽく笑った。

「それは、野暮というものだよ。内緒」

 くすくすと笑った男は、悠々とした足取りで軍師の天幕へと向かう。

 殆ど揺れを感じない見掛けよりも逞しい腕と、一定の音律を刻む心音に、安堵の念を覚えた少女は、ゆっくりとその瞼を落とした。

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