間章:ならず者のブルース(5)
どれぐらい、時間が経っただろうか。寝台――というか、足のついた板――の上で身をよじる。僅かな身じろぎだけで、寝台と身体がぎしぎしと軋んだ。
薄暗い牢屋は時間の間隔を失わせる。何度か食事を与えられたが、一日三食とは限らない。拷問で何度か意識が飛んでることもあり――シュトリの姉御に捕まってから、いったい何日が過ぎたのか、解からなかった。
姉御は問答無用で、俺をブラン共々ぶちのめした。そして気が付けば、このかび臭い牢屋の中である。おそらく、貴族街にある屋敷――つまり、旦那のねぐら――に備えられた地下牢だ。俺も何度か足を踏み入れたことがある。もっとも、その時はぶち込まれる側じゃなくて、ぶち込む側だったんだがね。
そして目覚めた俺を出迎えたのは、素敵で愉快な拷問だった。質問は「女は何処だ?」の一点張り。もちろん答えるわけがねぇ。おかげで散々殴られた。あちこちが痛ぇし、右目が殆ど見えなくなっちまった。潰れちまってないといいんだが。
だが、拷問されてのは悪いこっちゃない――おっと、殴られて喜ぶ趣味があるわけじゃないぜ。俺が痛めつけられてる間は、まだアニーが見つかってないってことだからな。それより問題はブランだな。無事だといいんだが。
俺の拷問に、姉御は顔を出さなかった。流石に直属の部下を拷問するのは気が咎めたのか、それとも俺なんぞに構っている暇が無いのか――たぶん、後者だろうな。部下を痛めつけるのを躊躇うような女なら、俺を意識が無くなるまで叩きのめしたりはしないだろ。
顔を出さないといえば、あの嗜虐と可虐と残虐が服を着て歩いているような旦那も姿を見せない。そいつがなんとも不気味だった。いや、出てきたら出てきたで、どうせろくでもない目に遭わせてくるから、出てこなくていいんだが。居ても居なくても人を不安にさせるんだから、まったく嫌な上司である。
つらつらと、そんなことを考えていると――なにしろ他にやることが無い――誰かの足音が聞こえた。どうしてこう、牢屋って奴は足音がよく響くんだろうな。
「よう、生きてるか?」
鉄格子の向こう、蝋燭のささやかな明かりに浮かび上がるのは、見たくも無い面だった。ブッチャーよばれていた拳闘士で、拷問では率先して俺をぶん殴ってくれた糞野郎である。背後には、何人かのお仲間が続いている。
「幸いにもな。で、また拷問か? そろそろ時間の無駄だって気付けよ」
「無駄じゃないさ。俺が楽しい」
いやな笑みを浮かべながら、潰し屋がこきこきと指を鳴らす。俺を殴りたくて堪らないらしい。
「ま、残念な事に今回は違うんだけどな――いやもう、本当に残念な事にな!」
心底残念そうに潰し屋は言う。そして、続く言葉は俺にも残念な知らせだった。
「ソラトの旦那がお呼びだぜぇ?」
その言葉の意味を理解し、俺は顔を引きつらせた。まったく、滅多な想像をするもんじゃあない。嫌な想像に限って現実になりやがる。
俺の表情を見て、ブッチャーは満足げに頷くと、厳粛とすらいえる口調で付け足した。
「処刑は、俺にやらせてもらうように頼んでみるぜ」
「……そりゃどーも」
そいつは御免だった。どんな目に合わされるとしても、こいつを喜ばせるのは癪だからだ。
両脇から抱えられ、引きずられるようにして、俺は引っ立てられた。
執務室と呼ばれているその部屋には、四人の人間が俺を待ち構えていた。
ひとりはシュトリの姉御。美しい顔を不機嫌に染め、机に行儀悪く腰掛けている。
その向かいに佇むのが、黒髪を長く伸ばし、異国風の衣装に身を包んだ美人――カイムの姉御である。
カイムの姉御は百鬼夜行の数少ない良心だ。だが彼女の姿があることを喜ぶ気にはなれない――なにせ彼女の仕事は内部粛清だ。下手をすれば、その手に握ったグレイブが、俺の首を撥ねる事になる。
三人目は始めてみる顔だった。身なりの良い男で、軽装の鎧を身につけている――その装いと物腰から貴族、それも騎士だと推測できた。
そして、最後の一人。扉の正面、窓を背に、重厚な机に足を投げ出すようにして座る少年がいる。
「よう、ジェイク」
夜を切り取ったような黒髪に、磨き上げられた黒曜石の瞳。相貌は整っているはずなのに、どこか蛇や虫のような生理的嫌悪感を湧き上がらせる。
「ソラトの旦那……」
闇黒街に君臨する暴君にして、犯罪ギルド〈百鬼夜行〉を束ねる首魁。
大悪魔ソラト。その眼光を受け、俺は頬を引きつらせた。
「意外と元気そうじゃないか――拷問、ちょいと手温かったんじゃないか?」
「くれぐれも殺さないように、とのご命令でしたんで」
旦那の言葉に答えたのは、俺を引っ立ててきたブッチャーだった。シュトリの姉御がぴくりと眉を動かす。手下が勝手に口を開いたのが気に食わなかったらしい。
一方で、旦那は気にした風もなく、機嫌よさげだ――もっとも、機嫌の好し悪しが何の安心にも繋がらないのが旦那なのだが。
それより俺が気になったのは、旦那の情婦であるエレンの姿が無いことだった。あの女は、いつも旦那の傍に侍ってんだが。
俺の視線を別な意味に取ったのか、旦那は鎧の男を顎で示す。
「ああ、紹介しよう。こちらはジマー侯爵のご子息、アンドリュー君だ」
旦那の紹介にも、アンドリューとやらは無言だった。下賎なものと口を利く気は無いらしい。
足を組み直し、旦那は本題へと入る。
「で――お前の女は何処に居る?」
「……生憎っすけど、お話しできる事は何も無いっすね」
そう答えた次の瞬間、俺は床に口付けることになった。俺を両脇から抑えていた兵隊達が俺の頭を掴み、床へと叩きつけたのだ。視界に星が散り、鼻の奥が鉄錆くさくなる。
「口の聞き方に気をつけな、ボケナス」
机から降りたシュトリの姉御が、氷のような瞳で俺を見下ろした。
「殺すよ?」
それが冗談でも脅しでも無いことは、疑いようもなかった。アニーの居所を吐かせたいなら拷問を続ければいい。わざわざ旦那の前まで引っ立てたという事は――最後通告を行なうためだ。
踏みつけられる俺を見て――ソラトの旦那は何時も通りの、にやにやと笑みを浮かべている。カイムの姉御は無言だ。その瞳には葛藤が揺れている。俺を庇いたいが、火に油を注ぐ結果になりかねないことを恐れているのだ。まったく、その心意気だけで泣きそうになるね。
姉御は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、足をどけ――今度は俺の胸倉を引っつかんで引きずり起こした。これでもガタイはいいほうなんだが、姉御の豪腕にかかったら芋袋みたいに持ち上げられちまう。それも片手でな。
「アンタ、天秤に乗ってんのが、自分の命だって理解してる? 殺すよ?」
「それは、わかってんす、けど、ね……」
ぎりぎりと締め上げられながら、俺は弱々しい笑みを浮かべた。
「何でそこまで、その女に義理立てする? 昔惚れてた女とか? まだ未練があるってこと?」
「いんえ……」
今も昔も、俺とアニーの間にそういう甘酸っぱい何かは無かった。確かに、かつて命を預けあったという義理は有っても――それだけだ。自分の命を危険に晒して、今の仲間を裏切ってまで手助けする義務はねぇ。
だが。
「俺は――あの時間を、嘘にしたくねぇんすよ」
俺の人生で、一番まともだった時間。ただ惨めだった餓鬼の頃とは違う。ただ腐っているだけの今とは違う。ごく普通の、ありふれた、しかし掛け替えのない日々。
だからこそ、俺は全てを捨ててまで仲間を助けようとした。彼らと過ごした時間を、無残な結末で終わらせたくなかったからだ。自らと引き換えに彼らを救おうとしたことに、後悔は無い。
そして――もしここでアニーを見捨てたら、あの時を決断を翻すことになる。あの日々を、嘘にしてしまう。
それは、出来なかった。
「そうかよっ!」
怒りに顔を歪めて、姉御が小さな拳を振り上げる――ああ、あれに殴られたら本当に死ぬかもしれん。ブッチャーとは違う、技術も何も無いが、それを問題にしない豪腕から放たれる拳は岩をも穿つ。
「待て! シュト――」
咄嗟に、黒髪の乙女が静止の声を挙げ。
「――待て、シュトリ」
同時に静かな、しかし絶対の言葉が、死の天使を凍りつかせた。
「ソラト……」
「嘘には出来ない。嘘には出来ない、ね」
そう呟く旦那の顔からは、笑みが消えていた。
旦那は良く笑う。いつも不敵な笑みを浮かべてるし、悪巧みの最中にはにやにやと嫌な笑みを浮かべる。怒るときでさえ、口元は笑みを刻んでいるのだ。
だから笑っていないときが一番怖いのだが――今の旦那からは、どこか憂いにも似たものが窺えた。
「素晴らしい。実に素晴らしい。感動したよ、ジェイク」
しかしそれも一瞬、どこかゆるりと弛緩した、皮肉っぽい笑みが戻る。
「でも残念だったな?」
戻った笑みは形を変える。闇夜に浮かぶ月のように頬が裂ける。瞳に悪意の焔が渦巻き、残虐の稲妻が光る。
「エレン?」
「ここに」
悪魔の声と同時、隣室への扉が開いた。中から現れたのはソラトの情婦であり、忠実な僕であるエレンと、そして。
「放せ……放せテメェ!」
「アニー!」
縛り上げられ、引きずるように連れてこられたのは、かつての部下にして、〈百鬼夜行〉が追っているはずの女――アニーだった。
「ジェイク隊長!」
アニーは猿轡を噛まされていなかった。エレンに罵声を浴びせていた彼女は、俺の有様を見て悲鳴を上げる。
そして、即座に殴り倒された。エレンが腰に吊るしていた金属製の打棒を引き抜き、無造作にアニーの頭に振り下ろしたのだ。
耳を塞ぎたくなるような音とアニーの悲鳴、そして赤い血が飛び散った。
「お静かに」
頬を汚す返り血を拭うことなく、静かな声音でエレンが告げる。
「ソラト様の御前です」
氷のような無表情と、無機質な視線。躊躇無く暴力を振るう姿……彼女も、盗賊をやっていたとは言え、元々は普通の村娘だったハズだ。だがソラトの旦那に飼われてるうちに、どんなヒデェ真似でも平然とするようになっちまってる。
「アハ、アハハハ、アハハハハハハハ!」
絶句する俺を見て、悪魔が哄笑を挙げる。
「残念だったなぁジェイク! 女はとっくに見つけてたんだよ! 何されても頑張って耐えてたのになぁ! アハハハハハハ!」
王都闇黒街は既に〈百鬼夜行〉の根城。時間さえあれば、女ひとりを見つけるのは難しくない。
既に女を見つけていたにもかかわらず、さもまだ見つけていないかのように拷問を続けていた。何故か? 安心させるためだ。まだアニーが見つかってないのだと、安堵する俺を笑うために。苦痛に耐える俺を、嘲笑うために。
「く、く、く。この女、百鬼夜行を探ってたんだよ。捕まったお前を助けようとしてたらしいぜ? そのせいで逆に見つかっちまったんだがなぁ? いやはや、仲間思いだねぇ、お互いに」
帰ってこない俺を心配したアニーは、〈百鬼夜行〉に探りを入れた。そして俺がつかまったと知り、何とか助けようとした。
構わず逃げればいいものを……とは思うが、責める気にはならなかった。逆の立場なら、俺でもそうするからだ。
「――捕らえていたなら、何故もっと早く知らせていただけなかったのですか?」
これまで無言を貫いていた侯爵の息子――アンドリューが旦那へと非難の声を挙げる。
旦那は嘆息し、肩をすくめた。
「解かってないなぁ。知らせるにしても、相応の演出ってやつが必要だろう? アンドリュー君」
「理解しかねます」
アンドリューは旦那の悪趣味を一言で切って捨てる。
「それより、書類のほうは?」
「心配しなさんな。ちゃんと確保してるとも」
言って旦那が懐から取り出したのは、アニーが必死に守っていた書類だった。アニーと共に、こちらも確保していたらしい。
「それを渡していただけますか」
「もちろん」
旦那が差し出す書類に、アンドリューが手を伸ばす。
その指先が紙に触れようとした瞬間――黒い炎が燃え上がった。
「――貴様らの下らん不始末のせいで、俺は手駒を一つ失う羽目になった」
響いた声に、部屋に居た誰もが震え上がった。
旦那の背後には、銀色の髪と褐色の肌、そしてその全てが透き通る妖婦の姿が浮かび上がっていた。
〈ダークエルフの亡霊〉アナスタシア。旦那の愛剣に宿る、生きるもの全てを恨む悪霊である。
「この不快感、どうしてくれる?」
主の殺気を感じたのか、亡霊が宙を滑る。美しき死霊は愛しむように抱擁し、甘えるように頬を寄せ、媚びるように舌を這わせた。彼女が求めているのは死だ。命を刈り取らせろと、苦痛と恐怖の声を聞きたいと強請っている。
アンドリューの顔は青ざめ、足は震えていた。それを笑う気にはなれない。失禁しないだけで立派だ。
「とっとと失せろ。侯爵には書類と女は始末したと伝えな」
「し、しかし、女はまだ――」
再度、漆黒の火炎が荒れ狂った。
「ああああああ!?」
アニーの身体を、炎の舌が舐める。肉の焼ける嫌な匂いが、部屋に充満した。
「ああ、ああ、ああああああ!?」
苦痛の声を挙げ、アニーが床をのた打ち回る。彼女はまだ生きている。焔が踊ったのは一瞬だけ、命を奪うほどの勢いは無かった。
だが。
「唯では殺さない。そいつにはこれから、たっぷりと地獄を見てもらう――俺は不機嫌なんだよ」
まだ生きている。そのことが、悪魔の前ではむしろ同情すべき事に変わる。死は救いだ。死ねば、これ以上苦しむ事は無いのだから。
「それとも、お前が代わるか?」
もはやアンドリューは言葉を失っていた。貴族の子息という身分や、近衛騎士という肩書きなど、悪魔の前では何の意味も無い。格が違うのだ。
「お客様がお帰りだ。送って差し上げろ」
「畏まりました――どうぞ、こちらに」
エレンに促され、アンドリューは姿を消した。
「さて、ジェイク」
旦那の視線が俺へと戻ってくる。続けて投げ渡されたのは――ポーションだ。それも旦那が手ずから造った品だと知れる。驚くことに、旦那は一流の、いや規格外の〈調合師〉でもあるのだ。
「こいつを自分と、その女に使え。しばらく休んでて良いぞ」
「――へ?」
間抜けた声を挙げたのは俺だけじゃなかった。ブッチャーも、シュトリの姉御も、カイムの姉御も虚を突かれた顔をしている。
「だ、旦那? いったい何を?」
「お前こそ何を言ってるんだ?」
慌てるブッチャーに、旦那はにんまりと笑った。
「何で俺が、馬鹿正直にあんな連中の言いなりにならにゃならんのだ?」
言って、懐から取り出したのは、先ほど灰になったはずの書類……だとすれば、さっきのは偽物か。アニーを捕らえてから時間を置いたのは、複製を用意するため。アンドリューに渡さずに燃やしたのは、確認されるのを避けるため。
「俺は奴らと手を組んでいるが、それも所詮は今だけの事……素直に従う義理は無いし、弱みを握っておくに越した事は無い、ってな」
悪党そのものの顔で、実に得意げに、旦那は言う。
旦那は悪意の塊だ。人を殺すのも、陥れるのも、躊躇するはずがない。
だが幸いにも――今回、旦那の悪意は俺ではなく騎士団のほうに向いていたようだ。
「は、はははは」
全身から力が抜ける。何しろ、もう死ぬと思い込んでいたからだ。まさかこの期に及んで命を拾うとは、俺も悪運が強い。
力が抜けて、気が抜けて――俺はそのままぶっ倒れた。
ソラト「なんて言うとでも思ったか!? 残念――」
カイム「ソラト、それは先週やったよ」