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人前で舞うことなど滅多にないのに、誰もが当代随一と認める颱最高の舞姫は、艶やかな衣装に身を包み、琴を奏でていた。
笛の名手として知られる笙成明将軍と、彼の副官である祝青藍の筝を伴に、その舞に引けを取らない見事な腕前を人々に披露していた。
招かれた人々も、彼女の舞を見ることができなかったことを残念に思いながらも、その琴の演奏に酔い痴れる。
美しい音色は、観客が望むままに何曲も奏でられ、そうして惜しみない拍手と共に演奏は終わった。
一般的に女性の成人の儀はここから宴へと流れていくのだが、綜家の末姫はすでに公人として出仕しているため、官位宣旨を受けることになっている。
白虎に結い上げてもらっていた髪を解き、それをひとつにまとめて結わえた綜家の末姫が再び客人たちの前に現れた。
艶やかな美姫は、端正な面立ちそのままに麗しい青年将校の姿を見せたのだ。
本来、軍装ならば勇ましいという印象が付きまとうはずだが、綜家の末姫の場合、あまりにも自然すぎた。
「我が妹ながら恐ろしいな」
親族席で妹を眺めていた長兄が、ぼそりと呟く。
「何がでございましょうか、季籐兄上?」
怪訝そうに小首を傾げ、次兄が小声で問い掛ける。
「うん。鎧を官服と同じように着こなしているだろう? 普通、軍装をすれば勇壮な印象を受けるはずなのに、あまりにも自然すぎる。相手を威圧することなく、目に馴染み、気を許してしまう……つまり、油断すれば、いつでも斬り付けられてしまうということだ」
「翡翠はそのような真似はいたしませんよ」
少しばかり呆れたように偲芳が告げる。
「それだよ、それ。その思い込みこそ、いい目晦ましになる。あれは戦鬼だ。己の護るもののためなら、いくらでも鬼になる。我が妹ながら、あいつとだけは、本気で戦いたくないな」
屋敷内の警備を一手に引き受けた将軍は、溜息交じりで呟いている。
時間が取れれば、妹と剣の手合わせをしている兄を知る偲芳は、納得いかない様子で兄に視線を送る。
「では、何故手合わせを? 剣を交えたくないのなら、稽古なさらなければよろしいでしょうに」
「本気じゃないから、できるんだ。力と技量は俺のほうが上だが、智慧と経験は翡翠の方が上だ。足りないものを知り、それを補うことを知る者は、並みの者より数段恐ろしい。白虎殿が、昔、翡翠のことを麒麟の守護者だと言ったのは、本当のことだったのかもしれんな」
難しい表情で告げる季籐に、偲芳は顔を顰める。
「例えば、熾闇殿下と俺が王位を争うとする」
「……兄上。誤解のないように申し上げてください。王位を争うのではなく、王位を相手に押し付けるために争うのでしょう? 人によっては、いらぬ誤解をいたしましょう」
「結果は同じだろう?」
「正反対です! 負けた方が王位につくのですからね」
「まぁいい。そのとき、翡翠は迷いもせず殿下につくだろう。そうして俺は、あいつにはめられて、文句も言えない状況で王座に座らねばならなくなる。相手が誰であれ、手加減せず、容赦なく相手を仕留めるのが翡翠だ」
「……可愛い妹をそこまで貶めますか」
「事実だ」
呆れ顔の弟に、すっぱりと答えた季籐は、父に気付かれないように溜息を吐く。
「だがな。俺とおまえが王位につくことは決してありえない」
「それはそうでしょう。私たちは臣下の身なのですから」
「そうじゃない。次代の正妃は翡翠だからだ。同腹の兄である俺たちは、妹を正妃に迎えることなどできない。それゆえ、王にはなれない。翡翠が生まれたとき、白虎殿が言っていたことだ」
「白虎様が? 翡翠が生まれたときの記憶は、幼かったせいか、ひどく曖昧なのです。あの時、白虎様は何を仰ったのでしょうか?」
「……翡翠が生まれたとき、いくつもの星が流れた。吉凶、どちらを示すのか、誰にもわからないほど複雑な星の配置だったと聞いている。好奇心に駆られて、母上を見舞いに来た白虎殿は、翡翠を見て驚愕された。そうして、こう叫ばれたんだ。『麒麟の後に、麒麟の守護者だと!? 機織姫は何を考えている! 天を覆すつもりか!?』とな。そうして、その後、父上に告げられた。『この者は、国母となる。この娘が選んだ男が次の王だ。だが、このことは時期が来るまで秘せよ。この娘が歩む道は、颱が歩む道となるゆえにな』笑いもせず、静かな口調で」
「宿命重き者ということでしょうか?」
「麒麟の意味は、俺よりおまえの方が詳しかろう?」
「麒麟とは、仁の生き物……地にあって、次の天帝となるもの……まさか、翡翠が次の天帝を護る者だと……? ならば、その天帝とは……」
「憶測に過ぎん。だが、白虎殿があれほど妹を庇いだてするのも、納得がいくというものだ」
ぼそぼそと小声で会話を続けていた季籐は、視線で弟を制する。
目の前では式が滞りなく進行されている。
王の使者から官位を授けられる。
まずは、文官位からである。
未成年でありながら東宮坊大夫、つまり従四位下であった翡翠は、成人と同時に所属の転属となり、それに伴い官位もわずかばかり上がることになる。
半年後の叙目で官位が上がることを考慮しての宣旨である。
「綜翡翠。東宮坊大夫より太政官左大弁に任ず。従四位上に叙す」
「承りました」
普通、名家の若君であれば、成人と共に与えられる官位は近衛か蔵人所の従五位、左近、又は右近の佐か蔵人の五位である。
成人前に出仕していた翡翠は、蔵人の五位から東宮坊へと移り、従四位下の位に上がって大夫の君と呼ばれていた。
近衛府は、兵部省に所属しない名家の若者たちが任じられる花形役職であり、実際は武人としての実力を求められることはないためさほど苦労はしないが、兵部省に所属した者達は、近衛府に任じられることはない。
翡翠が与えられた太政官は律令の中でも政治を司る大事な場所である。
左大弁は、中納言、参議の下であり、中務省・式部省・治部省・民部省を統率する役目にある。
ちなみに右弁官は兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省を司る役目である。
つまり、同年代の貴族の若君と比べれば、何歩も先んじ、そうして出世街道を驀進している状態なのだ。
「また、三位、鎮軍大将に叙す」
「謹んでお受けいたします」
優雅に一礼する王太子府軍副将兼軍師の面はあまりにも静かであった。
どんな結果をも受け入れる覚悟があったのか、それとも、この結果をあらかじめ予測していたのか。
驚く客人たちをよそに、冷静すぎるほど冷静に受け入れた娘は、勅使に返礼する。
勅使がその場から立ち去り、翡翠がゆっくりと立ち上がったとき、彼女の前に再び白虎神が現れた。
人型を模した白い神は、愛し子の肩を抱き、招待客へと視線を向ける。
「おまえたちにひとつ証人になってもらいたい」
のんびりとした口調で悠然と告げる白虎に、人々は興味に駆られて素直に頷く。
「先ほど、綜翡翠が干した杯には俺の血が入っていた。そうだな?」
泰然とした笑みを浮かべて話す白い獣の神に、言葉ではなく頷くことで人々は答えを返す。
「今、この時より、綜家の末姫は人ではなく、我が眷属となった。我が血を受け、耐えられた者は人の身でありながら天界に属する者となる。つまり、翡翠は神族になった」
「……ッ!?」
初耳であることを告げられ、翡翠は思わず白虎の顔を見上げる。
声を出さなかっただけ上出来であろう。
それほどまでにその告白は衝撃的であった。
「これより先、翡翠は王命に従わずとも良い身となったのだ。神は己の心が法となる。翡翠を妻に娶りたいと思うなら、申し込むのは自由だが、答えが返ってくるとは思うな。女神の夫に相応しい男になれるように己を磨け。家柄だけでは相手にされぬと思え。よいな?」
にやりと笑った神は、愛し子の肩を抱いたまま、彼女を促し、その場を歩き去った。
その場に残された人々は顔を見合わせ、今の白虎神の言葉の意味を考える。
どう考えても、答えはわからない。
「ささやかではありますが、宴の席を設けております。どうぞ皆様、中へお入りくだされ」
藍昂が、彼らの気持ちを断ち切るかのように声をかけ、話題を変える。
その言葉に、客人たちは誘われるままに立ち上がり、屋敷の中へと入っていく。
「……親父殿」
父の傍へとやって来た長子に、古狸と噂される藍昂は苦虫を潰したかのような表情で唸る。
「白虎様にやられてしもうた。ある意味、ありがたい申し出なれど、翡翠は納得すまい。誰ぞ、あれを説得してくれるような鞭撻者がおれば良いのだが……」
「偲芳にやらせては? 翡翠より口達者となれば、弟しかおらぬだろうし、妹たちでも良いが、あれらは難しいことなど理解できまい。政と関わらぬように父上が育てられてしまったのだから」
「白虎様は何を考えておられるやら。あれでは、翡翠は普通の娘のように嫁ぐと思われてしまう」
「その逆だろう? 思いっきり牽制入ってたように感じたぞ。身のほど知らずはすっこんでろと言ってたな、絶対」
「まこと、何を考えておられるのやら」
呆れたように呟く藍昂を眺めやり、季籐は溜息を漏らす。
波乱含みの成人の儀に、さらに大嵐を引き入れた守護神獣に、彼は半ば本気で呆れていたのである。




