第三十四話:二人の魔人
高級娼館《プリシラ・プリミテシアの甘い蜜》は娼館とは思えない造りをしている。
床には足首まで埋まりそうな絨毯が敷き詰められ、壁や柱には緻密な装飾が施されていた。所々に置かれた調度品も、値段を問うことすら馬鹿らしい――そんなことを気にする人間には買えないという意味で――ものだと解る。
何より特徴的なのは、館の中心に巨大な舞台が設えられていることだろう。そこでは色とりどりの衣装を身につけた美女が舞い踊り、楽器を奏で、歌を披露するのである。
この館で働くのは皆、ただ身体を売るだけの女ではない。誰もが相応の教育と訓練を受けており、高い知識や教養を持ち、優雅な所作と身ぶりを身につけている。また、彼女たちには客を選ぶ権利があり――誰かと一夜を過ごそうと思ったら、何度も通って送り物を渡し、愛を囁くことで関心を勝ち取らねばならない。大貴族の当主が、家を傾けるような貢物をした挙句に、袖にされるなんてこともありうるのだ。
そして――もっとも舞台を見易く、歌声が届き易いボックス席で、ベガ・ベルンガは酒盃を傾けていた。
「正気か。ベガ・ベルンガ」
彼に声をかけたのは、狼の耳と尾を持つ男だった。
ボックス席に居るのはベガ・ベルンガひとりでは無い。《獣王の血脈》の幹部が揃っていた。この《プリシラ・プリミテシアの甘い蜜》は《獣王の血脈》が経営しているのである。
「四大ギルドとの全面戦争だと? どれだけの被害が出ると思っていやがる。やるにしたって、もっと準備を整えてからだろうがよ――死ぬのは下の連中なんだぜ」
銀狼の言葉に、金獅子は不機嫌そうに顔を顰めた。
この専用のボックス席で歌と酒を楽しむ事は、彼のささやかな楽しみだった。その楽しみの場ですら、仕事の話を――それも不愉快な話をしなければならない。まったく嘆かわしいことだ。
ベガ・ベルンガは《獣王の血脈》の頭目では有るが、それはあくまで「代表」としての地位であり、他の幹部に対して絶対的な権力を持っているわけではない。そして、合議なく他のギルドとの全面抗争を選択したベガ・ベルンガには、他の幹部に釈明をする必要があった。
嘆息を一つして、ベガ・ベルンガは椅子に座りなおした。
この柔らかな椅子に座るたびに、彼は故郷にあった族長の椅子を思い出す。動物の毛皮や骨、派手な鳥の羽で飾り立てられたその椅子に、子供だったベガ・ベルンガは、大人の目を盗んでこっそりと座ったことがある。
木に毛皮を被せただけのその椅子は、長く座っていると、尻が痛くなった。
だが故郷の仲間達は、あの椅子が最高の椅子だと信じていた。ベガ・ベルンガ自身も、座ったその時は興奮したものだ。
だが――この革張りの椅子を、ヒューマンの職人が作った椅子の柔らかさを知れば、幼き頃の自分の滑稽さに笑い出しそうになる。
「では聞くがな。他に選択肢があるのか?」
空になった杯に、自ら新たな酒を注ぎ足しながら、ベガ・ベルンガは言葉を返す。
「もう戦争は始まってる。俺達の意思に関わり無くだ。いや――《夜会》のギルドで、今回のゴタを本当に望んでいるトコなんざありゃしねぇ。それでもテメェのギルドを、シマを、仲間を考えりゃあ剣を抜くしかねぇ。そして剣を抜いたら戦るしかねぇ。準備が整ってなかろうが、勝ち目が薄かろうが、だ。解ってんだろ、ヴォル・ヴォルト」
《夜会》では好戦的な態度を露わにし、また自らも血の気が多いと認めるベガ・ベルンガだが――決して愚か者ではない。利益のない荒事を避ける程度の分別はある。だが同時に、避けることの出来ない荒事がある事も知っていた。
「でもな――」
「落ち着け、ヴォル・ヴォルト」
ヴォル・ヴォルトと呼ばれた狼男を諫めたのは、ベガ・ベルンガではなく、別な幹部――細く長い、ウサギの耳を持つ男だった。白兎の獣人であるミト・ミトスである、
「何にせよ、事態は動いているのだ。我々は早急に方針を決める必要がある――身内で罵り合っている場合じゃない」
「同感ね」
頷いたのは、唯一の女幹部であり、この館の主でもあるプリシラ・プリミテシア。狐の獣人である彼女は、ベガ・ベルンガと同じかそれ以上の時間を生きているはずなのだが、その容姿は年齢を伺わせない。
「皆、思うところはあるだろうけど、私達は家族。それだけは絶対だもの。それを忘れちゃいけないわ」
ひとくくりに『獣人』といっても、その氏族によって姿形はバラバラだ。本来であれば仲間意識、同属意識は薄い。
だが――人の、ヒューマンの間で生きる彼らは、氏族の枠を超えて助け合い、一つのギルドを作り上げた。
ルイゼンラートでは、獣人にもヒューマンと同じ人権が認められている。しかしヒトと言うものは異種族、異民族に対して――あるいは同属でさえも――偏見や敵意を持つものだ。
例え法的には平等であっても、それを守る意識と、違反を取り締まる実行力が無ければ意味が無い。この王都でも、獣人への有形無形の差別が存在する。
敵意と悪意から身を守るために、獣人達は《獣王の血脈》を作り上げた。罪を犯してでも金を得ることが、暴力で己の身を守ることが、彼らには必要だった。
だからこそ、彼らの結束は固い。互いを家族と認め、守り、そして敵には一丸となって立ち向かう。それが犯罪ギルド《獣王の血脈》だった。
舞台の上では演目が終わり、観客が歌姫、舞姫に拍手を送る。ベガ・ベルンガも惜しみなく手を叩いた。
音楽は良い。獣人だって歌は歌うが、こんな劇場は作らない。楽器も簡単な打楽器くらいだ。鍵盤や弦楽器など、発想すら持っていない。
柔らかい椅子など――獣人には作れない。
ベガ・ベルンガは己に流れる血に誇りを持っていたが――文化や技術と言った点で獣人がヒューマンに劣る事も痛感していた。
獣人は規模の違いこそあれ、その殆どが氏族ごとの集落を作る。自然と共に生きている、とでも言えば聞こえがいいが、その生活は要するに原始的だ。ヒューマンが獣人を野蛮な獣と見下しがちな理由のひとつである。
逆に、獣人達はヒューマンの文化に価値を見出さない。一日の大半を労働に費やすヒューマンを馬鹿だと思ってる。文字を覚えるのは面倒で、貨幣制度は煩わしい。
そんな獣人達が、故郷の仲間達が、ベガ・ベルンガは歯痒くてたまらない。
ヒューマンの文化を受け入れれば、生活はもっと豊かになる――不幸を、悲劇を減らすことが出来る。
ベガ・ベルンガには弟が居た。
弟は生まれつき体が小さく、弱かった。弟は大人になるまで成長は出来ないだろうと囁かれ――そしてその通りになった。五歳のときに病を患い、あっさりと死んでいった。
良くあることだ。むしろ獣人は、弱い者が死ぬのは当たり前、という考え方を持っている。生まれつき身体の弱かった弟が死ぬのは、仕方の無いこと――両親でさえそう考えていた。
ベガ・ベルンガもそう思っていた。弟を殺した病が、ちょっとした薬さえあれば、あっさりと治るものだと知るまでは。
もし、彼の村がヒューマンと積極的に交流して、医学の知識だの薬だのが入ってきていたら――弟は死ななかったかもしれない。そう考えると、ベガ・ベルンガは言い様の無い憤りを覚えるのだ。
獣人は、自らの世界を狭めている。
それでは駄目なのだ。
それでは――自分達は獣のままだ。
だからベガ・ベルンガは、故郷を捨てた。あの小さな世界で生きていくことに、耐えられなかったから。
「それで、具体的にどうするの?」
我知らず感傷に浸ってしまったベガ・ベルンガの耳に、プリシラ・プリミテシアの声が届いた。
「まずは『赤い外套』探しが先なのでは? 我々の家族を殺した奴らを見逃すわけにはいかん」
「確かにな。まずは明確な敵から排除すべきだ」
ミト・ミトスが答え、ヴォル・ヴォルトが同意する。
《夜会》が崩壊したとはいえ――他のギルドと手を組む、あるいは相互不干渉を決める余地は残っている。逆に言えば、迂闊に手を出せば本格的な敵対関係に陥ってしまう。下手をすれば、他の四つのギルドによって袋叩きにあってしまうかもしれない。
それに対して――傘下の店を襲撃し、ギルドの仲間を次々に殺害した『赤い外套』とは既に交戦状態だ。感情的にも見逃せる相手ではない。
しかし――ベガ・ベルンガは首を横に振った。
「いや、まずは《楽団》からだ」
《名も無き楽団》――《夜会》を構成する五大ギルドの一角だ。元傭兵団を中心にしているが故に、「抗争」だけではなく「戦争」にも通じる武闘派ギルドである。迂闊に突くには危険な相手だ。
だが――
「《楽団》には、『赤い外套』の連中なんざ話にならねぇぐらいの借りが有るんだからよぉ……」
牙をむき出し、ベガ・ベルンガは凶暴な笑みを浮かべた。《夜会》成立前に行なわれた《楽団》との抗争で、《獣王の血脈》は少なくない犠牲者を出している。
そのことを、ベガ・ベルンガは忘れていない。
「……遺恨があるのは確かだが、この状況で仕掛けるのは賢いとは言えないだろう」
猛る獅子を、ミト・ミトスが嗜める。しかしベガ・ベルンガとて、冷静さを失っているわけではない。
「王都中を血眼で探し回ったにもかかわらず、『赤い外套』のねぐらは解らねぇままだ……見つけるには、奴らが何ぞ尻尾を出すまで待つしかないだろう。現状で迂闊な動きは下策だが、かといって動かないのはもっと悪い」
酒盃を弄びながら、獅子が続ける。
「最善は――こっちから何処かに仕掛けて、可能な限りの打撃を与える。そうすりゃ、他のギルドも寄って集って食いちぎるだろうよ」
そして、もっとも手を組みにくいのが《楽団》だ。遺恨があるのは向こうも同じ。もし他の三つのギルドに仕掛けても、《楽団》は後ろから《獣王》の背中を狙う可能性が高い。だったら《楽団》を標的にする。
「しかし、相手は腕利き揃いだぞ。下手に仕掛ければこっちが痛手を負いかねない」
「腕利きはこっちにもいるさ。飛び切りのな」
ベガ・ベルンガの答えに、ヴォル・ヴォルトが顔を顰めた。
「……あの二人を使う気か」
「不満か? ヴォル・ヴォルト」
「不満だな。信用できん」
吐き捨てるように、銀狼が続ける。
「あの二人はヒューマンだ。獣人じゃない」
ヴォル・ヴォルト言葉に、べガ・ベルンガは鋭い視線を向けた。
「俺は奴らをギルドに迎え入れた。ギルドに入った以上、俺達の家族だ。家族以外に信じるものが、貴様に有るのか?」
「……」
頭目の眼光と苛烈さを含んだ声に、流石のヴォル・ヴォルトも沈黙する。ミト・ミトスも、プリシラ・プリミテシラも、反対の声を上げなかった。
「決まりだな」
ベガ・ベルンガは笑い――部下の名を口にした。
「――ショウゴとテッペイを呼べ」
館の廊下を、一人の男が歩いている。足をぶらつかせるような、だらしない歩き方だ。
上背があるわけでもないし、細身の身体は筋肉も薄い。顔つきにはしまりがなく、ヘラヘラした笑みが浮かんでいた。
およそ、屈強さとか力強さを感じさせる風貌ではない。しかし館の所々に配置された用心棒達は、彼の姿を見ると背筋を正し、顔を強張らせた。
「ちーす」
畏怖の表情を浮かべる用心棒達に、気の抜けるような挨拶を投げかけながら、男は廊下を進む。途中、歩きながら懐から小さな木箱を取り出すと、中から葉巻を引き抜き、くわえる。
そして――次の瞬間、葉巻の先端に火が付いた。
《イグナイト》と呼ばれる魔法だ。小さな火を生み出すだけの、簡単な魔法である。決して驚くような技能ではない。
しかし発声も予備動作も無く魔法を使うとなると――尋常なことではない。
紫煙を燻らせながら、男はがりがりと頭を掻いた。アシンメトリーに整えられた髪は、鮮やかなオレンジに染められているが――根元を見れば黒髪を染めたものと解る。垂れ目ぎみの瞳も、夜の闇のような黒だった。
やがて男――関鉄平は、ある部屋の前で足を止めた。
「彰吾ちゃーん。出ておいでー」
鉄平は扉を叩き、声をかける。部屋の中からうめき声が上がり、がさごそと音がして――しばし待ってから、ようやく扉が開いた。
「なんだね。鉄平」
顔を出したのは、でっぷりと太った男だった。ぎょろぎょろとした目つきに、ぼさぼさの髪――そのどちらともが、黒だった。
鉄平とは別な方向性で力強さを感じさせない男――赤井彰吾は、眉間のあたりに手を当てる――まるで眼鏡の位置を直すかのような仕草をすると、鉄平を睨みつけた。
「僕は今、この世のパラダイスを満喫してるところなんだ。いくら君でも邪魔はゆるさんぞ」
不機嫌を隠さない相棒に、鉄平は緩くて軽い笑みを返した。
「わりわり、でもライオンの旦那が呼んでるらしくってさ。お仕事だってよ」
「……ちっ」
流石に雇い主であるベガ・ベルンガの呼び出しを無視するつもりは無いのか、肥満体の男は舌打ちをすると、部屋の中を振り返った。
「ごめんよ、リナ・リーナちゃん。ちょっとお仕事はいっちゃったから、行って来るよ」
「うん。いってらっしゃい。早く帰ってきてね」
奥から聞こえたのは、やや舌足らずな、まだ幼い女の声だった。鉄平からは姿は見えないが、リナ・リーナという少女については鉄平も良く知っていた――彼女がまだ、十歳ほどだということも。
廊下に出て、扉を閉めた彰吾は、感極まったような表情で頭を振った。
「いやもう、リナたんマジ天使。リアル猫耳美幼女とか超最高」
「……ま、趣味は人それぞれだからね。俺は何も言わないよ?」
この世界じゃ幼女に手を出しても犯罪じゃないし、と鉄平は小声で付け足した。だから彰吾の衣服が乱れていることや、彼が部屋から出てくるのに妙に時間が掛かったこととかも気にしないことにした。
「それで、仕事って何だ?」
「さあ? これから聞きに行くところだし?」
彰吾は鼻を鳴らし、未練がましく背後のドアを振り返る。
「面倒くさい。部屋でリナたんとイチャラブしてるほうがいい」
「気持ちはわかるけどさ、労働って尊いぜ? それに、ライオンの旦那には散々世話になってるわけだしー」
不平を零す彰吾を宥めながら、鉄平は半分ほどに短くなった葉巻を指で弾いた。葉巻は床に落ちる前に燃え上がり、塵も残さずに焼失した。
二人はヒューマンでありながら、獣人ギルドである《獣王の血脈》に迎えられた異端児だった。反対を押し切り、彼らを家族として受け入れたベガ・ベルンガには恩もあれば義理もある。
「……だな」
鉄平の言葉に、彰吾も顔つきを改める。それを見た鉄平はにやっと笑い、相棒の肩を叩いた。
「さ、行こうぜ」
「ああ」
そうして、二人の男は――《NES》のプレイヤーであり、この世界に迷い込んだ異邦人は、並んで歩き出した。