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草原に風が吹き渡る。
風の神が、その領内を犯した不逞の輩を追い払おうとしているかのように、また、血生臭い香りを吹き飛ばそうとしているかのように、風が吹き荒れる。
例え、己が守護する国が滅びようとも、人の子の争いに関与できないのが、その地に奉じられた時の神獣の約定である。
人として、己の領国を護るは、当然の義務であり、権利だ。
それが、どれだけ神獣の心を痛めようとも、しなくてはならないことなのだ。
そう、自分に言い聞かせ、彼等は剣を取り、馬を駆る。
夜明けと共に始まった羌の攻撃に、颱はそこそこの成果を上げていた。
すでに、戦が始まって一ヶ月が過ぎた。
小競り合いのような戦を日に数度繰り返しては、陣の位置を変えていく。
退路を断たれないように互いに気を張り詰めながら、慎重に戦を進めていく。
まるで碁盤上の戦いだ。
相手の手を予測しながら、駒を配置していく。
「なかなかやるな、あの女」
床几に腰掛け、膝の上で頬杖をつきながら、熾闇は感心したように呟く。
物心がついてすぐから剣を取り、馬を駆って戦場に出ている熾闇にとって、この場所は馴染み深いところであるが、相手の羌の女帝は、戦の総大将としては初めてである。
決して勝ちに急がず、しっかりと颱の様子を見つめている彼女は、戦上手だと言えるだろう。乱世に相応しい気質と気概を持っている女性かもしれない。
「だが、腑に落ちん! 何でこんなにまどろっこしいやり方をするんだ!?」
総大将として、軍師の示す案に頷くだけの熾闇だが、軍師に頼らずとも、大軍を己の手で采配するだけの知識と度量は持ち合わせている。だからこそ、今の状況が納得いかなかった。
短期決戦で、必要なものを奪い取ればそのまま己の領地に戻るだけの羌が、いつまでたっても己の領国に戻らない。もちろん、それだけのものを与える颱ではないのだが、手に入れられないとわかればあっさりと引く羌らしくない。
他に、何か狙っているものがあるのだろうか。
考えてみたが、わからない。
あまり難しいことは考えないようにしている上に、女性の心などまったくわからない熾闇であるゆえに、考えることを放棄した。
「……翡翠に聞きゃ、わかるか」
何でも完璧な乳兄弟に尋ねてしまえと、簡単に結論付けた熾闇は、馬を引かせると、飛び乗り、自慢の乳兄弟の許へと向かった。
颱は、他の国と比べて軍役に関わる者の数が多い。
それは、豊かな風土と中央への足掛かりとして、非常に良い場所に位置しているせいで各国から狙われやすいということもあるが、それとは別に、とても珍しい女子軍が設置されているせいもある。
女性の士官は当たり前。
男ばかりの小隊に、女性軍人が混ざっていることも珍しくない。
その中で、特に優れた資質を持つ者だけを集めたのが、女子軍である。
規模としては中隊ほどであるが、彼女達があげた数々の功績は、颱軍の中でも一際異彩を放っている。
結束が堅く、そして彼女達が持つ特殊な才能ゆえ、本隊には加わらず、遊軍として活動している。
その彼女達の上に立つのが、綜翡翠であった。
軍師として、大軍を自在に操りながら、女子軍へひそかに命を飛ばす。
「楓、皆を撤退させなさい。間もなく羌の総攻撃が始まります」
「承知」
楓と呼ばれた女将が、軍師に対して一礼すると、すぐにその場から姿を消す。
「……あれが名に負う女子軍の将ですか。いやはや、軍人には勿体ない美貌ですな」
後衛にいるはずの犀蒼瑛が、感心したように翡翠に声を掛ける。
「蒼瑛殿」
少しばかり困ったような顔をした綜家の娘は、苦笑を浮かべる。
「彼女達に知れたら、剣を向けられますよ。軍人は、己の技量でなるものであり、容姿には一切関係ないとね」
「仰るとおりですが、やはり、愚かな男子は、女性の器量に惹かれるものです」
殺伐とした状況を知りながらも、のんびりと世間話をする度胸はさすがと言えるだろう。
それを知っているからこそ、翡翠もそれ以上窘めようとはしない。
将が悠然と構えていれば、その下の兵士達も落ち着いて働くことができるのだ。
「蒼瑛殿のような華やかな御方の言葉でしたら、あの者達も納得するかも知れませんね。彼女達の間では、蒼瑛殿は人気者のようでしたから」
「それはありがたい! 滅多に話す機会がないゆえ、こちらに来られたときには、是非とも話し相手を頼みたいものだが……っと、そういうことを言いにきたのではなかった。少しばかり尋ねたいことがあって参ったのですが、お時間はよろしいか?」
馬の首を叩いて宥めながら、蒼瑛は言葉を紡ぐ。
のんびりとした風情を醸し出しながら、その実、まったく隙を見せない男は、同じく馬上の翡翠を真っ直ぐに見つめ、そうして口を開こうとして、後ろに視線を流した。
「……我が君」
蒼瑛が気付くよりも早く、主の姿に気付いた娘は、手綱を操り、第三王子へと馬を寄せる。
「何事かございましたか?」
「尋ねたいことがある。おまえにならわかるかと思ったんだが……」
「……軍師殿に、ですか?」
手綱を引き、馬の向きを変えた蒼瑛が、翡翠とは反対側に馬を立てる。
「あぁ。羌は何を考えて、あんなにまどろっこしいやり方をしてるんだ? 消耗戦を覚悟しているのはわかるんだが……」
「そのことでございましたか。蒼瑛殿は何をお尋ねに参られたのです?」
小さく頷いた男装の娘は、主の向こうにいる男に、小首を傾げてみせる。
「あぁ……確か、ここは商隊が通る道ではなかったかと思ったもので……」
すでに何らかの答えを見出したらしい犀蒼瑛は、軽く肩をすくめて答える。
「何!? 商隊だと! ならば、陣を動かさないと……翡翠?」
くつくつと肩を揺らして笑う軍師に、訝しげな視線が集まる。
「確かに、かつては商隊が通る道ではありましたな」
「……動かされましたか」
納得したように頷く蒼瑛とは対照的に、熾闇は首を捻っている。
「ここが、商隊の公路であるがゆえに、羌はこの場に固執しているっていうわけか?」
しばらく考えた後に、彼が導き出した答えはこうであった。
四神国内に張り巡らされた商隊の公路は、非常に安全であり、また豊かな物資を運ぶと知られている。
その公路の行く手を阻み、中央へと向かう商隊の荷駄を奪うために、羌がこの地でのらりくらりと戦いを長引かせているのではないか、ということであった。
だが、王都から来る商隊も、また王都へ向かう商隊も、ここ数ヶ月は見ていない。
「女子軍を動かして、公路を変えております。路はあの者らが守護しておりますゆえ、羌の者には見えませぬ。物見が羌の騎影を捉えたらすぐに路を移動させておりますので、しばらくは、もちましょう」
「……羌は、こない商隊を待ち続けているというわけか?」
「御意」
あっさりと頷く軍師に、男達は顔を見合わせる。
「……何となく、性格悪くないか、おまえ?」
「さすが軍師殿ですな。抜かりがない」
褒めているのか、貶しているのか、さっぱり判らないようなことを言う彼等に、翡翠は澄まして答える。
「民人の益を護るが、我らの務め。商隊が我らにもたらしてくれる情報は、どれも得難いものばかりですゆえ」
軍配を掲げながら告げた軍師は、それを振り下ろす。
それを合図として、陣形が変わっていく。
一糸乱れぬ布陣は、将達の能力の高さを示している。
この分であれば、颱は間違いなく勝利すると、誰もが確信したその時、異変が起こった。