106
優しい優しい子守唄が聞こえる。
澄んだ音色の、懐かしい唄だ。
この曲を聴いたのは、何時のことだったかと、ふとそんなことを考えたとき、熾闇は自分が目覚めたことに気付いた。
視界に映る飴色の天蓋。
眠りやすいようにと、白い紗で造られた天幕。
見慣れたようでなかなか見慣れない春宮にある彼の寝室であった。
「……あ、れ……?」
何でこんな所にいるのだろうと、不思議に思いながら上体を起こす。
豪華な牀榻の中で、熾闇はしばし惚けたように周囲の様子を確認する。
そうして、ようやく、現在の状況と記憶とを一致させた。
若さの勝利か、予定よりも早い傷の回復で、昨夜、こっそりと王宮へ戻ってきたのだ。
夜といってもかなり遅い時間だったので、綜家の屋敷に戻るには大変だろうと思い、翡翠にこの部屋に泊まるように言ったのだが、出来過ぎの従妹は、王太子府にある彼女の部屋で休むからと言い置いて、あっさりと主の部屋を辞した。
彼女が去った後、自分の言葉が一般的に見て非常に失礼かつとんでもない申し出であったことに気付き、ひとりで大慌てしたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
もう少し眠るべきかどうかと悩んでいた熾闇は、何故目覚めたのかということに思い当たる。
笛の音を聴いたのだ。
懐かしい子守唄であった。
記憶にかすかに残っている、亡き母が歌ってくれた唄だ。
誰も知らないはずの子守唄を聴き、嬉しくて目覚めたのだ。
あの優しい音色は、よく知っている人が奏でている。
紗の天幕の向こうで、かすかな人影が揺れる。
「お目覚めになりましたか、熾闇様?」
「おう。こっちに来い、翡翠」
幼馴染みの従妹の気配に、第三王子は気軽に答える。
「……牀榻に入れと仰るのですか?」
呆れたような声が響く。
「おまえ以外は誰も入れる気はないぞ。翡翠は特別だ。俺の命はおまえに預けているんだからな」
「気軽に預けられては困ります。お守りする方が、簡単に命を投げ出されるのですから、こちらの方が命がいくつあっても足りません。それに、牀榻に入る理由がそれでは……」
あからさまな溜息に、熾闇は唇を尖らせる。
未だに視線を合わせるのは気恥ずかしいが、それでも視界に翡翠がいないと嫌なのだ。
白紗の向こうに姿が透けて見えるが、それだけでは足りない。
傍に、誰よりも近くにいて欲しいのだ。
「今の笛、聴かせろ。それが理由だ」
「子守唄をですか? はいはい」
くすくすと笑った翡翠が、今度はあっさりと紗の天幕を掻き分け、姿を見せる。
柔らかな優しい笑顔は、熾闇が見たかったものだ。
子供と思われようが、どうしようが、まったく構わない。
翡翠が幸せで、笑ってくれるのなら、自分はとても幸せだと、子守唄を奏でる笛の音に耳を傾けながら、若者もうっとりと笑みを浮かべた。
第三王子と綜家の末姫が王宮に戻ったことを知った王は、即座に両名の謹慎を解いた。
元々、謹慎する必要もないと王は判断していたのだが、勝手に自主謹慎をしてしまったため、多少面倒なことになってしまったのだ。
息子を呼び寄せた颱王は、謹慎を解くと告げた後、三番目の息子の頭にげんこつを落としたのは、親子だけの内緒である。
王太子府に碧軍師の姿が戻った途端、山積みにされていた書簡の数々は、一刻も経たない内に跡形もなく消え去っていた。
「利将軍に任せて正解でした。申し訳ないとは思ったのですが、あらかた片付けていただいていたので、楽させていただきました」
にっこりと実に嬉しそうに微笑む娘に、利南黄は何とも言えぬ表情を浮かべる。
「あと数日はかかる量だと思っておりました」
「普通に処理すれば、確かにそのくらいはかかりましょうね」
「……普通に?」
引っかかる言い方に、利南黄は首を傾げる。
「王太子府でなければ処理できないという書類だけがここにあるわけではないのですから、そういったものを各省へお引き取りいただいたのですよ。何も、律儀にすべての書簡を片付けなければならないということはありませんもの」
「なるほど……」
さすが、狸と称される右大臣の血を引くだけのことはあると、南黄が思ったかどうかは秘密であるが、それに近い感想を抱いたのは間違いない。
「軍師殿、上将のお加減はいかがなものでしょうか?」
遠慮がちに利南黄が問いかける。
聞きたいが、聞いては無礼に当たるのかもしれないと、武骨な男は眉間に皺を寄せて年下の娘を見つめる。
「そうですね。殿下には困ったものです。少しでも良くなると、すぐに動き出されて無茶をなさいます」
ほうっと溜息を吐いた翡翠は、可愛らしく頬に手をあて小首を傾げる。
無意識の仕種のようだったので、それについては礼儀正しく南黄は沈黙を保つ。
「つい先日も、剣を持ち出して、暇だから手合わせをしろと仰ったり……失礼。結果から申し上げますと、以前よりもお元気になられております」
「完治したと……?」
「えぇ」
柔らかく微笑む娘に、南黄はほっとしたように溜息を吐く。
「心よりお慶び申し上げます。上将がいらっしゃらないと、我が軍は常勝軍とは言えませぬからな」
「その言葉、本人の前で仰らないでくださいませ。図に乗って、無茶をなさいますから」
「承知」
軽口を叩き合ったふたりは、小さく笑うと執務を再開した。
「おう、翡翠! 少し見ぬ間に美人になったなぁ」
白銀の髪に白銀の瞳を持つ美丈夫が、無断で参謀室に入ってくるなり綜家の末姫を無遠慮に抱き締め、そう言った。
「……白虎様?」
鍛え抜かれた分厚い胸板に顔を押し付けられ、少しばかり苦しげに顔を顰めた娘は、傍迷惑なまでに暑苦しい抱擁をしでかした神獣に呼びかけた。
部屋の中にいた面々も、久し振りに見た守護神の意外な姿にしばし固まっている。
いつも白い獣の姿でいる神が、人型を取ることは知っていたが、それでも滅多にその姿を見ることはないため、驚きを隠せないでいる。
「おう。何だ?」
「皆が驚いております。何故、そのお姿なのですか?」
まともな答えを期待してはいなかったが、そう聞いておかないと、何時まででも彼等が固まってしまいそうなのでとりあえず口にしてみる。
「それは、おまえに合わせたからだ。もうじき成人の儀だろう? 俺が髪結いをしてやろうと思ってな。藍昂に先程頼んできたところだ」
「父上に!? 髪結い?」
目を瞠った娘は、驚いて背の高い男の顔を見上げる。
「ちょ、ちょっとお待ちくだされ! 白虎様、それはずるいですよ。私も髪結い役をお願いしているのですから」
我に返った犀蒼瑛が、不満げに申し出る。
「おう、蒼瑛か。藍昂に聞いたぞ。かなりの数の男たちが、髪結い役を申し出ているとな。誰に頼んでも角が立つから、身内でやると言っていたが、俺なら適任だろう?」
にんまりと得意気に笑うその姿は、さすが肉食獣を思わせる。
「それは、確かに……後見役を白虎様が引き受けたとなれば、迂闊に手出しできませんね」
実に口惜しげに蒼瑛が唸るように呟く。
守護神が後見役を務めるなど前代未聞であるが、翡翠の血筋とこれまでの経歴を考えれば、これほど適任はない。
「あとはチビ助だが……なんだ、ここにいないのか?」
翡翠を腕に抱き締めたまま、きょろりと辺りを見回した白虎は、不思議そうに問う。
「我が君なら春宮に……弟君たちの御見舞をお受けになっておられます」
「はっはぁ! 紅牙のやつ、熾闇をとっ掴まえるのに成功したってわけか!」
きらきらと楽しげに少しばかり青みがかった白銀の瞳を輝かせた白の神は、豪快な笑みを浮かべる。
「それで、チビ助の成人の儀はどうなってる? あいつのことだ、逃げまくってるだろう?」
「いいえ。大人しいものですよ。なにせ、瀕死の怪我人でございましたから、無理はききませんからね」
「……なるほど、それで逃げ切るつもりか」
翡翠の言葉に目をくるりと丸くした表情豊かな神は、感心したように呟く。
「はい」
「あいつも馬鹿だなぁ……自分がもう子供ではないことに気付く機会だったというのに」
「は?」
思わず零れた白虎の言葉に、翡翠は不思議そうに首を傾げる。
「いや、こっちの話。人間は不便だと思っただけだ」
「……神々から見れば、確かに人は矮小な存在でしょうけれど……」
「そういう意味じゃない。心と身体の均衡が取れていないということだ。身体が欲していることを、心が認めないなど俺達には考えられんことだからな」
「はぁ……」
賢いはずの翡翠が、意味が判らないと言うように眉根を寄せている。
まるでむずかる子供のような表情を浮かべた翡翠の背を、白虎は宥めるように優しく叩く。
「おまえ達はそれでいい。それが人というものなのだろうから……あぁ、そうだ。おまえ達がもう少し育ったら、俺もこの姿で過ごすことにしようかな? おまえ達に合わせて、一年にひとつずつ年を取っていく姿を取るのも面白い」
面白いことを考えついたと、白虎はにやりと笑う。
それに異議を唱えたのは別の人間であった。
「白虎様、それはひどいではありませんか!? 私達より若いお姿を保つのは当たり前のことだと諦められますが、年下の姿で老けられるというのはあんまりです」
現在、ほぼ同年代の姿である蒼瑛が、渋い顔で告げる。
「白虎殿、それは楼閣へ二度と足を運ばれないと言うことと受け止めてもよろしいか? それは、非常にありがたいお申し出ということになりますが」
過去、何度も被害者になっていたらしい嵐泰が、実に冷静な口調で告げる。
蒼瑛の言葉に笑って聞き流していた白虎神だが、嵐泰の言葉にはさすがに顔色を変えた。
「ちょっと待て! そんなことを言ってないぞ、俺は!」
「以前、この姿だからこそ、ここで楽しむことができると仰っておられました。その姿を変えられるというのであれば、あちらへは行かないということでは?」
実に淡々とした口調での指摘に、白銀の髪の青年は盛大に顔を顰めた。
「おまえ、根に持ってるな!?」
「もちろんですとも。私の遠縁を騙るのは止めていただきたい。毎回、呼び出される身にもなってくだされ」
「……楼閣……?」
不思議そうな口調で呟いた翡翠に、その場にいた青年たちはしまったと言いたげな表情になる。
年頃の娘の前で口にしていい話題ではなかったと思っても、後の祭りである。
「あ、あのな、翡翠……」
大慌てでお気に入りの娘の御機嫌を取ろうとする白虎神を前に、綜家の姫君は納得したように頷いた。
「それでわかりました。最近、王宮でお姿をお見かけしないと思っていましたら、楼閣へ行ってらしたのですね」
「あ、いや……」
「太夫の名を持つ方々の技量は、王宮の楽師たち以上だと聞いております。さぞ、楽しまれたことでしょう」
「だ、だからな、誤解……」
天にあっては武神将である鍛え抜かれた大柄な美丈夫が、身を縮ませて小さな声で訴えている。
「誤解? 楽を聞きに行かれたのではないのですか? 以前、我が君が蒼瑛殿方と共にあちらへ行かれたとき、見事な楼閣に住まう大夫たちの技量は、見事だったとお伺いいたしましたが」
「あ、あぁ。うん。それは、真実だ。己の矜持に見合う努力を重ねた見事な技量を持っていた」
何をしに楼閣に行ったのかなど、とても恐ろしくて口にできない男たちは、ガクガクと首を縦に振る。
「是非、一度直接お聴きして、教えを請いたいものです」
身分にこだわらず、優れた者はそのまま受け入れる純粋な一面を持つ娘に、汚れた大人たちは絶対に真実を語るわけにはいかないと、視線で語り合い、協定を結んだのであった。