11
草原に一陣の風が吹き抜ける。
白虎が守護するこの地で、風が吹くことは当たり前のことである。
だが、なんの変哲もないその風が、翡翠の警戒心を呼び起こした。
「………………」
「どうした、翡翠?」
それまで隣に立つ蒼瑛と談笑していた熾闇は、側に控える片腕の変化にいち早く気付き、彼女を振り返る。
「天幕へお戻りを。何やら風が……」
いつもと変わらぬ穏やかな表情で告げる娘に、第三王子は素直に頷く。
「この場は、おまえに任せる。蒼瑛、戻るぞ」
「御意。では、軍師殿、後ほど」
端正な顔に人懐っこい笑みを浮かべた蒼瑛が、碧軍師に首尾を後ほど聞くと言外に告げ、手綱を手繰り寄せ、馬首を返そうと引く。
同じく手綱を引いた熾闇の視線が、こちらへと寄ってくる女兵士に向けられる。
鎧を結ぶ綾紐は新緑──翡翠の直属の部下である。
「姫様、紅葉より火急の知らせが……ッ!」
声がする方向へ視線を向けようとした翡翠は、視界の端できらり光るものに気付き、表情を変えた。
丘の起伏で上手く姿を隠しているが、陽光を弾く鏃の輝きまでは隠せなかった。
鏃はゆっくりと向きを変え、そして弓から放たれる。
その獲物は──
「我が君っ!!」
手綱を引き、強引に馬首を巡らせると、馬の腹を蹴る。
彼女の愛馬は、常にない乱暴な扱いに驚きながらも、素直に応じ、駆け出す。
「……翡翠?」
「姫様ッ!」
矢を払い落とす余裕もなく、翡翠は熾闇と刺客の矢の間に身を躍らせた。
じゅしゃりと鎖帷子を突き通し、肉を抉る鈍い音が熾闇の耳に届く。
ほんのわずか、眉根を寄せ、表情を歪ませた少女がゆっくりと彼の方へと身体を傾がせる。
「翡翠っ!」
「……萌葱、追えっ!」
その声に弾かれたように、女兵士が馬を駆り、主が指し示す方へと抜刀して向かう。
茫然と、両手を広げ、乳兄弟を抱き留めた熾闇は、その少女の右肩に突き立つ矢を見つめる。
傷つきながらも翡翠は己の身体を矢立にし、主を身を持って護ろうと、身を起こし藻掻こうとするが、力が入らずに浅く息を繰り返すだけの自分に唇を噛み締める。
熱を持ち、鈍く痛む傷口から我が身に入り込む毒に気付いたからだ。
軍師の側近が何やら追いかけている者達に気付いた兵が、彼等の行き先を封じ、捕えたことを察知した犀蒼瑛が、近くの兵を呼び、医師を呼ぶことを命じると、翡翠へと近付く。
「軍師殿……や、これは……ッ!!」
翡翠の背を染めるどす黒い血に顔色を変え、矢柄を折る。
「軍師殿、お気を確かに。今、医師を呼びました。刺客も捕えております」
彼女の耳許で囁いた男は、熾闇の手から翡翠を取り上げる。
「……忝ない、蒼瑛殿。私のことは、しばし秘中に……今、しばらく」
蒼瑛の声で顔を上げた少女は、馬上で毅然と背を正す。
痺れて感覚を失った右手で手綱を握り、左手の軍配を握り締め、何事もなかったかのように馬を進める。
「翡翠っ!」
「今は戦でございます、我が君。陣を移動いたしましょう。右翼、左翼前進! 後衛はそのまま後退!」
凛とした声が、次々と指令を出す。
その声を復唱し、伝令が駆け出す。
一つに束ねられた黒髪が、風に煽られ大きく揺れる。
整った横顔が、眼下に繰り広げられる血生臭い情景を冷静に見つめている。
「嵐泰殿に伝令を。迂回し、羌の横へ突入後、追うようにと」
白い頬が蒼くなっていく。
だが、表情は変わらない。
「翡翠!」
軍師の横に馬を並べた第三王子は、彼女を見つめる。
「……指揮は、俺が執る」
きっぱりと宣言した総大将は、彼女の手から軍配をもぎ取る。
「本隊は右に移動! 先鋒は後退せよ! 後衛は後退後、左へと展開!」
すでにどのような陣形をいつとるかは、昨夜の会議で綿密に話し合っている。
例え翡翠がしばらくの間欠けたとしても、颱国軍は揺るがないはず、だった。
「中堅は前進! 長槍も前へ出ろ!」
的確に指示を出し、陣形を整えていく熾闇。
颱国の常勝将軍のひとりとして、その地位を得たのは、何も翡翠がすべて策を練っていたからではないのだと、その堂々たる態度が、声が、示していた。
彼の指揮を見つめた翡翠の口許の仄かな笑みが浮かぶ。
しっかりと握っていたはずの右手から手綱が滑り落ちる。
明るい光を湛えていた瞳から、急速にその光が失せていく。
二、三回、大きく瞬きした軍師の身体がグラリと傾ぎ、そのまま落馬する。
どさりと背後で鈍い音が響いたことに、指揮を執っていた熾闇が驚いて振り向く。
「ひ……す、い? 翡翠っ!!」
許し難い光景だった。
彼の大切な片腕たる乳兄弟が、騎馬の民たる颱国の将が、手傷を負い落馬するなど、認められないことだった。
全身から血の気が引いていく。
「翡翠! 翡翠!」
愛馬から飛び降りた熾闇は、乳兄弟の許へと駆け寄る。
「しっかりしろ、翡翠! 目を開けよ!」
肩を掴み、抱き起こした熾闇の手を血が黒く染め上げる。
べっとりと彼の手を汚す血は、尋常なものではなかった。
「……毒、か……?」
茫然と呟いた少年は、それが自分に向けられていたものであったことを思い出す。
「おのれ……何奴が、この俺を……翡翠を! 医師は何をしている! 早く呼べ!」
ひんやりとしたものが己の中に堅く凝ってくることを自覚しながら、熾闇は声を張り上げる。
「許さぬ……許さぬぞ、翡翠。俺を置いて逝くな。死ぬことは許さぬ! 医師はまだか!」
ようやく駆けつけた医師団に翡翠を預けた王子は、愛馬に駆け寄り、飛び乗る。
「必ず、翡翠を助けよ! これは命令だ! 死なせることは許さぬ! 蒼瑛! 後衛と本隊の指揮を任せる! 移動を素速く終らせろ。俺は前へ出る!」
「殿下! 熾闇殿!」
呼び止める声に目もくれず、怒りに駆られた少年は、馬を走らせ、その場から姿を消した。