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翌日、半旗を掲げた颱軍を見た燕は、喜色を浮かべた。
半旗は忌をを表す。
昨日総大将を討ったという噂が流れたが、それが真実だと確信できたからである。
最前線に行った者達で、戻ってきた者は誰ひとりとしていない。
なぜなら、綜翡翠ただひとりにすべて討たれたからである。
智者として名を馳せる軍師だが、姿形麗しく、そうしてまだ若いと評判なため、その武勇については半信半疑であったが、その実力を昨日は遺憾なく発揮したようだ。
それゆえ、今日に至るまで、彼等は噂が真実かどうか確信が持てなかった。
そうして、今日、その綜翡翠を討ち果たせば、王太子府軍は崩れる。
常勝軍の誉れ高き王太子府軍の総大将、そして副将は、軍神と勝利の女神と兵達に崇められている。
不敗神話を持つ颱が破れ、燕が颱に成り代わる時が来たのだと、彼等は自分たちの幸運に酔った。
一方、半旗を掲げるように指示された王太子府軍の兵達は、落ち着いた様子で燕と対峙していた。
例え半旗を掲げるように命じられたとしても、総大将の訃報は告げられていない。
軍師は、それこそ常人が考えつかないような奇策を練ることができる。
これもそのひとつだと、彼等は信じた。
総大将の無事を言わず、訃報も告げず、曖昧に噂を肯定も否定もしない態度は、計略のためなのだと、一縷の望みに縋って彼等は己の心を支え、真っ直ぐに前を見据えた。
睨み合いは、半刻も保たなかった。
勝利を確信した燕が、我先にと陣形を崩しながら突っ込んできたからだ。
昨日大敗したという記憶は、彼等の中にはない。
むしろ、颱を圧倒し、勝ったのだという偽りの記憶が植え付けられている。
冷静なようでいて、気分が高揚し、冷静さを失った燕は、己の強さに傲り、そうして失速した。
最後まで冷静さを失わなかった颱により、燕は完全に壊滅した。
前の本隊のみに注意を払い、遊撃軍の存在を忘れ去った彼等は、犀蒼瑛、嵐泰率いる遊軍になぶられるように千々に引き裂かれ、そうして草原を血に染めた。
彩と長期に渡り戦ったその数日後に、王太子府軍は燕をも撃破してのけた。
信じがたいまでの知勇を誇る軍の誉れが大陸中に響き渡ったのは、さらにその数日後であった。
本陣宿営地に戻った将達は、兵達にそれぞれ事後処理を行うように指示を出すと、本陣天幕へと向かう。
今日こそは真実を聞き出さねばならぬと、決意を新たに軍議の間へ足を運び入れる。
すでに翡翠は、その場所にいた。
「軍師殿」
「皆様、本日はご苦労様でした。さぞお疲れになられたことでしょう。兵達を労ってくださいませ」
穏やかに微笑む娘の顔に疲労の色は見られない。
すべての責任を負い、その重圧に耐えながら大軍を率いていたのだが、心労をすべて覆い隠し、微笑むだけの強さをこの期に及んでも持ち続けるその強さに感服するばかりだ。
「亡き御方もお喜びくださいますでしょう。この地の平和を誰よりも願っておいででしたから」
その言葉に、やはりという思いが過ぎる。
「まずは皆様からの報告を伺いましょう。その後で、ゆるりとおやすみくださいませ」
「御意」
一礼した彼等は、自分の床几へ座り、そうして順番に報告を始めた。
すべての報告が終わり、小姓達が武将達の前に軽食を運ぶ。
本来ならここで祝いの席を設けるところだが、誰も何も言わない。
「軍師殿にお伺いしたい」
小姓達が去っていった後、利南黄が床に敷かれた絨毯を見つめ、押し殺した声で告げた。
「どうぞ」
「上将は如何なされておいでか?」
「お眠りあそばされておいでです。莱将軍がお傍に控えておられます」
今回は動じることなく、笑みを浮かべたまま、黒髪の娘は応じる。
「お目にかかることはできませぬか?」
断られることは承知の問い掛けであった。
王族の眠りを血に穢れた武将が妨げることは許されない。
わかっていての、問い掛けなのだ。
「そうですね。よろしいでしょう」
すっと立ち上がった娘は彼等の前を通り過ぎ、そうして振り返る。
「こちらへ」
何の迷いもない言葉に戸惑いながら、将達は軍師の後に従った。
奥まった場所へと案内した翡翠は、扉を護る兵に頷いて中へ入る。
「軍師殿」
「お疲れでございましたでしょう、莱将軍。今までありがとうございました」
つきっきりで護っていた莱公丙に、軍師は労いの言葉を惜しみなくかける。
そうして彼女は、寝台に眠る若者へと視線を向けた。
王宮に比べれば豪華とはとても言えないが、それでも充分に広い牀榻の上に目を閉じ眠る王子の姿。
陽に焼け、黄金色の肌をしていたはずなのに、血の気を失ったそれはとても白かった。
そのせいか、別人のように端正な寝顔であった。
とても息をしているようには見えない。
わかっていたし、覚悟していたつもりだが、彼等が身に受けた衝撃はかなりのものであった。
峰雅が亡くなり、王に相応しい王子は彼しかいないと、そう思っていただけに、心身共に堪えた。
せめてその死に勝利を捧げることができただけ、まだマシだったと自分に言い聞かせる。
男の身でこれだけの衝撃を受けたのなら、女性で、しかも半身のように育った翡翠が受けた衝撃はいかばかりかと、彼等は彼女に目をやる。
穏やかな表情を浮かべたままの娘は、繊手をそっと主の頬へとあてた。
静かな眼差しで従兄妹を見つめていた黒髪の軍師は、小さな声で何やら囁く。
あまりにも小さな声で、その内容は彼等には聞こえなかった。
だが、その直後、彼等は声を失った。
熾闇の瞼がピクリと動き、ゆっくりと睫が持ち上がる。
闇色の瞳がぼんやりと揺れ、そうしてある一点に定まると僅かに和む。
「……よく寝た」
掠れた声の第一声がそれであった。
「害虫並にしぶとい悪運ですね」
対した翡翠の回答も、実に素っ気ない上に険悪だ。
「………………悪い。怒ったか?」
「何か、思い当たる節でも?」
穏やかそうな表情で告げられた言葉に、熾闇はきまり悪げに上目遣いに彼女を見上げる。
「い、いや……やった後でまずかったかなぁ、なんて思ったりして……ごめん」
「まずい、なんてものではありませんでしたよ。陛下からのお咎めは、わたくしひとりが受けるから良いとしても、どれほどの心労を部下にお与えになったのか、一度、よく考えるべきでしょう」
「咎め!? 何で、咎め?」
翡翠の言葉に驚いた熾闇は、目を丸くして起き上がろうとし、身動きした途端、身を貫いた激痛に唇を噛み締めて唸る。
「そのお怪我の責任ですよ。部下を庇おうとする愚かな上司のお陰で、こちらが責めを負うことをお忘れですか?」
反省しなさいと言いたげな口調で告げる娘は、熾闇の頬にあてた手をゆっくりと動かし、労るように撫でる。
「癒しの手って本当にあるんだな。痛みが引いた」
不思議そうな表情になった若者は、うっとりと微笑む。
重病人特有の甘えが、王子を子供にしていた。
「すまない、翡翠。余計なお世話だってわかってたんだけど、おまえに怪我させたくなかったんだ。俺の方が頑丈だから、まぁいいかなぁって……おまえなら充分に避けられる距離だって、後から気付いて、失敗したと思ったんだけど」
でもまぁいいかと、反省した様子もなく、幸せそうに微笑む若者に、彼の部下達はあらぬ方を向いた。
何だか心配して損した気分になるのは何故だろうかと、眉間に皺を寄せて彼の弟が正直に思う。
「陛下には、俺が悪かったから責めを負うのは俺だと正直に話すから。おまえ達に咎はないことは誰が見ても明らかだしな。皆に済まなかったと伝えてくれないか?」
「そこに全員控えております。直接仰ってください」
実に冷ややかな声で、翡翠は視線を流す。
「いるのか?」
「薄情な総大将ですこと。皆、心配してここまで来られたというのに……」
頬を撫でる手つきは優しいが、言葉も態度も非常に冷たい従兄妹に、熾闇は困ったように彼女を見上げる。
「訂正する。物凄く怒ってるんだな。許してやろうとか思わない程度に。わかった。好きにして良いぞ」
「……潔いのは、大変結構ですが、重傷人相手にどうこうしようとは思いませんよ。今のご自分の状態に感謝なさい。とどめを刺そうなんて、さすがのわたくしも思いませんから」
にっこりと笑った翡翠は、撫でていた手を止め、彼の頬をむにっと摘むと横に引っ張る。
「いっ……いでででで……ッ!!」
痛みを訴えても、やめてくれとはさすがに口にしない。
その潔さは認めてやれないことはないが、非常に馬鹿らしいと、武将達は溜息を吐いた。
「軍師殿。熾闇殿を殺る時は、是非、私にも手伝わせてください」
倦怠感にも似た空気が漂う中、犀蒼瑛が声をかける。
「そうですな。軍師殿にはその権利が充分にございます。某もお手伝いいたしましょう」
溜息混じりに頷いた利南黄が、蒼瑛に同調する。
「上将のお命に別状が無く、安堵いたしましたが、これまでの軍師殿のご心痛、察して余りあります。観念なさいませ」
「そうですよ、三の兄上。この戦、すべて翡翠殿の手腕にて、無事に切り抜けられましたが、この方の受け持たれた重責は、本来兄上が負うべきものです。反省なさい」
笙成明が、言葉穏やかに窘めると、青牙も眉をひそめてそう告げる。
この場に味方はいないのかと、視線を巡らせた熾闇の視界に、近くに控える莱公丙の姿が映る。
「そんな顔をしても無駄ですよ、上将。私も軍師殿にお味方いたします。私がお側に向かうまで、軍師殿はたったおひとりで上将をお守り申し上げていたのですから。あれを見てしまっては、どんな言い分も聞けはしません。上将は軍師殿を護ろうとして、逆に危険に晒したのですよ」
元々陽気な男なら、きっと味方してくれるはずと期待していただけに、公丙の言葉は非常に堪えた。
「ほ、本当か?」
「こんな時に嘘言ってどうするんです? 後でじっくり教えて差し上げますから、早く元気になって、軍師殿にとどめ差されてください」
ようやく事の重要さに気付いた熾闇は、視線を彷徨わせる。
最後まで発言を控えていたのは、嵐泰ひとりである。
無口だが、痛いところを的確に突いてくれる嵐泰に言われたら、再起不能になると感じた若者は、先手必勝とばかりに声をかける。
「嵐泰、何も言うなよ! 傷が治ったらまとめて全部聞くからな。おまえにまで言われたら、へこんで立ち直れなくなる」
もう少し言葉を選んで言えばいいものを、正直すぎる王子は思ったままを口にする。
「……御意。では、傷を治すことに専念してくだされ。傷が治りましたら、ご希望通り申し上げましょう」
苦笑を浮かべた嵐泰は、目を細めて応じる。
「あ。今ひとつ質問を、軍師殿」
ふと気が付いたように、蒼瑛が声をかける。
「何か?」
「半旗の意味を聞き損ねておりました。何故、わざとらしく半旗を掲げたのでしょうか?」
「わざとではありませんよ。今日は、一の君様……峰雅様のご命日でござりましょう。皆様、お忘れでしたか?」
「……あ」
困ったような笑みを浮かべ、翡翠が問いかける。
「……そう、でしたね。確かに今日は第一王子のご命日になりますな」
「目先のことに捕らわれて、忘れておりました」
「では、一の兄上が三の兄上をお守りくださったのですね。まだ昇山してはならぬと」
思いがけぬ事を言われ、大事なことを思いだした彼等は苦笑を浮かべて頷く。
そんななか、青牙がほっとしたように呟いた。
「そうかもしれませぬな」
病弱であったが、それを感じさせない治世と強い意志を持った峰雅に、彼等は思いを馳せる。
その翌日、王太子府軍は王都へ向けて出立した。