間章:竜の棲む山(2)
ルイゼンラート王国において、爵位は家系に対して与えられるのではなく、領地に対して与えられる。
例えば「バスカヴィル伯爵」は、「バスカヴィル伯爵領の領主」を意味し、何らかの理由で領地を失えば、同時に伯爵の位を失うわけだ。
逆に言えば領地さえ所有していれば、爵位は保証される。領地を手に入れることは、貴族になる事なのだ。
だが、それは容易な事では無い。ルイゼンラートにおいて領地は王家より与えられるものであり――当然ながら、拝領した土地をおいそれと人に譲ったり売り払ったりは出来ない。そんな事を認めては、重要な領土を他国に売り払う輩が出ないとも限らないからだ。
しかし――貴族でないものが、王の意思に関わらず、領地を手に入れる方法が、一つだけある。
――婚姻だ。
「ああ、おいたわしや、シャルロットお嬢様」
ルイゼンラート王国北東部、ディラベイト子爵領。
カタート山の麓であり、 かつて金の産出と加工で栄え――今では見る影も無く寂れたサーマークの町に、領主の館はある。
館の一室で、鏡台の前に座る少女の髪を、使用人らしき老婆が梳いていた。老婆は優しく、丁寧に櫛を動かしながら、その口から嘆きを零れさせている。
「なんと可哀想なお嬢様。お家のために、身売り同然の婚姻をせねばならぬなんて。それも相手は見ず知らずの男。よりにもよって、あくどい高利貸し。これ以上の悲劇がありましょうか」
かつて金の産出地として栄えたディラベイト子爵領だが、金鉱が廃されてから、その経営は悪化の一直線を辿った。何とか他の産業を発展させようとしたものの、失敗続きでむしろ損を重ねるばかり。仕舞いには父が事故で死に、後を追うようにして母も病気で急死した。
まさに転がり落ちるような没落。絵に描いたような不幸の連続。そして行き着いた先が――借金の帳消しと引き換えの、高利貸しとの婚姻。
「何より許せないのは、あの業突く張りな親族どもです……まだお館様がいらっしゃったときには、ディラベイト家が栄えていたときには、あれやこれやと無心に来たくせに、お嬢様の苦境には見てみぬふり。あまつさえ、このような縁談を押し付けてくるだなんて……」
「ヨランダ」
老婆の延々とした恨み言に、シャルロットと呼ばれた少女が苦笑を浮かべた。
「私は結婚するんじゃないわ――もう、結婚しているのよ」
そう。既に婚姻はなされている。
にもかかわらずヨランダが――実のところ、シャルロットもなのだが――「既に結婚した」という実感できないで居るのは、当の婿が一度たりとも姿を現さなかったからだ。
多くの場合、貴族の結婚は政略結婚――とまでは言わなくとも、家の意向によって決められる。見ず知らずの相手との婚姻は、別に珍しくはない。
しかし結婚してからも顔を合わせてないというのは、流石に異例だ。もちろん式などは行なわれず、ただ婚姻届という契約書が送りつけられてきただけだった。
あくまで目的は爵位であり、領地にも妻にも興味が無い――露骨なまでの意思表示に、シャルロットとヨランダは、怒るべきなのか、むしろ幸いと喜ぶべきなのかと困惑したものだ。なにしろ、何はともあれ借金は無くなったし、シャルロットが無体な扱いを受けることも無かったのだから。
ところが――その婿が、今更になってディラベイトを訪れた。
「せめて、事前にお知らせくらい下さればいいのに。警備隊が早馬を飛ばしてくださらねば、近づいて来ている事にも気がつきませんでしたわ!」
領地の境で警備の任についていた兵士達が一行に気が付き、連絡を寄越してくれたのだ。見ず知らずとはいえ、相手は今やディラベイト家の当主にして新領主。出迎えに不備があっては使用人の、そして留守を預かる妻の落ち度である。だからこうして、大慌てで支度を整えているのだ。
「失礼いたします」
ヨランダの恨み節を聞き流していると、ドアが控えめにノックされる。入ってきたのは、使用人である若い男だった。
「正門の番兵より連絡がありました。領主様がご到着なされたそうです」
かつては金で栄えたディラベイト、その中心たるサーマークである。盗賊などの外敵から町を守るため、その規模に比べればやや不釣合いなほどの城壁がある。どうも領主一行が到着し、正門を潜ったらしい。
「そう……では、もうすぐ屋敷にいらっしゃるのね」
正門からこの屋敷まで、さして距離があるわけではない。
シャルロットは、己の胸に手を添えた。ついに夫と顔を合わせるのだ。平静に見えても、彼女の心臓は、不安と緊張で胸が痛いほどに暴れている。
「それが……」
「どうしたの?」
口ごもった若い使用人に、シャルロットとヨランダは訝しげな視線を向ける。二人の問いに、使用人は言いにくそうに答えを紡いだ。
「領主様は……その……娼館で宿を求められたそうです」
「……」
「……」
少女と老婆は、顔見合わせた。部屋に満ちた沈黙に、若い使用人が居心地悪そうに身をよじる。
「……行くわよ、ヨランダ」
「はい。お嬢様」
頷きあった二人の顔は、奇妙なほど無表情で――しかしはっきりと激怒していたのであった。
二人が目指したのは、《黄金の蜜》と呼ばれる娼館であった。
こう言っては何だが――サーマークではこの手の店が栄えている。金鉱が廃されたことにより、多くの鉱夫達が仕事を失ったからだ。
「おっと待ちな」
店の周りには、柄の悪い男達が屯していた。彼らはシャルロットたちの姿を見ると、その前に立ちふさがった。
「悪いがここは今、貸切でね」
「それとも、ここの従業員サンかな?」
「だったら是非ともお相手願いたいもんだ」
好き勝手な台詞を撒き散らし、下卑た笑いを浮かべる彼らに、シャルロットより早く、ヨランダが怒りを露わにする。
「無礼な! このお方を誰と心得ますか! 先代ディラベイト子爵が一子、シャルロット・ディラベイト様ですよ!」
老婆の言葉に、ごろつき達は顔を見合わせ――鼻で笑った。
「それがどうした。俺達は《百鬼夜行》だぜ」
「貴族だからって、頭を下げると思うなよ」
「《百鬼夜行》……?」
聞きなれぬ名前に、シャルロットは眉を寄せた。
「こんなド田舎じゃ知らねぇか――犯罪ギルドだよ」
――そんな馬鹿な。
その言葉に、シャルロットは驚愕する。今、この娼館には彼女の夫であるディラベイト子爵が訪れているはずだ。
だが男達によれば、既に犯罪ギルドが借り切っているという。
これは何を意味するのか。
「分かったら、さっさと失せな」
「いいえ。私は中に居る夫に、ディラベイト子爵に用があるのです。ここを通して頂きます」
シャルロットの言葉に、男達はいらただしげな顔になる。
「しつけぇんだよ」
「おい、もう構わねぇ。剥いちまえ」
「お嬢様!」
男達がシャルロットへと手を伸ばし、ヨランダが悲鳴を上げる。
その時。
「――何の騒ぎですか?」
内側から、娼館の扉が開いた。
出てきたのは、まだ若い女性だった。黒い革鎧に身を包んでいることから、娼婦ではなさそうだ。どこか無機質で冷たい目をしていて、まるで人形のようにすら見える。
「エ、エレン……」
エレンと呼ばれた女は、男たちを――そして彼らがシャルロットを取り囲んでいるのを見て、すっと目を細くした。
「お忘れですか? ここが誰の領地なのか。あのお方が、己の所有物に対する狼藉を許すとでも?」
「いや、これは……」
「このアマが、中に入れろってうるさくてよ」
誤魔化すような笑みを浮かべる男たちを無視して、女はシャルロットへと向き直る。
「どちら様ですか?」
「私はシャルロット・ディラベイトと申します。我が夫、エドワード・ディラベイト子爵に会いに来ました」
シャルロットの言葉に、エレンはぴくりと眉を上げる。
「……こちらへどうぞ」
その言葉に促され、シャルロットとヨランダは扉を潜り抜ける。
娼館の中は酒と煙草、そして男女の生臭い臭いで満ちていた。中には、廊下で交わっている者達すらいる。
不快感で顔を顰めつつ、シャルロットはエレンと呼ばれた女の背を追った。
「エドワード殿は、こちらにいらっしゃるのですね?」
「はい」
ヨランダの問いかけにも、黒衣の女は言葉少なに答えるだけ。階段を上がり、廊下を歩み――行き着いた部屋のドアを、エレンが叩く。
「失礼いたします」
部屋には大勢の娼婦が並んでいた。誰もが扇情的な、殆ど下着同然の衣装を身に纏って――なかには、既に全裸の者も居た。
「……誰だ、お前」
気だるげな声を発したのは、彼女たちの中心――巨大なクッション・ソファに身を沈めた少年だった。美貌と言って良い顔立ちをしていたが――娼婦を侍らせるその姿は、未だ初心なシャルロットには、醜悪の極みに見えた。
彼が自分の夫なのだと、シャルロットは察した。何しろ、部屋に男性は彼一人だけなのだから。
「お初にお目にかかります。エドワード殿。私はシャルロット・ディラベイト。貴方様の妻にございます」
「エドワード? 妻?」
鉄の精神力で、不快感を顔に出さぬよう押さえ込んだシャルロットの挨拶に――少年は不思議そうに首を傾げる。まるで心当たりがないといわんばかりである。
「ソラト様」
淡々とした声で、エレンが少年に助け舟を出す。
「『エドワード』は、ディラベイト領を買い取る際に使った名前です」
「……ああ」
ソラトと呼ばれた少年は、納得したかのように頷いた。その会話で、シャルロットも事の事情を察する。
「……偽名を使われたのですか」
実を言えば――貴族はともかく、平民が名前を変えるのは難しくない。掟を破って村から追放された農民、あるいは商売に失敗した商人。そういった者たちが名を棄て、新たな人生を歩もうとする事は、珍しいことではなかった。しかし複数の名を使い分けるとなると、流石に眉を顰められる。
まして、神聖なる婚姻を偽名で行なうとなると――。
「これは幸いです、お嬢様! 嘘偽りがあったとなれば、婚姻は無効です!」
「ヨランダ……そうなると、借金も元通りよ」
喜色を浮かべる老婆に、シャルロットは首を横に振る。
婚姻が無効になるということは、婚姻を条件にした借金の帳消しも無効になるということだ。そもそも結婚による借金の帳消しは「夫婦は財産を共有する」という考え方を元に成り立っている。
それに、偽名による婚姻が無効と言っても――それを証明する手段が無い。目の前の少年が「私は生まれたときからエドワードです」と主張すれば――そして婚姻届に書かれたサインと押印が一致すれば、彼はエドワードなのだ。
「しかし、何故に偽りの名を?」
「俺はいささか悪名高くてね」
少年は皮肉げに口の端を吊り上げ、続ける。
「それに、俺が欲しかった領地はここだけじゃあない。名前なんて、幾つあっても足りんよ」
ルイゼンラートで重婚が認められているのは国王だけだ。貴族は側室を持つことが許されているが、正妻はあくまで一人だけである。
そして、側室はいわゆる愛人、妾である。正式な結婚だと認められない以上、貴族の娘を側室にしても、その財産や領地を手に入れることは出来ない。
「それで、名前を沢山お持ちの貴方を、私は何とお呼びすれば宜しいのでしょうか?」
「俺の事はソラトと呼べ。何なら俺の名前は、『ソラト・エドワード・ディラベイト』ってことにでもしておけばいい。それなら嘘にならん」
気楽に言って――ソラトはぎらりと瞳を輝かせた。
「それで何の用だ? 俺は長旅でいささか疲れていてね。部下共々、その疲れを癒しているところなんだ――その邪魔したんだ。相応の理由があるんだろうな?」
犯罪ギルド《百鬼夜行》。その暴君であるソラトの機嫌を損ねたとなれば、荒くれ者達すら震え上がる。
しかし。
「――何の用だ、ですって?」
ソラトの物言いに、シャルロットの眉がぴくぴくと震える。
実のところ、シャルロットは己の夫となる人物に、僅かな希望を抱いていた。傾いた家を建て直すための、やむにやまれぬ婚姻とはいえ――共に暮すうちに愛が芽生え、幸せな家庭が築けるのではないかと。
ところが蓋をあけてみれば、結婚しても婿は一度たりとも彼女に会おうとはしなかった。ようやく来たと思ったら、屋敷に顔を出すことなく娼館に宿泊。挙句の果てに、こっちから会いに来たら『何の用だ?』である。
要するに――シャルロットの我慢もいい加減に限界だったのである。
「ソラト殿……我々の婚姻はあくまでも双方の利害の一致故のもの! そこに愛が無いのも無理なからぬこと! ですが! 形だけとはいえ夫婦になる以上、お互いに歩み寄る努力をすべきでは無いでしょうか!」
幸か不幸か、田舎育ちのシャルロットは《百鬼夜行》や、その頭であるソラトの悪行を耳にしていない。まして見た目だけなら、シャルロットよりも年下、それも軟弱そうな少年にしか見えないのだ。
そして付け加えるなら――彼女はちょっぴり鈍感だった。ソラトの撒き散らす怒気に欠片も気付くことなく、逆に怒鳴りつける程度には。
ちなみに彼女の台詞そのもは、要するに「仲良くしましょう」という意味なのだが、こうも喧嘩腰で言うと説得力がまったくなかった。
部屋に沈黙が満ちる。並んだ娼婦の顔には「あ、この娘死んだわ」という思考が浮かんでいた。エレンは変わらずの無表情だが、冷たい瞳には殺意を浮かべていた。実際、手が腰に下げられたナイフへと伸びている。怖いも知らずのヨランダですら、不安そうに主人を窺っていた。
そして。
「――ふむ」
沈黙を破ったのは、ソラトだった。シャルロットに、何処か値踏みをするような視線を向けているが、不思議と機嫌を損ねた様子は無い。
「言いたい事は解った。おい、下がっていいぞ」
「あら、酷いのね」
手を振り、娼婦たちを追い払うソラトに、娼婦の一人――どうも彼女たちの中で、最も格上のようだ――が問いかける。彼女達としても、何もしないうちに追い返されては、文句の一つも言いたくなるというものだ。
「この俺に愉快な啖呵を切ったんだ。話をする時間くらいは割こうじゃないか」
ソラトはふてぶてしく笑い――そして神妙な顔でぽつりと呟いた。
「それに自分で言うのもなんだが、俺と仲良くしようとする奴って珍しいからな」
「貴方……」
娼婦達が呆れとか憐憫とか色々な感情を含んだ視線を向けるが、ソラトは気にしない。毒気を抜かれたのか、娼婦達も大人しく部屋を出て行く。
かくして、部屋にはソラトとシャルロット。そしてエレンとヨランダだけが残った。
「さあ、座れよ。なんの話をする? それとも、先に一杯やるかい?」
「何故このディラベイトに?」
シャルロットが切り込むと、ソラトはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ここは既に俺の領地だ。別におかしくは無いだろう?」
「貴方が関心を持っていたのは、爵位だけでは?」
その問いに、少年はにやっと笑った。
「いいや――山に住んでるトカゲちゃんにも興味があってさ」
「まさか、カタート山に?」
思いがけない答えに、シャルロットは目を見開いた。
「危険です。《鮮血の毒婦》(ブラッディ・ハーロット)は侮って良い相手ではありません」
《鮮血の毒婦》(ブラッディ・ハーロット)。それがカタート山に巣食うドラゴンに付けられた名前だった。
十年ほど前、突如として現れたこの竜は、何が気に入ったのかカタート山、それも坑道を己の巣としてしまい――近づく人間を無差別に襲うようになった。そのため、金を掘る事はままならず、鉱山は閉鎖されることになる。
もちろん、今はなき先代ディラベイト子爵は、この竜を倒すべく騎士団を派遣した。しかし、数こそ多くないが充分な装備と錬度を備えていたはずの騎士団はあっさりと壊滅。鉱山が再開することは無く、領地は廃れた。
「宜しいではないですか。お嬢様」
沈黙していたヨランダが、口を開く。
「この男が、あの恐ろしい竜に殺されてしまえば、万々歳にございます」
「……そういう台詞は、せめて相手に聞こえないように言おうな?」
平然と毒を吐く老婆に、ソラトも呆れ顔だ。
「しかし、《鮮血の毒婦》ねぇ……」
ソラトは噛み締めるように、その名を口にする。
「是非とも一晩、お相手願いたいもんだ」
言って――少年は口の端を吊り上げ、瞳をぎらつかせた。