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「翡翠様!」
緊張を孕んだ声が、副将たる軍師の名を呼ぶ。
「兄上は、兄上はどうなされたのですか!?」
悲痛な響きを含み、問い質す声に、翡翠は軽く眉をひそめただけであった。
「お教えください、翡翠様!」
そこにいたのは、麟霞、晴璃、珀露の三王子であった。
「何故、ここに?」
驚いた様に青牙が呟く。
本陣の天幕に、王子といえども一介の兵卒が立ち入ることはできない。
立ち入ることのできる将兵に招かれなければ、絶対に許されることではないのだ。
「誰の許しを得て、ここに来られましたか? お三方」
「私達は兄上の弟です! 弟が兄を見舞えないとはどういうことなのですか!?」
翡翠の問い掛けに、麟霞は答えることなく、逆に詰め寄ろうとする。
「止めよ! 晴璃、麟霞を抑えろ」
咄嗟に第八王子に命じた青牙が、麟霞と翡翠の間に立つ。
他の将軍達は、身分を考慮し、沈黙を守る。
「もう一度、問います。誰の許しを得て、本陣天幕へ参りましたか?」
表情ひとつ変えることなく、この中で最上位の地位を持つ翡翠が王子達に下問する。
「お許しください、副将殿。肉親の情に駆られて、許しを得ず、身分を嵩に立ち入りました」
すっと膝をつき、頭を垂れた珀露が、謝罪を口にする。
本来であれば、直接口を利くことも許されぬ地位の差を悟った少年は、それに合わせた礼を取る。
「申し訳ございませぬ。己の天幕に戻り、謹慎いたします」
「よろしいでしょう。お下がりなさい」
「はっ」
深く一礼をし、立ち上がった珀露は、翡翠と視線を合わせずにその場から立ち去る。
「珀露! 翡翠様、何故、教えてくださらぬのですか! 兄上は、兄上はご無事なのでしょう!? 翡翠様!」
晴璃に羽交い締めにされ、そこから抜け出そうと暴れながら麟霞が問いかける。
血の濃さは、性格まで似せるのかと思うほど、激情の仕方が熾闇を思わせる。
「兄上は、明日、お姿をお見せ下さるのですか!? 兵達が動揺しております! もし、無理なら、私をお使いください! この顔なら、兵達を抑える飾りぐらいにはなりましょう。翡翠様!」
「思い上がるな、馬鹿者!」
麟霞を抑えさせてから黙って様子を見守っていた青牙が、遠慮なく弟の頬を打った。
「おまえに三の兄上の影が務まるものか! 大将不在ぐらいで我が軍が揺らぐわけがない。新参者の分際で、大層な口を叩くものだな。大将を討ったと勘違いした燕が、明日の戦で隙を作る策だと何故考えぬ? おまえ達の浅はかさが、兵の動揺を誘っているのだぞ。敵を騙すにはまず味方からというではないか、三の兄上もなかなかの智将だと思わぬか?」
「……五の兄上……」
打たれた頬に手をあてた麟霞は、呆然とした表情を浮かべながら、青牙を見上げる。
そうして第七王子は、他の将軍達の顔を見渡した。
どの顔にも動揺や焦りは感じられない。
落ち着き払った、または面白がっているような表情で彼等を見守っている。
「では、兄上……三の兄上は……」
「多少の怪我はなさっておられるが、万が一、何処から情報が漏れるかはわからぬだろう? それゆえ、兄上が抜け出さぬように警護の者をつけているのだ。わかったな?」
「はい」
説き伏せられるがままに頷いた麟霞は、珀露が去った方へ視線を向ける。
あの賢い弟は、説明される前にすべて承知して退出したのだろうか。
同じ年の弟にわかったことが、自分にはわからなかったとは赤面の至りである。
今、将軍職にあるひとつ上の兄は、すべてを承知して自分を叱っている。
恨めしいと妬ましい、そして恥ずかしいと、麟霞は肩を落とす。
「出過ぎた真似を致しました。申し訳ございませぬ、皆様」
頭を下げ、謝罪の言葉を述べた麟霞に、ほっとしたように晴璃が腕を放す。
その様子から、晴璃も途中で事態を理解していたのだとわかり、さらに身の置き所を失った麟霞は、今にも泣き出しそうな表情になる。
「七の兄上、参りましょうか」
晴璃に耳許で囁かれ、頷いた麟霞は、もう一度謝罪を述べると、肩を落として天幕を後にした。
突発的な嵐が吹き抜けたかのような虚脱感を感じながら、青牙は軍師を振り仰ぐ。
「弟が御無礼を致しました、軍師殿」
許されるとは思わないので、その一言は口にしない。
罰を軽くして欲しいとも、もちろん言わない。
それがわかったのか、翡翠は柔らかな笑顔を浮かべて僅かに首を傾げる。
「お見事でございました、青牙殿。よく、仰せになられましたね」
「いえ。兄弟ですから、兄上のお気持ちも、弟たちの気持ちも、どちらもよくわかる、それだけのことです」
「ご自分の感情を上手く抑えられるだけでも、ご立派なことです。颱王族の皆様の御気性は、猛々しいと申し上げてもよろしいほどに激しいものです。よく、抑えられましたね」
すっと手を伸ばした翡翠は、麟霞の頬を打ったときに乱れた青牙の髪を指先で整える。
優しげな仕種は、従姉弟として、または母のような慈愛に満ちたものであった。
「ぐ、軍師殿……」
かあっと一気に頬を染め上げ、青牙は俯く。
憧れている従姉弟に思いもかけず触れられ、動揺を隠せないでいる。
「私は、ただ……」
恥ずかしげに、切なげに、言葉を紡ぐ青牙を遠巻きに見守っていた蒼瑛が横を向き、ふと溜息を吐く。
「見事に殺しているな。あれが素で、天然だというのだから恐ろしい」
「単に、青牙殿が羨ましいだけなのだろう?」
正直に言えと、嵐泰が冷ややかに応じる。
「図星を指されるのは、照れるな」
にやりと笑った蒼瑛は、翡翠に視線を向ける。
碧軍師という呼び名を持つ娘は、上座にある総大将の床几の向かって右斜め前、副将兼軍師の定位置についた。
彼女の意図を悟り、将達も己の位置に着き、床几に腰掛ける。
「では、軍議を始めましょう」
総大将、そして莱公丙将軍の二名が欠けた状況で、軍議が始まる。
荒れるか滞るか、進まないであろう事は、彼等の予想内であった。
本日の戦いの様子を翡翠が要点をまとめて報告をする。
何時、何処で、何が起こり、どうなったかと、手短にだが詳しくまとめ、告げた娘は、明日の作戦について話し出す。
だが、熾闇負傷の件を口にしても、容態には一切触れない。
聞きたいと思う武将達だが、どうにも聞き出せないでいる。
「明日は、遊軍二組は今日と同じく犀将軍と嵐泰将軍にお任せいたします。本隊はひとつにまとめ、正面から燕を迎え撃ちます。総大将は、わたくしが務めさせていただきます」
「……綜将軍。総大将のご容体はいかがでございましょうか?」
痺れを切らした蒼瑛が、にっこりと微笑んで問いかける。
「先程、青牙将軍が仰られたように、何処から情報が漏れるかわかりませぬゆえ、お答えできませぬ。ただ……」
顔色ひとつ変えずに答えていた娘は言葉を切り、主のおらぬ空の床几を肩越しに振り返ると、切なげに目を伏せる。
それは、付き合いの長い彼等でも初めて見る哀しげで儚い表情であった。
嫌な予感を覚え、どきりと不規則に鼓動が強く打つ。
「明日は、上座におられぬ方……今は亡き御方を忍び慕いて半旗を掲げ、敵を迎え撃ちましょう」
静かに、とても静かに告げられた言葉に、青牙が口許を手で覆い、悲鳴を押し殺す。
半旗を掲げるということは、貴人──王族に連なる者が死亡したとき、またはその命日などに喪に服すという意味がある。
忌むべき事──死亡や重傷を負ったなどの王族に不幸──があった場合、まったき姿ではないということで半旗を掲げることは大陸共通である。
最近の慣例では、重傷くらいでは半旗を掲げることはない。
蒼瑛、嵐泰、成明の脳裏に、彼女の天幕でのことが浮かび上がる。
常に冷静を保ち続ける碧軍師が、剣で衝立を粉々に破壊するなど普通では考えられないことをしたというのは、あの激情に駆られての行いは、半身とも言うべき存在を失ったからだと考えれば、納得がいくものであった。
「……王には、何と報告を?」
非常に乾いた声で、蒼瑛が問いかける。
「すべての責はわたくしに。覚悟はしております。しばらくの間、総大将の任は利将軍にお願いすることになりそうです」
穏やかに微笑んで答える娘に言葉に動揺は見られない。
では、すでに言葉通りに覚悟してしまったのだろう。
「後を追われるおつもりですか?」
「いえ。王の命に従うつもりでおります。天命尽きるまで生きると誓っておりますれば、違えることは名にかけて許されませぬ」
「そのお覚悟でしたら、我らも従いましょう」
「助かります」
小さな笑みを浮かべた翡翠は、すぐに表情を改める。
「明日中にすべてを終わらせ、王都へ戻りましょう。あぁ、馬車を一台仕立てねばなりませんね。揺れの少ない上等な設えの馬車を……」
何の為の馬車か、聞きたくもない。
馬に乗れぬ熾闇のために、馬車を用意するのだ。
第一王子に引き続き、第三王子まで失おうとしているのか。
王に相応しい資質を持つ者が、早世していく。
「その前に、明日の策について詳細にお話しいたしましょう」
そう告げた娘は、地図の前に武将達を呼び寄せた。