間章:悪魔の手札(後編)
賭場の二階には、客が娼婦を連れ込むための部屋が用意されている。賭けで懐を暖め、気が大きくなった客から、その儲けを毟り取るためにだ。
俺は店員から鍵を受け取ると、アレクサンドラと共に空いている部屋に入った。家具は寝台くらいしかない部屋だが、目的を果たすには充分すぎる。
部屋に入るなり、俺はアレクサンドラを抱きすくめた。鼻腔を、甘い香りが通り抜ける。
「ちょっと、いきなりなの?」
呆れたような声を上げるアレクサンドラを無視して、胸元のボタンを口で外していく。露わになった白い肌に唇を這わせ、舌を滑らせる。
「もう、がっついたら駄目」
咎めるというより、嗜めるような声音。彼女の両手が、俺の頬に添えられた。ひんやりとした感触と共に、アレクサンドラと視線が合う
碧の瞳が――輝いた。
瞳に吸い込まれるような感覚。頭に霞がかかったように思考が鈍っていく。寝床でまどろむような、心地良い気だるさに身体が重くなる。
――《魅了》(チャーム)をかけられた。脳の片隅、僅かに残った思考がそう判断した。
《魅了》(チャーム)。短時間ながら、相手を意のままに操ることが出来る魔法である。《NES》においては、PCの操作が不能になり、勝手に行動する『混乱』のステータス異常を引き起こす。
「ふふ」
脱力した俺を見て――アレクサンドラは嫣然と微笑んだ。形の良い唇から、ちらりと歯が――牙の如く尖った犬歯が覗く。
「これで君は、ボクのモノだ」
しかし。
「――あいにくモノにされるより、モノにするほうが好きでね」
帰ってくるはずの無い答えに、アレクサンドラが目を見開く。
「ど、どうしてボクの《魅了》が効いてないの?」
「あいにく、状態異常には耐性があってね」
麻痺や毒を好んで使ってきた俺だから、その恐ろしさは良く知っている。まして回復してくれる味方が居ないソロプレイでは、状態異常は死に直結するのだ。
「しかし、お前が吸血鬼だったとはね」
アレクサンドラの鋭い牙は、人間ではありえない。それに《魅了》は吸血鬼の得意技だ。
「という事は――俺の部下を殺したのもお前だな?」
「……それについては悪いと思ってるよ」
刃を突きつけられたまま、アレクサンドラは器用に肩をすくめる。
「でも、襲ってきたのは彼らの方さ。自業自得だよ……ボクを『食べようと』したんだから、ボクの食事になっても仕方ないと思わない?」
「で、次の餌は俺ってわけか?」
「まさか! そんなつもりは全く無いよ。君を傷つけようなんて思ってない。信じて欲しいな」
心外だといわんばかりに、アレクサンドラは訴える。
「ボクは君が気に入ったんだ。本当だよ――吸血鬼ってのは難儀な生き物でね。人を餌にするくせに、人と同じ精神を持っているんだ。つまり孤独も感じるし、憎まれたり怖がられたりしたら、やっぱりショックなんだよ」
彼女の言葉に――俺が感じたのは共感だった。
幼い頃、俺は他者を害したいという欲望を抱える一方で、他者に非難されれば傷つくだけの感受性があった。人の輪を乱すくせに、環に入らずには居られない。俺はそんな身勝手で、迷惑な生き物だった。
年齢を重ねるごとに、やがてはそんな感性も擦り切れ――今では嫌悪も罵声も意に介さなくなった。だが、アレクサンドラの言葉は、かつての痛みを思い出すには充分ではあった。
「君との時間は楽しかったよ。しかも、君は吸血鬼を憎まないというじゃないか。だから、ボクは君が欲しくなった」
吸血鬼、ヴァンパイア、ノー・ライフ・キング……日本でも有名な、人の血を吸う化け物。はぼ不死身の肉体を持ち、腕力は人間を遥かに超え、霧や蝙蝠に変身する能力まで備えるという。
そして――吸血鬼に血を吸われた者は、吸血鬼になる。
「君にとっても、悪い話じゃないと思うんだ。吸血鬼になれば、永遠の命と若さ、それと力が手に入る。どうかな?」
「うーん。確かにちょっと惹かれる気もするが」
しかし吸血鬼は日光や銀など、弱点も多いのだ。そうおいそれと頷ける誘いではない。
「だが――俺の意思を無視して、ってのは気に入らない」
俺が睨むと、アレクサンドラは哀しげに微笑んだ。
「だって、話して拒否されたら傷つくじゃない?」
次の瞬間――その笑みに狂気が宿った。淫靡に、妖艶に、アレクサンドラは唇を舐める。
「約束通り、吸血してあげる。大丈夫、優しくするから。初めはちょっと痛いかもしれないけど、直ぐに気持ちよくなるよ」
「魅力的なお誘いだが……俺は隷属させられるのが嫌いでね」
《NES》の設定には、吸血鬼となった者は己の「親」――つまり自分を吸血鬼にした吸血鬼の命令に逆らえない、というものがあった。つまり俺がアレクサンドラを牙を受け入れれば、俺は彼女に服従する事になる。
「……君が嫌がる事をするつもりはないよ。約束する」
「生憎、約束って奴が信じられなくってね」
「そう――じゃあ仕方ないね」
哀しげに微笑み、アレクサンドラはその牙をむき出した。
「無理やりにでも、ボクの仲間になってもらおうかな」
直後――赤い閃光が視界を覆いつくした。
俺は咄嗟に窓を蹴破り、外へと飛び出す。赤い閃光から逃れるには、それしかなかった。それでも完全に回避することは叶わず、全身に蝕むような痛みと倦怠感が纏わり衝いている。
しかし奇妙な事に――ダメージはあっても、俺の身体に「傷」は無い。
吸血鬼、赤い光、そして傷の無い痛み。そのすべてが繋がり、俺は答えを導き出す。
「《ブラッド・スキュラー》。殺された連中は、こいつでミイラになったわけか」
《ブラッド・スキュラー》は相手のHPを奪い取る範囲魔法だ。ダメージを与えると同時に自分は回復するという凶悪な効果がある。NESの吸血鬼は《ライフ・ドレイン》や《ブラッド・スキュラー》のようなHP吸収系の攻撃まで使用してくるのだ。
「その通り」
声は頭上から降ってきた。
「本当は首筋に直接、ボクの牙を受け入れて欲しいんだ。《ブラッド・スキュラー》で命を啜っても、君を仲間にする事は出来ないから」
銀盤の月を背に、アレクサンドラは宙に浮いていた。その背からは蝙蝠のような翼が伸び、緩やかに羽ばたいている。
人の背に翼をつけても、空を飛べるようにはならない。浮力が足りず、身体を浮かせるには至らないからだ――そんな科学的思考も、ファンタジーの前では何の意味も無い。
「さあ、行くよ――早く降参してね」
アレクサンドラが腕を掲げると、そこに夜より尚暗い闇が湧き上がった。闇は収束し、漆黒の槍となる。
「《シャドウ・ランス》」
次々と放たれる影の槍を、俺は地面を蹴って回避する。槍は石畳を穿ち、貫き、何も無かったかのように消えていく。
「素早いね。でも空を飛べない君では、ボクの攻撃を避ける事しかできないよ?」
飛行ユニット、それも遠距離攻撃を習得している敵を相手にするのは面倒だ。何しろこちらは近接型。天を舞う敵には攻撃が届かない。それに対して、向こうは空から一方的に攻撃できる。
「それは、どうかな!」
俺は外套を翻し、スローイング・スパイクを投げ放った。銀光が闇を切り裂き、吸血鬼に襲い掛かる。
「おっと、危ない」
しかしアレクサンドラは翼を傾け、飛来した凶器をやり過ごす。化物だけあって、反応速度も人間離れしていた。
それに――例え命中しても、急所で無い限り効果は薄かろう。吸血鬼の恐ろしさは、その不死性にある。鉄や鋼の武器で傷をつけても、瞬く間に回復してしまうのだ。
「《シャドウ・ニードル》」
月下を舞う鬼――その影が蠢いた。
地面を滑るようにして広がった影から、無数の黒い針が飛び出してくる。足元からの攻撃、しかも攻撃範囲が広い。
俺は《軽身功》を発動させ――下から俺を貫かんとする針の「上」に立った。
そのまま針の頂点を「蹴って」跳躍する。その勢いのまま壁を蹴り――屋根を蹴って夜空へと飛び上がる。軽業じみた動きで宙を舞い、瞬く間にアレクサンドラとの間にあった距離を詰めた。
「――!」
彼女が身を翻すよりも、俺が短剣を振るうほうが速かった。銀光が闇を切り裂き、赤い血が飛び散る。
「ぐ……」
「どうだ、ミスリルの味は。アンデットのお前には良く利くだろ?」
屋根の上に降り立ち、俺は獰猛な笑みを浮かべた。吸血鬼はアンデットに属するモンスターで――鉄や鋼と違って、銀やミスリルの武器には大きなダメージを受けるのである。
「……君、本当に人間? 今の動き、ボクよりよっぽど化物じみてるよ」
切り裂かれ、露わになった胸元を押さえながら、アレクサンドラが顔を顰める――しかし、傷はそこまで深くないようだ。
「でも残念。今みたいな奇襲、そう何度も通じないよ!」
翼を羽ばたかせ、アレクサンドラはその高度を上げる。跳躍しても届かない高さから、魔法を叩き込むつもりだろう。
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
狙いを定めるように、俺は短剣の切っ先を突き出した。
「泣き叫べ、アナスタシア」
――キィィィィィァァァァァァァ!!
短剣に宿った《ダークエルフの亡霊》が絶叫を上げる。不可視の衝撃波が放たれ、吸血鬼を打ち据えた。
俺のミスリルの短剣には、非業の死を遂げたダークエルフの霊が取り憑いている。持ち主を問答無用で殺してきた悪霊だが――今では俺が呼べば姿を現し、従うようになっている。
「う、く、ああっ!?」
吹き飛ばされたアレクサンドラは、頭を抱えて墜落する。《亡霊》の絶叫には、苦痛と怨嗟が込められている。衝撃波のダメージはもちろん、精神をかき乱されては飛行も叶うまい。
高度を落としたアレクサンドラ目掛けて、俺は地面を蹴った。左腕を伸ばし、吸血鬼の足を掴む。
「っらぁ!」
落下の勢いのまま、アレクサンドラを地面に叩きつける。そのまま馬乗りになるような形でアレクサンドラを押さえつけると、喉笛に短剣を押し付けた。
「……どうしたの? 殺しなよ」
荒い吐息を零しながら、アレクサンドラは俺を促す。切り裂かれた胸元は、肌の白さと血の赤さで淫靡なコントラストを描いていた。
「おいおい、勘違いするなよ……誰がお前を殺すと言った?」
短剣を彼女の喉から外すことなく、俺は笑みを浮かべる。そもそも襲ってきたのはアレクサンドラで、俺は自衛のために戦っただけだ。
「言ったはずだぜ――『部下に欲しい』ってな」
無理やり俺の血を吸おうとしたのは業腹だが――まあ、そこらへんは後できっちり罰をあたえるとして――だからといって彼女の価値が下がるわけじゃない。むしろその戦闘力を目の当たりにし、益々欲しくなった。
「俺は誰にも従わない。誰かに支配されるなんて真っ平ごめんだ。だけど、誰かを従え、支配するのは大好きでね」
「……傲慢だね」
俺の言葉に、アレクサンドラは苦笑を浮かべた。呆れたような、しかし柔らかな笑み。
「そうとも。俺は傲慢だ。だから――」
短剣を押し付けたまま、俺はアレクサンドラに顔を近付けると、その頬に唇を這わせた。
「――お前は、俺の眷属になれ」
「――で、『持ち帰り』しちゃいましたって?」
アレクサンドラを連れて屋敷に戻り――出迎えたカイムに事の次第を説明すると、彼女は呆れ顔になった。
「ふふ、よろしくね」
妖艶に微笑む麗人に――女夜叉は冷めた視線を俺に向ける。
「なんというか……君は本当に見境が無いね」
「俺の愛は広いんだ」
「歪んでるけどね」
俺の軽口に、カイムは「処置なし」といわんばかりに深々と嘆息した。
「しかし、彼女が殺した分の落とし前はどうするんだい?」
アレクサンドラは《百鬼夜行》の人間を殺している。別に顔も覚えてないチンピラが何人死のうが知った事ではないのだが――ギルドの面子というものがある。
もっとも、解決策が無いわけではない。
「そんなもの、適当な馬鹿を殺して晒しておけばいい」
俺の部下を殺した犯人がアレクサンドラだと知るのは、この部屋にいる人間だけだ。替え玉を用意して「これが犯人です。報復しましたよ」と知らしめても誰も気が付かない。要は面子が立てばいいのだ。
「チンピラ程度の報復で殺すには、ちょいと良い女すぎるからな」
「ふふ。ありがとう、ソラト。愛してる」
笑う俺に、そう言ってアレクサンドラは抱きつくと、首筋に顔をうずめ――。
「って、何吸おうとしてんだテメェ!」
怒鳴りながら押しのけると、吸血鬼は不満そうに唇を尖らせた。
「だってぇ……僕は不老なのに、君は年を取っていずれ死んでしまうじゃないか。そんなの哀しいよ。吸血鬼になって、僕と一緒に永遠を生きよう?」
「だからって、俺の意思を無視すんじゃねぇ!」
どうも、彼女には色々と教育が必要なようである。俺は額に青筋を浮かべながら、どうやって彼女を躾けてやろうかと考えを巡らせた。




