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戦場から本陣へと戻った遊撃軍主将の犀蒼瑛と嵐泰は、そこが異様な空気に包まれていることに気付いた。
押し殺したような気配と囁き声。
その端々に『上将が……』、『軍師殿は』と不安げな色が見え隠れする。
「……どう思う、嵐泰?」
「軍師殿か上将に何かあったようだな。いや、上将に、だ」
見上げるように問いかけられて、嵐泰は少しばかり考えた後、そう答えた。
「そうだな。手っ取り早く、聞いてみるか」
詳細を聞こうと、蒼瑛は近くにいた兵士を掴まえ、何が起こったのかと聞いてみる。
「犀将軍……あのっ! 実は、某にもよくわからないのですが、卑怯にも燕は女性である軍師殿を亡き者とせんがためにお命を狙い、それを察知した上将閣下が身を持って防ぎ、負傷なさったと伺っております。ただ、傷の具合が芳しくなく、瀕死の重傷を負われたとも、お亡くなられになったとも、デマが流れておりまして……」
「そうか。それで、軍師殿は?」
「ご自分の天幕にお戻りになられ、そのまま隠っておられる様子です」
「ありがとう。では、軍師殿の御機嫌伺いをすることにしよう。なに、上将なら大丈夫だ。今頃、軍師殿にお説教を喰らって不貞寝なさっておられるのだろう」
「そうですよね。あれだけの武勇を誇る御方ですから、大したお怪我ではないのですよね」
自分に言い聞かせるように告げる兵士に、蒼瑛はかすかに眉をひそめる。
兵士達が不安がるような噂が流れているとしたら由々しき問題だが、それが事実の可能性が高い。
「何しろ、やんちゃな方だから、おいたが過ぎて膝を擦り剥いて、軍師殿に呆れられたというのが事実ではないのかな?」
明るく、何でもないように軽い口調で告げた蒼瑛は、兵士に礼を述べ、嵐泰の許へと急ぐ。
「嵐泰! 拙いことになった」
「どうした?」
「熾闇殿、上将が、軍師殿を庇って重傷を負ったようだ。瀕死か死亡かはわからんが、とにかく危険な状況らしい」
小声で告げる蒼瑛に、嵐泰は目を細める。
剣呑な表情だ。
「軍師殿は?」
「ご自分の天幕にいらっしゃるそうだ」
「お逢いせぬとならぬようだな」
噂だけでは何ともならぬと判断したふたりは、当事者に会いに行こうとしたときだった。
伝令が彼等の姿を見つけ、走り寄る。
それは、今、彼等が会いに行こうとした軍師からのものであった。
本陣の天幕へと集まるようにとの言葉に、ふたりは顔を見合わせる。
「どうする?」
「なに。どうせ通り道に軍師殿の天幕がある。立ち寄ったところでお怒りにはなるまい」
からりと笑って答えた蒼瑛の言葉に、嵐泰は躊躇いがちに頷いた。
天幕に戻った翡翠は、人払いをし、疲れたように床几に腰掛ける。
自己嫌悪の嵐の真っ最中である。
護るべき相手に護られ、尚かつ重傷を負わせてしまったのだ。
落ち込むなと言う方が無理だろう。
しかも、それだけでは終わらずに、彼女は別の人間に熾闇を押し付け、最後まで右翼軍の指揮を執っていたのだ。
感情を乱さず、冷静に。
それが大切なことを誰よりも知っている。
だが、それだけであれば、人でなしの同義語である。
失敗したと言いながら、熾闇はとても嬉しそうだった。
翡翠が無事だったことに、満足していたのだ。
「なぜ、気付かなかった!? 気付いていれば……」
自分が万能ではないことを十分すぎるほど承知している娘は、過ぎてしまったことを今更のように悔いる。
もう少し早く気付けば、熾闇にあの様な真似をさせなかったのにと、後悔したところでもう遅い。
投擲用の槍は、少しでも遠くに飛ぶようにと先端部分が重く造られている。
それゆえ、的に当たれば、自重で深く肉に食い込むようになっている。
普通の槍であれば、あの状況なら鎧が弾き返してくれたはずだ。
「しかし……」
投げられた槍が投擲用でなくとも、翡翠がもっと早くに気付いたとしても、あの状況になれば何度でも熾闇は飛び込んでくるだろう。
翡翠と熾闇は対のように育ったが、同じ人間ではないのだ。
立場も違えば、根本的な考え方が違う。
翡翠にとって熾闇は軍の総大将であり、主なのだ。
軍を指揮する立場にいる以上、兵の士気に気を配らなければならない。
あの時、熾闇と翡翠の立場が逆であったとしたら、翡翠は迷わず槍を落としにいっただろう。
熾闇に傷を負わせるわけにはいかないが、自分も傷を負うわけにはいかないからだ。
乱戦で、将が討たれることは、即士気に関わる。
第三王子がしたことは、軍を束ねる者が取ってはならない行動だったのだ。
「よりにもよって、わたくしを庇うなど……」
そのことが、一番口惜しかった。
王子の片腕たる綜翡翠が、碧軍師と呼ばれる彼女が、熾闇に庇われるなどあってはならないことだった。
熾闇に信頼されていなかったということなのだ。
「……………………ッ!!」
床几を蹴倒すように立ち上がった翡翠は、腰に吊していた剣を鞘から抜き取ると、衝立を真っ二つに叩き斬る。
だが、それだけでは気が晴れず、さらに剣を振るう。
生まれて初めて、翡翠は激情のままに八つ当たりをした。
犀蒼瑛と嵐泰は、翡翠の天幕に向かう途中に、見慣れた人物を見つけた。
「成明!」
「蒼瑛殿、嵐泰殿……」
本陣の天幕へと向かっていた笙成明は足を止め、泣き笑いのような表情でふたりを迎える。
「ご無事で何より……」
「我らのことはどうでもよろしい。それより、上将と軍師殿はいかがした?」
「上将は……莱将軍が本陣へお運び申し上げて、それ以降はまったく……あ、いえ。上将が軍師殿をお庇いになられたのはご存知でしたか?」
「先程、兵に」
「そうでしたか。軍師殿は、公丙殿が到着されるまでの間、ただひとりで上将をお守り申し上げ、公丙殿に上将を託した後は、いつもと変わらぬ様子で右翼軍を率いておいででした。最後まで我が軍が優勢を保てたのは、軍師殿が平素と変わらぬ落ち着いた様子で指揮を執られたお陰です。上将のお部屋には、公丙殿の旗下の兵士が厳重に警備をして他の者を排除しておりますので、何もご様子についてはわかりません」
ふたりが知りたいであろう事を要点だけまとめて話した成明は、溜息を吐く。
「今、一番つらい立場におられるのは、軍師殿でしょう」
「そうだな。本陣へ行く途中、軍師殿の天幕へお寄りしようかと、嵐泰と話していたところなのだが、おぬしも一緒に来るか?」
「はい」
蒼瑛の言葉に頷いた成明は、彼等と共に歩き出した。
青年たちが軍師の天幕に到着したとき、中から凄まじい物音が響いた。
「……ッ!?」
思わず顔を見合わせた青年たちは、無礼を承知で天幕の中に飛び込んだ。
「失礼、軍師殿!」
「いかが致しましたか、軍師殿?」
「誰か、おらぬのか?」
いつもなら控えているはずの侍女達の姿も見えず、三人は周囲を見回す。
再び、何かが壊れるような物音が響き、彼等は音がした方へと駆け出す。
「軍師殿!」
扉代わりの垂れ幕を捲り上げ、中に飛び込んだ青年たちはその場に立ち竦む。
剣を手にした翡翠が、彼等に背を向け佇んでいた。
彼女の前には原形を留めぬほど小さく切り刻まれた木片の山がある。
それが彼女の部屋を飾っていた衝立の成れの果てだと気付いたとき、ぞっと冷たいものが背中を走り抜ける。
いつも穏やかな娘に、これだけの激情が潜んでいたのかと、別人を見るような気持ちで彼女の後ろ姿を見つめ、言葉を失う。
「……何が、あったのですか? 軍師殿」
掠れた声で、かろうじて声を掛けたのは笙成明であった。
「お怪我はございませんか?」
「…………成明殿?」
その声に、翡翠が怪訝そうな表情で振り向く。
いつもの穏やかな表情を浮かべた彼女であった。
「蒼瑛殿に嵐泰殿まで……ご無事でよろしゅうございました」
「我々は無事ですが、その衝立は無事ではないようですね……」
粉々になった足許の衝立に視線を落としたまま、蒼瑛がそう答える。
「あぁ……お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。単なる八つ当たりです。わたくしもまだまだ子供ですね」
困ったように微笑む翡翠に成明が近付き、彼女の手から剣を取り上げる。
「子供が何だというのです! こんな時くらい、私達に気を遣わなくてもよろしいのです。涙したところで誰もあなたを責めたりは致しません。ですから、この様な無茶はなさらないでください。寿命が縮みます」
珍しくきつい口調で彼女を叱りつけた若者は、綜家の末姫が怪我をしていないかどうかを入念に調べる。
成明の常ならぬ迫力に驚いた翡翠は、瞬きを繰り返しながら、彼の為すままに任せ、そうしてこの場合、一番適当である言葉を思いついて口にする。
「……ごめんなさい」
「よろしいのですよ。私に謝らなくともよいのです。内に溜め込まず、すぐに吐き出してください。そのために我々がいるのですから……本当に怪我がなくてよかった」
ほっとしたように告げた成明は、翡翠に剣を返し、蒼瑛達を振り返る。
「お見事。柄になく感動したぞ、成明。夢見る乙女から世話好きの兄に格上げしてやろう」
「……蒼瑛殿!?」
彩との戦の折り、逃走中の会話を思い出した成明は、からかわれていることを承知しながらも、頬を染めて怒る。
「ほっといてください!」
「放ってはおけぬなぁ。実に面白い」
「蒼瑛! 成明殿をからかうな。すまんな、成明殿。後で言って聞かせておくから」
面白がる蒼瑛を窘めた嵐泰が成明に謝罪し、そうして翡翠に視線を戻す。
「軍師殿。この様なときにお聞きするのは心苦しいのですが、上将は如何なされた? ご容体は……」
その言葉に、翡翠は顔色を失う。
滅多なことでは崩れない娘が、こうもあからさまに反応を示すことは珍しかった。
「お答え……できません。本陣の天幕へ参りましょう。他の皆様もお揃いになる頃でしょうから」
手にした剣を鞘に収めた翡翠は、瞳を閉じ、軽く呼吸を整えると、穏やかな表情に戻り、答える。
「そうですね。承知した」
追い詰めてはならないと、そう判断した嵐泰は、あっさりと引き下がり、蒼瑛を促す。
ゆったりとした足取りで、彼らは軍師の天幕を出た。
誰もが物問いたげな視線を軍師に向ける。
現時点で、すべてを把握している人物といえば、綜翡翠以外にいない。
だからこそ尋ねたいのだが、その答えが聞きたくないものであることが恐ろしく、聞くことができない。
知りたいが、知りたくない。
矛盾する感情を抱え、皆が翡翠を見つめる。
それは無言の重圧だろう。
そんな中、翡翠は背筋を伸ばし、ゆっくりとした歩調で天幕へと向かう。
「軍師殿」
左翼軍をまとめていた利南黄と青牙が彼等に気付き、声を掛ける。
「お見事な采配でございました。これならば、明日には決着が付くことでしょう。近い内に王都でゆっくり休めますな」
利南黄が、にっこりと笑いながら話しかけてくる。
その言葉で、周囲の空気が変わった。
さすが、最年長の将だけあって機を見た言葉の選び方が上手いと、誰もが思う。
「もちろん、そうなるようにこれからお話を致しましょう」
小さく頷いた翡翠は、そう答えると、本陣の天幕へと足を踏み入れた。