第六十話:尾行
サリハの目覚めは痛みを伴っていた。身体のあちこちが軋み、痛みが意識を無理やり覚醒させる。
顔を顰めながら身体を起こせば――見えたのは煉瓦の壁と、丁寧に手入れをされた芝生だった。芝生の向こうには、頑丈そうな鉄門が見える。
ここは――バスカヴィル家の屋敷、その庭だ。入念に下調べをしていたので、すぐにわかった。
そしてようやく、サリハは状況を理解した。つまり、己が仕事に失敗したことを。
サリハは暗殺者だった。そして彼女の次の仕事は、犯罪ギルド《百鬼夜行》の首魁――ソラトの暗殺だった。
仕事は上手く行くはずだった。上手く行っていたはずだった。半ば偶然とはいえ、それまで尻尾をつかませなかった《百鬼夜行》のアジトを突き止め、誰にも気付かれぬうちに忍び込んだ。そこまでは順調だった。
だが――標的は自分の侵入を察知していた。逃げるどころか部屋で待ち伏せ、天井に潜むという常識離れした方法で奇襲を行なった。
手も足も――出なかった。
サリハは幼い頃から、暗殺者として過酷な訓練を受けていた。もちろん、不意打ちだまし討ちが本業で、正面からの戦いはむしろ不得手なのだが、それでも並みの兵士とは比べ物にならない戦闘力を持っている。
だが、ソラトは武器すら抜かなかった。素手で、それも嬲るような戦い方で彼女を痛めつけ、挙句の果てには止めを刺すことなく庭先に放り出した。
――何故殺さなかったのだろう。
暗殺という仕事において多くの場合、失敗は死を意味する。まして今回のように、己の姿を見られ、交戦した上での失敗は、ほぼ間違いなく生還できない。
だが、彼女は生きている。
いや――生かされている。見逃されたのだ、自分は。
「とにかく、戻らないと」
標的の意図は解らないが、生きているなら仕事は続行だ。ここは撤退し、体勢を立て直さねばならない。日が上れば、彼女の黒装束は逆に目立つ。夜が明けぬうちに動かなければ。
痛む身体を押して、サリハは夜の街を走った。素早く、しかし人目を避けながら。
そしてサリハは小さな鍛冶屋にたどり着いた。
鍛冶屋という店は、荒くれ者から包丁を買いに来た主婦まで、幅広い種類の人間が出入りする。何より店内に武器が並んでいても不自然ではない――つまり、彼女のような人間が潜むにはうってつけの場所なのだ。
サリハが入ったのは、造ったものを販売する店の方ではなく、鍛冶場の方に繋がる扉だった。
中に居たのは、巌のような男だった。年は四十かそこら、赤銅色の肌は筋肉で盛り上がり、無骨な顔つきにしかめっ面を貼り付けている。
男の名はガーント。彼とサリハの表向きの関係は、鍛冶屋の店主と、彼に雇われている若い店員だった。しかし、その実態は暗殺ギルドの上司と部下である。
「……失敗した」
扉を閉じるなり、サリハはそう言った。
「侵入に失敗したか。それとも殺すのに失敗したか。標的に姿は、顔は見られたか」
ガーントは表情を動かすことなく、淡々とサリハに確認する。
「……見られた。奴は私の侵入に気付いていて、部屋で待ち受けていた。交戦したが、返り討ちに遭った」
無精髭の生えた顎を撫でながら、ガーントは僅かに驚いたように呟いた。
「良く生きていたな」
「自分でもそう思う」
その場で殺されてもおかしくは無かった。いや、殺されるのが自然だ。なのに自分は捕らえられる事すらなく、こうして帰還する事が出来た。
「あの男は、何故私を見逃した?」
「それはお前の後をつけるためさ」
「な!?」
サリハの呟きに、帰ってくるはずの無い答えが返ってきた。
驚愕と共に振り返れば、何時の間にか開かれていた扉と――そこに立つ、にやにや笑いを浮かべた少年の姿が見えた。
「どうせ、拷問しても簡単には口を割らないんだろ? なら尾行して、上役の場所まで案内してもらったほうがいい」
《百鬼夜行》の主はそう言って、皮肉げに唇を歪めた。
――尾行されていた。
その事実に、サリハの心臓が跳ねる。同時、己の迂闊さを呪いたくなった。
「くっ!」
サリハの手が、ナイフへ伸びる。
しかし。
「――動くな」
少年の声音は、強くも激しくも無かった。だが、その一言で、サリハの身体は凍りついたように動かなくなった。
彼女の身体を縛るのは、恐怖。なす術もなく痛めつけられた記憶が、ソラトの一言で呼び覚まされ、サリハを捕らえる。
「良い子だ……しばらく、そこで大人しくしておけ」
愉快そうに笑いながら、ソラトはゆっくりと歩を進める。
「俺が用があるのは、そっちの男だ」
その視線は、サリハではなくガーントに向けられていた。
「……ちっ」
小さな舌打ちと共に、ガーントの手が、壁にかけられた剣に伸びた。
しかし、次の瞬間。
「ぐっ……!?」
男の唇から、押し殺した苦痛が零れる――音も無く投げつけられたスローイング・スパイクが、その掌に突き刺さっていた。
「さて、お前に、いくつか話してもらうことがある」
新たなスパイクを取り出しながら――ソラトがゆっくりとガーントに歩み寄る。
「抵抗していいぞ。その方が楽しいからな」




