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第二正妃の嫡子である第三王子──王太子府軍総大将であり、常勝将軍でもある熾闇が、今年十八歳になり、成人の儀を迎えることは、颱国民にとって、多大なる楽しみであった。
美姫と名高かった第二正妃の面差しを受け継いだ王子が、見目麗しい若者に成長し、颱が誇る将軍となった。
成人前だというのに、数々の武勲を挙げ、それに傲ることなく民のために心を砕く王子の姿は、夢物語の好きな者達には理想の姿であり、彼等の想いは更に未来へと紡がれていた。
すなわち、成人の儀を迎えた第三王子が側室を迎え、そうして何時か、その隣に並ぶに相応しい正妃を迎え入れるその姿を。
できれば、側室は二名ほど。
見目麗しく、大人しやかで上品な、目立つことをよしとしない心優しき夫人がいい。
生まれてくるのは、熾闇によく似た王女がいい。
くるりとした瞳には、生き生きと感情が映し出されるような愛らしい姫だ。
正妃は、絶世の美貌を誇り、知性豊かであり、どのような場面でも熾闇を支えることのできる完璧な姫。
王家の血を引く名門綜家の末姫、綜翡翠その人だ。
ふたりの血を受け継ぐ王子は、どちらに似てもきっと民に好かれる素晴らしい御子となるだろう。
夢を見ることは、決して罪ではない。
幸せな夢なら、尚更だ。
だが、それが本人達の意志を無視してのことならば、第三王子はこう言うだろう。
『冗談じゃない! 他人の人生、勝手に決めつけるな! 俺は俺だ! 悔いようがどうしようが、絶対に俺の手で決めてやる!!』
現在、まさに、熾闇はその心境であった。
「だからと言って、どーしてここに逃げて来るんですかねぇ?」
実に嫌そうな表情で告げたのは、この部屋の主、犀蒼瑛であった。
「決まっているだろ? ここなら絶対に見つからない」
「上将……熾闇殿。あなた、お幾つですか? 何、姫君ひとりに責任押し付けて逃げてるんですか」
「俺がでてくると、まとまる話もまとまらなくなるから、いっそ消えてくれと翡翠に言われた」
正直に熾闇が話すと、蒼瑛はがっくりと肩を落とす。
「……翡翠殿……たおやかな姫君然としていながら、見事に男前なんですから」
「それ、翡翠に言ってもいいか?」
褒め言葉なのだろうかどうかと考えながらも、おそらく前者だと思った熾闇は、小首を傾げて問いかける。
「止めてください。私が殺されてしまいます」
ゾッとしたように告げた青年は、深々と溜息を吐く。
「あぁ、不幸だ。軍師殿の髪結い役は白虎様に決まってしまうし、自分の成人の儀だというのに逃げ出したお子様が駆け込んでくるし」
「あ! それ、聞いた。白虎殿が髪結い役をやるんだってな。俺、てっきり李綾殿がするんだろうと思ってた」
「李綾殿? どなたですか、その方は」
初めて聞く名に、蒼瑛は首を傾げる。
「え? 知らないのか、李綾殿。翡翠の従兄弟だ。おぬし達と同じくらいの年頃かなぁ? 右大臣の弟の息子になる。今は、淙に留学しているが」
「どのような方なのですか?」
これ以上恋敵が増えると困ると嘯きながら、ちゃっかり情報収集に勤しみかけた蒼瑛は、熾闇の表情が微妙であることに気付いた。
「熾闇殿?」
「あー……うん。翡翠の従兄弟だけあって、とても綺麗な方だな」
「男、ですよね?」
「うん」
言いづらそうな表現に、美丈夫は不審に思う。
「文武両道で、偲芳従兄上ほどではないが、芸術に造詣が深い、そして思慮深い方で、俺も翡翠も尊敬しているんだけど」
「……それで?」
「それでって……あっと、あの……翡翠がさ、藍衛が女性を好きだって知ってて、結構無頓着だなって思ったことはあるか?」
眉根を寄せて、思いっ切り考え込んだ若者が切り出した言葉に、蒼瑛は目を丸くした。
「まぁ、それは。恋愛に疎い……と言うには、あまりにも鷹揚すぎるなとは常々思っておりましたが」
彼にしては珍しく、慎重に言葉を選びながら蒼瑛は応じる。
「李綾殿は、一時期、俺達の世話役をしててくれたから、俺も翡翠も懐いていて違和感を感じなかったんだけど、今考えてみると、やっぱりちょっと変ではあったよな」
「だから、何なんですか?」
嫌な予感を覚えながらも、青年は先を促す。
「李綾殿は、綺麗な男が好きなんだ」
「……そう来ましたか」
予測はしていたものの、見事に鳥肌が立った犀将軍は、宥めるように腕をさすり、嫌そうに唸った。
「何たって、見映えはいいし、身内だし、翡翠を正室に迎えるつもりはさらさらないだろうから、俺はてっきり李綾殿に頼むと思ってたんだよな」
翡翠と充分類友である熾闇も、かなり無頓着であるらしく、腕組みして頷いている。
「季籐従兄上みたいな男が好きだと言ってたから、多分、嵐泰やおぬしとか、公丙とかも好みなんだろうな。年下は好きじゃないって言ってたから、俺としては助かったけど」
「なるほど。それで、成明は外れたわけか」
憮然とした表情で応じた青年は、深々と溜息を吐く。
「それで、現在、留学中の方が、わざわざ戻って来られて髪結い役をなさると思ってらしたのですか?」
「うん。李綾殿の血筋はすごいからな。四神国全部の王族の血が流れてるぞ。父君は颱と燁、母君は淙と坤の血だ。俺なんか、母上も王族だったから、颱の血しか持ってないし」
妙な感心の仕方をしている熾闇が、そう答える。
「そうですか。まぁ、恋敵が増えない点は良かったと申し上げますが、己の貞操が危険になる相手が存在するとは思いませんでしたよ」
「いや、でも。その点さえなければ、イイ奴だぞ? 藍衛もそうだろ?」
「その鷹揚さが、困りものだと、何度も申し上げているのですがねぇ」
最早溜息しか出てこなくなった青年は、これで最後とばかりに盛大な溜息を零した。
奇妙な間に、居心地が悪くなった第三王子は、さてどうしようかと考え出したとき、新たな客人が現れた。
「蒼瑛殿、この書簡を……我が君、こんなところにおられたのですか?」
「……翡翠」
質素な官服姿の娘に、男達は微妙な反応を示す。
「どうなさいましたか、我が君?」
「あ、いや……」
翡翠の言葉に、不意に熾闇は頬を染める。
「あのな、翡翠。それ、止めないか?」
「は?」
「その、『我が君』ってやつ」
困ったように告げる熾闇に、翡翠は首を傾げる。
「何か不都合でも?」
「あ、まぁ……」
ふうっと溜息を吐いて、若者は頷く。
本当の理由は口にできないが、他の理由はいくらでも挙げられる。
「あのな、俺は確かにおまえの主だろうけど、それだけじゃないだろ? 乳兄弟で、従兄妹で、一番の親友だ。親友に主だって呼ばれたくない」
ずっと気になってたんだと、告げる第三王子の姿を怪訝そうに見やった翡翠は、近くにいる蒼瑛に視線を向ける。
「反抗期じゃないんですか?」
「……反抗期」
肩をすくめた青年の答えに、更に微妙な表情になる。
「まぁ、確かに、親友に主と呼ばれるのは嫌ですよねぇ。親友ってのは、自分と同等の存在でしょう? 上も下もない相手に下に傅かれては、気持ち悪いというか、居心地悪いというか……」
少しばかり熾闇の手助けをしてやろうと、蒼瑛が言葉を重ねる。
「そうなんですか?」
「あ、うん。それに、こいつらに『我が君』と呼ばれたくないし」
大将位にある熾闇は、将軍達の上司だ。
つまり、主と呼ばれてもおかしくはない。
その場面を想像したらしい熾闇と蒼瑛は盛大に顔を顰めて顔を背ける。
「……気色悪い」
「妙な想像させないでください」
ほぼ同時に呟かれた言葉に、翡翠は口許を手で覆う。
思わず吹き出しそうになってしまった。
確かに気持ち悪いだろう。
見映えがいいとは言っても、同性に『我が君』とは呼ばれたくないはずだ。
それは、女性が夫に対して呼びかける言葉でもあるのだから。
「承知いたしました。善処いたします」
冷静そうな声音で告げる翡翠の視線が泳いでいる。
「……翡翠、素直に笑ってもいいぞ」
「失礼しました」
軽く頭を下げた娘は、くつくつと笑い出す。
「いきなり、どうしてそんな些細なことにこだわりだすんでしょうね、殿方というのは。本当に、子供のようですこと」
「実際、子供なんですよ、男なんて。愛しい方を腕に抱き、存分に甘えたいというのが本心です」
とろりとした視線を翡翠に向け、蒼瑛が告げる。
一瞬、ほんの一瞬、熾闇の表情が険しくなり、鋭い視線を蒼瑛に向けたが、すぐに何事もなかったかのような困った表情を浮かべる。
「あのな、頼むから翡翠を怒らせるような言動を控えてくれないか? おまえは冗談でも、空気が重苦しくてしょうがないんだ」
「おや? 私は本心を申し上げただけですよ」
「間違う事なき本心でございますね。確かに」
面白そうに告げる蒼瑛に、翡翠もにこやかに笑って応じる。
身をすくめた熾闇は、おそるおそる乳兄弟を見やる。
「……怒って、ないのか?」
「何がです?」
「だって、おまえ、この手の冗談、嫌いだろう?」
「冗談は嫌いですね。ですが、蒼瑛殿は本心を仰っておりましたよ。それに、わたくしには害のないことですし」
おっとりと答える親友に、若者は困惑したような表情を浮かべる。
「害がなければ、いいのか?」
「まぁ、そうでしょうね。それより、本題に戻ります。犀将軍、こちらの書簡の処理をお願いいたします」
にこやかに告げた翡翠は、書簡の束を蒼瑛の執務机の上に乗せると、主に視線を向ける。
「三の君様、今から蒼瑛殿はお仕事ですから、お邪魔をしてはなりませんよ」
「……そうだな。場所を変えるとしよう。邪魔したな、蒼瑛」
あっさりと頷いた若者は、片手を挙げると部下の執務室を後にした。
従兄妹と肩を並べて歩く。
ただそれだけのことが、とても楽しく、心浮き立つ気がする。
現在の気持ちを如実に表したような熾闇の軽やかな足取りに気付いた翡翠は、くすりと小さく笑う。
「なんだ? あ、でも、こうやって並んで歩くの、久し振りだよな。草原じゃ、俺、まったく出歩かなかったし」
「そうですね」
「おまえ、忙しいし」
「えぇ」
声音すら明るく楽しげであることに気付き、娘は笑みを深くする。
「熾闇様の成人の儀、大筋決まりましたので、ご報告いたしますね」
柔らかな口調で告げる片腕の言葉に、熾闇は小さく頷く。
「紅牙様、青牙様と合同で行うという案は、経費削減の観点から認証が取れました。加冠の儀の烏帽子親は、大臣方にお願いしております。その後、衣装改め、加冠の儀終了のご挨拶を行い、官位授与が陛下からなされます。お披露目の後、舞台での舞差しとなり、宴へと」
「……その後は?」
「普通でしたら夜語りへとなるところですが、今回は夜狩りとなります。それぞれ、草原で狩りを行い、獲物を皆様に振る舞っていただくことで証とさせていただきます」
「……助かった」
ほっとしたように熾闇は呟く。
「悪かったな、翡翠。面倒をかけて。大変だっただろう?」
すぐに従兄妹を労うと、彼女はゆったりとした笑みを浮かべた。
「いえ。文献を調べるのは、大変有意義でございましたよ。本来、この夜狩りが正式な成人の証だったそうです。自分自身の力で狩りをし、そうして得た物を他の者へと振る舞う。親から得るだけの子供ではなくなったという意味があったそうです。己が力のみで糧を得られるようになった故に、妻を娶る。それが転じて夜語りの儀となったようですね。本来の主旨の方が熾闇様のお好みに合うようですから、こちらにさせていただきました」
「さすが、翡翠! おまえがいてくれて、本当に助かった。もう最高!」
いつもの癖で、感謝と喜びを身体で表した熾闇は、思いっ切り翡翠に抱きつき、腕に抱き締めたものの、すぐに我に返って彼女を手放す。
「あ、悪い。力入れすぎてなかったか?」
「大丈夫ですよ。ちょっと、髪が乱れてしまいましたが」
勢い余って乱れた髪を手櫛で直しながら、翡翠は答える。
「あ、そうだ。おまえの方の儀式は大丈夫なのか? 俺に関わってばかりで自分の方を放っておいてるんじゃないだろうな?」
「……いえ。母と姉が取り仕切っておりますので、わたくしの出番がないのです。最近では、白虎様が面白がって入り浸りになっておられますけれど」
「白虎殿が? 何しに?」
「本当にわたくしの髪を結うんだそうで、その練習に」
「………………」
何とも言えない表情になった熾闇は、空を仰ぎ見る。
「最近、やたらと上機嫌で、あちこちで精霊の姿を見ると思ったら、そういうことだったのか」
半透明の人にあらざる存在があちこちでくすくすと笑っている姿を見かけるようになった理由を悟り、若者は溜息を吐く。
「意外と分かり易いな」
「風の神だけあって気紛れな御方ですが、その時のご自分の感情には素直でございますから」
「まぁな」
楽しいことには、確かに呆れるほど素直な神に、熾闇は癖毛を掻き混ぜる。
「あ、そうだ。俺、おまえの儀式を見に行きたいんだけど、駄目か?」
「一応、臣下の屋敷なのですから、正式には無理でございましょう」
含みを持たせて答えた翡翠の言葉に、若者はにやりと笑う。
「王子として駄目なら、従兄妹として裏側からいかせてもらうか」
「目立たないようになさってくださいませね」
「任せておけ!」
胸を張って、自慢げに答える第三王子に、綜家の末姫は絶対無理だと確信した。