第五十三話:暴君
「はぁ!」
クラリッサは《凍える風の指揮棒》を振るう。鋭い氷の欠片を孕んだ突風が吹き荒れ、獅子へと襲い掛かった。
しかし、
「ぬぅん!」
ベガ・ベルンガがその大剣を振るうと同時――突風は吹き散らされ、氷の欠片は弾き飛ばされる。
「ちっ!」
舌打ち一つを置き去りに、クラリッサは滑る様に地面を駆ける。瞬く間にベガ・ベルンガに接近すると、細剣でもある《凍える風の指揮棒》の鋭い切っ先を閃かせた。
しかし――腕が霞むほどの速さで繰り出される連続突き、そのことごとくを、ベガ・ベルンガは防ぎきる。巨大な剣を振るうのではなく、僅かに傾ける事で、的確に細剣の切っ先を弾いていく。
「ガァァ!」
獣そのものの咆哮と共に、大剣が振るわれた。とっさに後方に跳躍したクラリッサの眼前を巨大すぎる鋼が通り過ぎ、蹂躙された空気が暴風となり、彼女の美しい髪を掻き乱した。
「厄介だな」
石畳をクラリッサが忌々しげな視線を向けるのは、ベガ・ベルンガの握る、鉄塊のごとき大剣だ。
《暴君ガルガドル》。ベガ・ベルンガの愛剣にして、その重さから並の人間では持ち上げる事すら出来ないという一品だ。
実のところ、《暴君ガルガドル》はクラリッサの持つ《凍える風の指揮棒》のような、マジックアイテムというわけではなく、ただの巨大な――頑丈な剣でしかない。
ただ――この剣は魔法に対して、非常に高い耐性を誇る金属で作られている。故に掲げれば魔法を弾き、振るえば魔力を吹き散らす。
《凍える風の指揮棒》による魔法攻撃を得意とするクラリッサからすれば、相性が悪い相手だった。
「どうした。終わりか」
つまらなそうに呟きながら、《黄金の獅子》が大剣を打ち下ろした。クラリッサは飛び退ってかわすが、大剣は石畳を砕き、弾けた破片がクラリッサの身体を打ち据えていく。
渋面を浮かべながら、クラリッサは唇を噛む。対立するギルドの長として、《黄金の獅子》とは幾度と無く刃を交えているが、相も変わらず忌々しい相手だった。
ベガ・ベルンガは、強い。その圧倒的な速さと力は、獣人という枠組みの中でも際立っていた。そして魔法を防ぐ《暴君ガルガドル》が、戦闘を彼の得意な接近戦に限定する。
「ならば……」
クラリッサは再度《凍える風の指揮棒》を掲げた。凍てつく風が吹き荒れる。
「ふん、無駄だと……」
《黄金の獅子》は鼻で笑おうとして、眉を顰めた。冷たい風が吹いてはいるが――その勢いは先程よりも遥かに弱い。
いや――勢いが弱いのではなく、「向き」が違うのだ。
「例え魔法が利かなくとも……魔法で生み出された氷までは防げまい」
ベガ・ベルンガの《暴君ガルガドル》はクラリッサの風を吹き散らし、氷を「弾いた」。つまり、氷を獅子に当てる事は出来るのだ。ならば、その威力を増やすだけ。
マジックアイテムによって産み出された冷気は二人の頭上で渦巻き、収束し――巨大な氷塊へと変貌した。
「潰れるがいい!」
巨像のごとき大きさと重量を備えた氷塊が、流星の如くベガ・ベルンガへと落ちていく。獅子は驚愕に目を見開き、そして。
――ずしり、と重々しい音が響いた。
「終わりだ」
自分が生み出した氷の墓標を眺め、クラリッサは呟いた。いくら頑丈な獣人といえども、これならば虫けらのように潰れただろう。
「……大将を討ち取ったのだ。《獣王》の混乱は当分収まらんだろう。このまま一気に叩き潰すぞ」
踵を返し、部下に指示を下したクラリッサの背後で――氷塊が、揺れた。
「む……」
クラリッサの脳裏で、本能が警告を発した。彼女の目の前で――氷塊が揺れ、動き、徐々に持ち上がっていく。
「ガアアアアアアア!」
下から、咆哮を上げる獅子が姿を現す。愛剣を放り出し、両手を高々と掲げ、獅子は巨石のごとき氷を持ち上げていた。
巨大な氷塊を――受け止めたのだ、この男は。
「ぬん……」
ベガ・ベルンガの両腕に、力が篭る。鋼のごとき筋肉を浮かび上がらせ、獅子の豪腕は氷の塊を軋ませる。
次の瞬間――耐え切れなくなった氷解は、乙女の悲鳴のごとき、甲高く澄んだ音を立てて砕け、細かな欠片を撒き散らした。
「思えば――貴様とも長い付き合いになる」
地面に落ちた氷を踏み砕きながら、獅子が口を開いた。
クラリッサが部下と共にこの街に流れ着いたとき、ベガ・ベルンガは既に闇黒街の雄として君臨していた。彼らは目障りな新参者を叩き潰そうとしたし、《楽団》も生きる糧を得るべく、彼らの縄張りを荒らし、奪い取ってきた。
それからずっと――《獣王》と《楽団》は敵同士。血を血で洗い、憎み憎まれる関係を続けてきた。
「それも、これで終わりか。不思議なものだ。最後となれば、もう少し何かあるかと思ったが」
言葉の通り、何の感慨もなさそうな顔で、ベガ・ベルンガは大剣を握り直す。
「逝け」
小さな呟きが、妙にはっきりと聞こえた。鉄塊のごとき大剣が振り上げられる。
クラリッサは――死を覚悟した。次の瞬間、自分は無残に潰れて死ぬだろう。いっそ穏やかな気持ちで、彼女は瞳と意識を閉ざそうとした。
だが――クラリッサに死の未来は訪れなかった。
「――悪いな。まだそいつに死んでもらっちゃ困るんだよ」
赤い外套が、翻る。
銀色の光が煌き、ベガ・ベルンガを襲った。彼の握る大剣に比べれば余りに小さい、しかし鋭い刃は、毒蛇のように獅子の急所へと牙をむく。獅子は本能的に後退し、蛇の顎から逃れた。
「だから次は、俺と遊んでもらおうか」
音も無くベガ・ベルンガとクラリッサの間に降り立ったのは――高慢にして不遜、そして禍々しい笑みを浮かべる、黒髪の少年だった。