間章:シュトリ、恋に悩む
「ふん、ふん、ふん、ふーん」
鼻歌混じりに、シュトリは屋敷の廊下を歩いていた。
傍目にも解るほど、ご機嫌である。天使と見紛うほどの美貌を誇るシュトリだが、その顔はもっぱら怒りに歪んでいるか、仏頂面か、あるいは凶暴な笑みを浮かべていることが多い。神経質で怒りっぽい彼女の機嫌は、殆ど斜めで固定されてしまっているのである。
しかし今は、それはそれは嬉しそうにしている。極めて珍しい光景に、偶然彼女を見かけたジェイクが、思わず己の頬をつねったほどだった。
弾む足取りが止まったのは、とある部屋の前だった。
「ソラト、いる?」
シュトリはドアを開け、中を覗き込む。
かなりの気分屋であるソラトの生活は、「不定」の一言に尽きる。狂ったように鍛錬している日もあれば、一日ベッドでダラダラしている日もある。数日間、どこかに姿を消している事も多い。時間も不規則で、朝と夜の区別が殆ど無い。会いたくても会えない、話したくても話せない日は、決して少なくなかった。
「ん……」
幸いにも、ソラトは部屋に居た。シュトリの呼びかけに、読んでいた本から顔を上げる。目の前の机には、山のような本が積み上げられていた。
この世界は《NES》に似ているが、決して同じでは無い。だからその差を埋めるために、少しでもこの世界の知識を増やす必要がある――そう言ってソラトは様々な本を取り寄せ、暇を見つけては読み漁っていた。
彼の言う事はもっともであるが、英語が苦手なシュトリはこの世界では文盲も同然だ。一応、勉強してはいるのだが、辞書もテキストもない環境ではなかなか捗らない――まあ、重要な事はソラトかカイムが教えてくれるから大丈夫、と彼女は胸中で自分を誤魔化した。
部屋の中には、目当ての相手のほかに、何時もの面子――カイム、イザベラ、エレンが揃っていた。
シュトリの姿を見て、ソラトは眉を上げた。
「……どうしたんだ? その格好」
予想していた質問に、シュトリは笑みを浮かべた。今の彼女の服装は、いつもの改造乗馬服ではない。上は真っ白なブラウスにリボンタイ、下はプリーツの付いたチェックのミニスカート、足元は黒いソックスと革のローファーで決めている。
有り体に言えば――女子高生の制服姿だった。
「んふふ、こっそり作らせてたんだぁ」
スカートをつまみ上げ、彼女は自慢げに言う。
この服には、時間も金もかなりかかっていた。
このファンタジーな世界に制服が売ってるはずもなく、必然的に何から何までオーダーメイドだ。納得のいくデザインが出来るまで、何回も仕立て屋に通いつめた。そして手触りや着心地を可能な限り本物に近くしようとた結果、高価な素材ばかり使うことになり――ちょっとした家くらいは買える値段になってしまった。
しかしその甲斐あって――出来栄えはほぼ完璧だった。何処からどう見ても、女子高生の制服である。
どうだ、とシュトリは豊かな胸を張る。
彼女がわざわざこんなものを作ったのは――ソラトに見せびらかすためである。
好色で、しかも奥手とは無縁の性格をしているソラトは、気に入った異性には片っ端から手を付ける。しかし何故か、シュトリには手を出していなかった。
これがシュトリは不満だった。彼女は自分の容姿にそれなりの自信を持っていたし、向こうだって満更ではないはずである。実際、胸や腰を触られる事は多い。単純なスキンシップの量では、むしろ自分が一番なハズだ――が、ベッドに呼ばれるのはエレンやイザベラ、あるいは使用人の奴隷などのNPC達である。
その事実は、シュトリの女としてのプライドを酷く傷つけていた。この傷を癒すには、ソラトに自分を女として求めさせるしかない。
そのための一手が、この制服である。何しろ自分はリアル女子高生。全国の野郎どもが、その言葉だけでエロスを感じる肩書きである。このブランドを持っているのは、カイムを除けば自分だけ。これを生かさぬ手は無いだろう。
「ね、感想は?」
「んー」
いまいち気のない様子のソラトは、シュトリの姿をしげしげと眺め――
「なんか、コスプレっぽい」
「コス……!?」
あんまりな感想に、シュトリは頭を殴られたようなショックを受けた。
金髪碧眼という、日本人離れした風貌の持主であるシュトリに、制服は似合っていなかった――いや、「似合っていない」というのは間違いかもしれない。ブラウスもプリーツスカートも「洋」服であり、ヨーロッパなどで似たような制服を採用している学校もある。世界的な視点で見れば、むしろ金髪碧眼の女子高生のほうが多数派かもしれない。
つまり、シュトリは制服が似合わないのではなく、日本で生まれ育ったソラトが想像する「女子高生」のイメージに合致しなかった。それだけだ。
それだけなのだが――シュトリにとって一番「似合ってる」と言って欲しかった相手はソラトなのである。彼女は乙女心に盛大なダメージを受けていた。
――そこは嘘でも、可愛いって言って欲しかった。
デリカシーとは無縁なソラトを、シュトリは胸中で嘆く。
ソラトは決して、人の心に考えをめぐらせない男ではない。むしろ相手の心中を見透かし、操ることに長けている。
が、それが発揮されるのは、彼の利益になる時だけである。つまり、シュトリの服を褒め、彼女の機嫌を取るのは、ソラトの中で「利益」に含まれていないということに気が付き――シュトリは更なるショックに襲われた。
打ちひしがれる少女を尻目に、ソラトは欠伸をすると、本を閉じて立ち上がった。
「眠いから、寝る。エレン、飯になったら起こせ」
「わかりました。夕食に何かご要望はありますか?」
「んー」
ソラトは少し考え――
「カレーが食べたい」
そう、答えた。
「……? かしこまりました」
エレンは僅かに首をかしげながらも、直ぐに頷いた。
彼女が首をかしげたのは――そもそもカレーという料理が何なのか、彼女は知らなかったのである。
エレンも料理は出来るが、身につけているのはあくまで家事としての料理であり、料理人というわけでは無い。外食の機会も少なかったので、料理の種類を多く知っているわけではない。
しかし屋敷には、料理上手のカイムがいる。しかも彼女は、ソラトと同郷なのだ。
だからエレンは「自分は知らないが、カイム様ならば知っているだろう」と思ってしまった。まして以前、カイムの発案で様々な料理を載せた「レシピ集」が作成されている。きっとそれに載っている料理だろう――そう考えてしまったのも無理は無いのかもしれない。
「じゃ、おやすみ」
そう言い残し、ソラトはドアの向こうに消える。
「カイム様。申し訳ありませんが、カレーと言う料理について、ご教授を――」
振り向いたエレンが見たのは――蒼白になった、カイムの顔。
「カイム様?」
「……集合」
ぽつりと、カイムが呟く。シュトリとエレン、そしてイザベラは怪訝そうな顔をしたが、大人しく集まった。
「事態は深刻だ」
重々しい声で、カイムは言う。
「我々はこの困難に、力を合わせて立ち向かわなければならない」
「……何事?」
カイムの言葉に、イザベラがぽかんとした顔になる。カイムは《百鬼夜行》で数少ない良識の持ち主であり、冗談を言うような人柄でもない。彼女が深刻だというのなら、本当に深刻なのだ――問題は、何が深刻なのかさっぱりわからない点なのだが。
「あの、カイム様。ひょっとして、カレーと言う料理は、それほどまでに作るのが難しいものなのですか?」
「んなわけないっしょ。むしろ簡単」
エレンの問いを、シュトリが否定する。カレーは家庭科の授業や、キャンプなどでも登場する「素人でもそれなりのものが作れる料理」だ。あまり料理が得意ではないシュトリですら、比較的容易作ることが出来るだろう。
「ああ、作ること自体は難しくない。問題は――材料だ」
沈痛そうな表情で言うカイムに、シュトリは首を傾げた。
「材料って、ジャガイモでしょ、にんじんとたまねぎに……肉は鳥でも牛でも、豚でもいいよね? 米だって手に入るし」
慣れ親しんだ日本のものとは微妙に違うが、この世界にも米はある。変わった匂いがするし、粘り気が少なくてパサパサしているが、どうせカレーをかけるのだから特に問題にはならない。
「あとは――」
そこでシュトリは気が付いた。彼女の頬に、一筋の汗が流れる。
シュトリが理解したことを察したのか、カイムが頷いた。
「そう――カレールーが、ここでは手に入らない」
「ねえ、そのカレールーってのはどんなもの?」
聞き慣れぬ食材に、イザベラが疑問を口にする。
「調合されたスパイス……香辛料を固めたものだ。私たちの国では簡単に手に入る」
「だから、ソラトも深く考えずにカレーって言っちゃったんだろうね……」
家事能力がゼロのソラトは料理に明るくないし、買い物も人任せである。「この世界では手に入らない材料がある」ということに、考えが回らなかったのだろう。
「香辛料なら手に入るかもよ? それじゃだめなの?」
「……スパイスからでもカレーは作れる。作れるが、調合のレシピが解らない」
流石のカイムも、スパイスからの本格的な作り方は心得ていない。適当に混ぜれば良いという物でもないだろう。たとえ材料が集まっても、ちゃんとした「カレー」が作れる可能性は低い。
「ならば、夕食は別のものをお出しするしかないのでは? 不可抗力であれば、そこまで強いお叱りを受ける事はないと思いますし……」
咎めを受けるとすれば、作れぬものに頷いてしまったエレンである。しかし彼女はそこまで心配していなかった。ソラトは高慢で横暴な性格をしているが、かといって道理の解らぬ男でもない。材料が手に入らぬことを告げれば、ソラトはエレンを咎めないだろう。
「……でも、絶対に機嫌は悪くなる」
イザベラの呟きに、全員の顔が顰められた。
機嫌の悪いソラトというのは、非常に危険である。もとより残忍で、人を虐げることに躊躇するどころか、喜びを感じるような男だ。不機嫌になれば、それを誰かにぶつけることで解消しようとするだろう。
そして、それが自分たちで無い保証は無い。この場に居る全員が、彼の「お気に入り」ではあったが――それが何の安心にも繋がらないのが、ソラトの恐ろしさである。
「……とにかく、出来る限りの手を打つしかない」
「だね。アタシはスパイスを集めて、なんとかカレーが作れないか試してみる」
カイムの言葉に、シュトリは拳を握り締めた。
「では、私は駄目だったときに備えて、別の料理を作れるように準備しておこう。それで満足するかもしれない」
「……いざって時のために、坊やの機嫌を取れそうなものを探しとくよ」
「私はソラト様が起きたとき、少しでも時間を稼げるよう、傍に控えておきます」
カイムが立ち上がり、イザベラが髪を掻き揚げ、エレンが頷く。
かくして、女たちの戦いが始まった。
――そんなことは露知らず、ソラトはぐっすりと眠っていた。
とりあえずは材料を手に入れようと、シュトリは市場に向かった。といっても、殆どの材料は既に屋敷にある。問題は香辛料だ。
ファンタジーで香辛料と言うと貴重品なイメージがあったシュトリだが、わりとあっさり見つけることが出来た。そもそも中世ヨーロッパで香辛料が貴重品になったのは、まず原産地が遠かったこと。食料を保存する方法が限られており、強力な防腐剤やにおい消しが必須だったこと。そして香辛料は身体に良く、病を治す「薬」でもあると考えられていたことが原因だ。
逆に言えば産地が近く、食材の保存方法にバリエーションがあり、医療が発達していれば特に値段が上がるものでもない。
問題は――どれがどれだけ必要なのか、さっぱりわからない事である。
一言に香辛料といっても、種類は様々だ。そしてそれもどうか加工するかによって、まったく別のものに変わってしまう。
もともとシュトリは料理に詳しくない上に――ここは異世界である。未知の植物、あるいは動物を使ったスパイスなんてものもある。こうなると、シュトリには何がなんだかまるでわからない。
カレー作りは自分じゃ無くてカイムに割り振るべきだったか、とシュトリは後悔した。彼女でもスパイスからカレーは作れないといっていたが、それでも自分よりか可能性があった気がする。
シュトリがカレーを作ると言い出したのは、もし成功すればソラトに褒めてもらえると思ったからだ。彼の中での、自分の評価を上げたい一心だったのである。
我ながら健気だ、とシュトリは胸中で苦笑する。自分でも驚くくらい、シュトリはソラトに尽くしたいと願っていた。
そういえば――自分は何故、そんなにもソラトが好きなのだろうか。
シュトリは眉を寄せ、考える。自分がソラトに惚れた理由を。自分が夢中になる、ソラトの美点を。
まず顔がいい――表情がとにかく悪人っぽいので台無しだが。
加えて頭がいい――もっぱら悪巧みにしか使ってないが。
そして性格が――性格が……性格は……。
――あれ? 何で私、ソラトのこと好きなんだろ……?
彼女の頬を、冷たい汗が流れる。根本的な疑問に、シュトリは答えを見出せなかった。
よくよく考えてみれば――というかよく考えなくとも――ソラトはおよそ、人から好かれるような人格の持ち主ではない。
ソラトは傲慢だ。しかもそれを隠そうともせず、NPCはおろか、自分やカイムまで下に見ている。
ソラトは残忍だ。《百鬼夜行》の人間には彼への恐怖が刻まれている。恋心を抱くシュトリすら、根っこの部分では彼に恐怖心を持っていた。
では――何故?
「いよう、お嬢ちゃん。何を悩んでるんだい? 値段だったら相談に乗るぜ?」
考え込んでいる少女を怪訝に思ったのか、若い店主が声をかけてくる。
「っ!? いや、カレーに必要なのがどれか解らなくってさ」
突然声をかけられ、思わず背筋を伸ばしたシュトリは、慌てて言いつくろった。そしてそれを聞いた店主が、驚くべきことを口にする。
「カレー? お嬢ちゃんもカレー屋を開くのかい?」
「……は?」
今なんと言った、この男は。
男の口ぶりでは、カレーという料理を知っているかのようではないか。
「アンタ、カレーを、カレーの作り方知ってんのか!?」
「うへぇ!? 何なんだいきなり!!」
シュトリは腕を伸ばし、男の胸倉を掴んで引く。突然の行動と剣幕に、男は目を白黒させた。
「いいから答えろ! 知ってんのか、知らねぇのか!? ああん!?」
天使のような容姿に反して、シュトリはソラトの片腕としてならず者を束ねる立場に居る。堂に入った恫喝に、店主は顔を引きつらせた。
「しらねぇ! しらねぇよ! でも、何日か前にエイハブってやつが、香辛料をどっさり買っていきやがったんだ! 何でか聞いたら、『カレーを作るのさ。こいつは俺の店の目玉になるぜ』とか何とか言ってたんだよ!」
つまりそのエイハブとやらを締め上げれば、ソラトに美味しいカレーを振る舞い、褒めてもらうことが出来るのだ。
予期せぬチャンスに、シュトリは目を肉食獣のようにぎらつかせた。
「そいつの居所、今すぐ教えろ!」
シュトリのこと本郷アリサの両親は、不仲だ。別に怒鳴り合い、殴り合いの喧嘩をするわけではないが、二人の間には殆ど会話が無く、まるでお互いに全く関心が無いかのようだった。
そして、彼らはアリサにも関心が無かった。彼らは娘に事務的に接し、愛情が無いことを隠そうともしなかった。
幼い頃、アリサは自分が両親に愛されていないことを酷く悩み、苦しんだ。他の家の子供達は、やさしい両親に愛情を注がれているという事実を、彼女は羨み、嫉妬した。愛してくれないのは自分に至らぬ所があるせいだと、己を責めたこともある。
年齢を重ねるにつれ、問題は自分ではなく両親にあるのだと気付いたアリサは、彼らに期待するのを止めた。それでも心の中では愛情を求めていたし、寂しさは彼女を蝕んだ。
問題があったのは、家庭だけではなかった。彼女の金髪と碧眼は、学校でよく目立った。そして彼女の感情的になりやすい性格は、周囲の反感を買った。彼女の容姿に惹かれてくる異性は居たが、下半身の欲望を隠そうともしない彼らを、アリサは蛇蝎の如く嫌い、追い払った。
当然のようにアリサは孤立し、友人など一人もできなかった。
家庭にも学校にも居場所の無いアリサを慰めたのは、ゲームやアニメと言ったサブカルチャーだった。そんな彼女が、VRGに興味を引かれるようになるのは時間の問題だった。
小遣いだけは不自由しなかったアリサは《ドリームマシン》を購入し、仮想空間で遊ぶようになった。そして世界初のVRMMOGが販売されると、アリサは迷う事無く購入し、そして《シュトリ》になった。
始め、彼女の胸には期待があった。家庭は寒々しく、乾いている。学校は悪意と敵意に満ちていた。でも、ネットなら、ゲームの世界なら自分の居場所があるかもしれない。友達、仲間、そういった温かくて素敵なものが、自分にも手に入るかもしれない。
そう思って、彼女は冒険をスタートさせた。
――期待が裏切られるまで、そう時間は掛からなかった。
リアルだろうがネットだろうが、人間の本質は変わらない。むしろ、顔も素性もわからない分、露骨になると言ってもいい。
特にVRGでは表情も言葉も、リアルと同じ様に機能する。つまり従来の、コントローラーやキーボードでキャラクターを動かすゲームと違って、思ったことが顔に出るし、心無い言葉を「思わず」発してしまうこともある。感情的なシュトリはより感情的になり――それに対する周囲の反応も、より攻撃的になった。
いくつかのパーティーを渡り歩き、その度に誰かと衝突し、あるいは自分から背中を向け――やっぱり彼女は孤立した。
リアルで人付き合いが上手く出来ない奴は、ネットでも上手く出来ない。当たり前と言えば、当たり前のことだった。
リアルと違ったのは――彼女にも抗う力があったことだった。
切っ掛けは、あるプレイヤーと口論になったこと。かっとなった相手プレイヤーが、剣を抜き、彼女に向けた。
当然のようにシュトリも剣を抜き、そして相手を切り殺した。
もちろん、所詮はゲーム。本当に相手が死ぬわけではない。僅かなデスペナルティと共に、プレイヤーは直ぐに蘇る。
だが――互いの殺意は本物だった。相手を否定してやるという意思をもって剣を振るい、力をもってそれを実現させた。
快感だった。
彼女初めて、自分を否定する何かに対して抗い、そして勝利することが出来た。ただ屈することしか出来なかった世界に対して、彼女は初めて金星を上げたのだ。
一度味を占めたら、止められない。
かくして彼女は、PKになった。彼女は彼女を取り巻く全ての理不尽に、己の力をもって立ち向かった。全てに抗い、全てを否定し、何もかもを憎んで壊した。暴れれば暴れるほど、自分の存在が大きく、強くなるような気がした。
だから、PKを繰り返した。
もっともっと殺せば、誰も自分を無視できなくなる。誰も自分を侮り、蔑む事など出来なくなる。自分を否定するものに抗うための戦いは、やがて無差別に悪意をばら撒くだけの暴力となっていた。
そして――あの男に出会った。
彼女がNPK――《ノートリアス・プレイヤーキラー》に数えられるようになった頃、他のNPK達と顔を合わせる機会があった。
NPKになるには、相当数のPKを行い、その上で運営からの特殊クエストをこなさなければならない。必然的にNPKは殺人を犯し、それを誇る屑の集団ということになる。どいつもこいつも最低で最悪のイカレポンチばかりで、そして彼女もその一人だった。
――何気ない雑談で、「何故PKをするか」という話題が出た。
ある者は「楽しいから」だと答え、ある者は「美学だ」と答えた。「PKは愛だ」と嘯く者すら居た。
自分も「ストレス解消」と答え、別なプレイヤーに「アンタはどうなんだ?」と話しを振った。
話しを振られた男は――《NES》においてもっとも殺し、もっとも憎まれる最悪のPKは、おどけるように肩をすくめ、答えた。
『――だってリアルじゃ出来ないだろ?』
その答えに、他のPKたちは「そりゃそうだ」と笑っていた。
だが――シュトリは、ぞっとした。
この場に居るのは、ゲームにおける「殺人」であるPKを繰り返す糞ばかりである。
しかし――現実に人を殺したいと思っている人間は、どれだけいる?
これはあくまでゲーム。実際に人が死ぬわけではない。みんなそれを解っていて「殺人」をしている。
それに対して、この男は――殺人の代償行為としてPKをしているのだ。現実で人を殺せないから、代わりに人が死なない「PK」を行なっている。
仮に、もし仮に、PKで本当に人が死ぬとしても、彼は躊躇う事無く――むしろ嬉々として行なうに違いない。
彼の異常性を、シュトリは恐れた。彼の悪意に比べると、自分は小さく非力で、しみったれた存在に思えた。
同時に――どうしようもなく惹きつけられるものを感じた。
人には、危険なものほど魅力的に感じる時がある。猟奇的な事件を起こした犯罪者に、多くの大衆が憧れを抱いたり、崇拝の対象にしたりするケースは存在する。そして現実に不満を抱いている人間ほど、その傾向が強い。
彼らは無意識の内に、自分を抑圧している「現実」を破壊してくれる何かを求めている。だから社会を、人を傷つけ、恐怖させる存在にそれを期待し、焦がれてしまうのだ。
シュトリにとって、彼が――ソラトという名のPKは、まさに「魅力的な危険」そのものだった。
――でもそれは、恋じゃない。
アルクスの街を歩きながら、シュトリは胸中でそう呟いた。
確かにシュトリは、ゲーム時代からソラトに惹かれていた。だがそれは異性に対する愛情ではない。当時の自分には、ソラトを喜ばせたいとか、彼の役に立ちたいと言う感情はなかったからだ。
では自分が、彼に恋する理由は何だろうか?
疑問を弄びながら、シュトリは足を止めた。目の前にある店の扉には、「CLOSE」の文字が刻まれたプレートが下がっている。
シュトリは拳を握り、ドアを叩く。その怪力でドアが軋み、プレートが揺れた。
中から応答は、ない。しかしシュトリは躊躇うことなく、二度三度とドアを叩いた。
そして、
「あーもう、うっせぇ! 今忙しいんだよ! 居留守使ってんだから察しろよ! 帰れよ!」
罵声と共に、ドアが内側から弾けるように開いた。
顔をのぞかせたのは、痩せぎすの男だった。年は二十代の後半だろうか。ひょろりと背が高く、手足も長い。目つきの悪さとまばらに生えた無精ひげが、不健康さと胡散臭さを醸し出している。
「居るならさっさと出てきなさいよ。エイハブってのはアンタだね?」
物怖じする事無く、シュトリが尋ねる。
「そうとも、俺がエイハブ様だ。そしてテメェは誰だ。生憎と俺にはパイオツと態度がでかい小娘が尋ねてくる予定なんか無いんだよ」
不機嫌極まりない声で、エイハブが言う。シュトリも唇を歪め、地面に唾を吐き捨てた。
「こっちだって、そんな予定を作った覚えはねーよ。用件は一つだ。アンタにはカレーの――」
「アンタ、カレーを知ってるのか!? 実物見たことあんのか!? 食ったことあんのか!?」
レシピを吐いてもらう、と続けようとした言葉は、エイハブの叫びにかき消された。その剣幕に、シュトリは思わず頷いてしまった。
「いよっし! なんて幸運! なんて僥倖! ほらほら、そんなところに突っ立ってないで中に入れって!」
何故か大喜びし、歓迎ムード全開でエイハブが手招きする。意図がわからず、シュトリは逡巡したが、とりあえずこっちの目的を果たそうと思い、応じた。
店内にはカウンターと幾つかのテーブル席があるだけで、どちらかと言えばこじんまりとしている。変わりに調度品には気を使っているようで、華美ではないが良い物が揃っているようだった。食事をするところと言うより、茶を飲むための喫茶店のような造りである。
「そのへん適当に座ってくれ。今準備すっから」
どうもエイハブは、人を話を聞かず、自分の都合で物事を進める性格のようだ。その身勝手さに、シュトリはカチンとくる。
「ちょっと待てって。いきなり何なんだアンタ。一体何をさせようってんだ?」
怒り交じりのシュトリの問いに、エイハブはにやーっと笑った。
「試食だよ、試食」
「試食?」
「そう、カレーのな。今まさに完成したところなんだ。いやーちょうど良かった」
言いながら、エイハブはカウンターの向こうに回り、大なべの蓋を開けた。そこから漂ってくるのは、シュトリも良く知る匂いである。
「カレーだ……」
それは間違いなく、カレーの匂いだった。
シュトリの呟きに、エイハブは小躍りをする。
「くくく、そうかそうか……いや、大事なのは味だ。味を確認してくれ」
エイハブは小皿を取り出し、そこにルーをよそって差し出してくる。
――口にするものには気をつけろよ。まず、毒を疑え。
以前にソラトが口にした言葉が、シュトリの脳裏に響いた。もっとも、当の本人は《毒無効》のスキルを保持しているので、平気で買い食いしたりするのだが。
今回、シュトリがこの店を訪れたのは全くの偶然だ。エイハブとも初対面。警戒の必要は無いだろう。そう判断して、シュトリはルーを口にする。
「……間違いない。カレーだ」
やや辛すぎる気もしたが、そこらへんは好みの問題だろう。彼女が口にしたのは、「カレー」と呼んで差し支えのないものだった。
「いよっしゃぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ!! ついに、ついに完成だ! 俺はやった! やったぞ!」
シュトリの太鼓判に、エイハブは腕を突き上げる。まるでチャンピオンをKOしたボクサーのような喜びようである。
そこでふと、シュトリは疑問を口にする。
「つか、何でアンタ、カレー作れんの? カレーを知ってるのは、日本人だけなハズなんだけど」
鮮やかな黄色の髪を持つエイハブは、日本人には見えない。彼の口ぶりからしても、カレーの作り方は知っていても、カレーそのものを見たことは無いかのようだった。
「ああ、習ったんだよ。日本人に」
「日本人に会ったのか!? そいつは今何処に居る!」
他の日本人――プレイヤーの発見、引き入れは《百鬼夜行》でも最優先事項である。日本人が近くに居るのなら、早急に居所を突き止めなければならない。
「知らん。隊商で一緒になっただけでよ。その時は確か、これから王都に行くっつってたけど」
「そっか……」
首を横に振るエイハブに、シュトリは肩を落とした。新たなプレイヤーの居所がわかれば、ソラトが喜ぶと思ったのだが。
「んで、ちょっと暇してたときに、そいつと話す機会があってな……俺が店を出そうとしてるんだが、目玉になる商品がないって話をしたら、自分の故郷で大人気の食いものだっていう、カレーについて教えてくれたんだ。といっても、聞いたのは『こんな料理がある』っていう、大雑把な説明だけなんだけどな……話に聞いたカレーを可能な限り再現してみたはいいが、実物を見たことなかったから、これでいいのか確信が持てなかったのさ。だがそれもお嬢ちゃんのおかげで解決した。いやーまさしく天の采配だぜ。こりゃ幸先がいい」
そこで、エイハブは首を傾げる。
「ん? まてよ? お前さんこそ何でカレーを知ってるんだ? カレーは日本だけの食いもので、日本人ってのは全員が黒髪黒目だって聞いたんだが」
正確にはカレーはインドの料理だが、日本のカレーはもはや別の料理と化しているので、日本の料理と言って間違いではない。
「アタシはハーフなんだよ」
四分の一しか日本の血が入っていないシュトリを、ハーフと言うのは正しくないのだろうが……説明が面倒なので、いつもハーフで通している。
日本人の情報がないのは残念だが、目的のカレーは手に入るのだ。それで良しとしよう。
「じゃ、レシピを教えな。アタシ帰るから」
シュトリの要求に、しかしエイハブは目を剥いて拒絶した。
「はぁ!? ざけんな。これは俺の血と汗と涙の結晶だぞ!? 店の目玉になる商品だぞ!? おいそれと作り方を教えられるかい!!」
レシピが広まれば、他の店もカレーを出すようになるだろう。そうなれば、彼の店の売り上げが落ちることになる。エイハブの拒否も当然と言えば当然だった。
「そんなら、力ずくで吐かせるけど?」
しかしシュトリも引くつもりは無い。もともと他人の都合などお構いなしの性格をしているし、今の彼女はアルクスの暗黒街を支配する《百鬼夜行》の大幹部である。エイハブを痛めつけることに抵抗があるはずもない。
シュトリの脅迫を、エイハブは鼻で笑った。
「はん、やってみろ」
直後、シュトリの拳がエイハブを吹っ飛ばした。
しかし、浅い。
シュトリは顔を顰める。頭からカウンターに突っ込んだエイハブだが、直撃の瞬間、自ら後ろに飛んで、ダメージを殺していた。驚くべき技能である。
「驚いたぜ……人は見かけによらねーな」
そして――カウンターから身を起こしたエイハブの両手には、二本の包丁が握られていた。
「だが、まだまだ甘い」
両手の包丁で、エイハブがシュトリに切りかかる。その斬撃は、速く鋭い。ただの料理人の技ではない。面食らったシュトリは、思わず後退する。
「くっくっく、俺はもともと傭兵でな……血の匂いばかりの生活にうんざりして、店を開くことにしたんだよ……既に引退した身だが、荒事で負けるつもりは無いぜ」
戦う料理人が、不敵な笑みを浮かべる。シュトリは顔を顰めた。
単純な身体能力なら、シュトリの方が上だ。しかしエイハブには傭兵生活で培った技術がある。
それ以上に――シュトリは武器を持っておらず、買ったばかりの高価な服が破れることを気にして、上手く戦えない。
ただの買い物だと思って油断していた。着替えて――武装してくるべきだった。
動かぬシュトリに、エイハブが仕掛ける。幾度となく包丁が閃き、シュトリはそれを回避するので精一杯だった。
「大したもんだ……だが、息が上がってきたな。怪我をしないうちに諦めることをお勧めするぜぇ」
両手に構えた包丁をゆらゆらと揺らし、エイハブが言う。隙だらけに見えるが、次の瞬間には毒蛇のような一撃を放てる体勢であることを、短い攻防で既に示していた。
シュトリは唇を舐め――腰を落として、構えなおした。もう服を気にしてる場合じゃない。手傷覚悟で、強引にでも仕留めるしかない。
「こっちも引けないんだよ……ソラトが夕食にカレーをお望みなんでね!」
その言葉に、エイハブの動きが、ぴたりと止まった。目を瞬かせ、問う。
「……レシピを手に入れて、そいつで商売をするんじゃないのか?」
「ちげーよ! カレーを食いたがってる人が居るんだよ!」
シュトリの言葉に、エイハブはポツリと呟いた。
「だったら、そいつを店につれてくれば良いじゃないか?」
「いっただっきまーす」
望みの夕食を前に、ソラトはご機嫌である。年頃の少年特有の食欲で、カレーをもりもりと平らげていく。
その横顔を眺めながら、シュトリは微笑んだ。嬉しそうなソラトを見ると、彼女の頬も緩んでしまう。
あの後、シュトリは屋敷に戻り丁度目を覚ましたソラトを連れて、再度店を訪れていた。
他の三人も同行を希望したが、シュトリが却下した。今回一番のお手柄である彼女には、ソラトとの二人きりで食事をする権利くらいは認められるべきである。
「うん、美味い。いい店を見つけたな。お手柄だぞ、シュトリ」
言ってソラトは手を伸ばし、シュトリの頭を撫でる。シュトリは目を細め、それを受け入れた。
頭を撫でられるだけで幸せになる自分は、本当にソラトが好きなのだと思う。
いや――逆なのだ。
頭を撫でてもらって幸せだから、ソラトが好きなのだ。
向こうの世界で、誰かに褒めてもらったり、頭を撫でてもらったり、一緒に楽しく食事をしたり――そういった当たり前の幸せを、彼女は持っていなかった。
だから、それを与えてくれるソラトが好きになった。好きになれば「当たり前の幸せ」はもっともっと大きくなる。だからソラトのことも、もっと好きになる――その繰り返し。
どんなに彼が悪人で、残酷で、最低の人格の持ち主でも――シュトリには、この幸福を手放すことが、出来ない。
重症だなぁと、シュトリは自らを笑う。
それでも良かった。幸せだから。
「さてと……私も、いただきますか」
自らの気持ちを確認したシュトリは、己のカレーに取り掛かった。
カレーは、美味しかった。




