第三話:悪魔は舞い降りた
三人のPCを始末した後、俺は周囲に誰も居ないことを確認し、装備の変更を行った。
禍々しいローブが消え失せる。俺のPCボディは金色の巻き毛と深い青の瞳を備えた、おとぎ話に出てくる王子様のような姿をしている。
《NES》では頭上にキャラクターネームが表示される、ということはない。だから俺はPKする時に装備でPCボディを隠し《ソラト》の顔が売れることを避けている。何しろかなりの数をPKしているので、そうでもしないとろくにタウンを歩くことすら出来なくなるのだ。
この姿で愛想を振りまけば、誰も俺を凶悪なPKだとは思わない。アイテムメニューから白銀の装甲とハルバードを選択し、手早く装備の変更を済ませると、転送アイテムを取り出す。そろそろ夕食の時間になる。タウンに戻り、ログアウトしないと妹が《ドリームマシン》を強制終了させてしまうのだ。
転送アイテム――羽のついた十字架を握り締め、表示されたリストから転送するタウンを選択する。青白い光が俺の全身を包み、視界がホワイトアウトした。
「……ん?」
転送が終了した直後、俺は自身に無視できない違和感を感じていた。正確に言えば、違和感が無いことに違和感を感じていた。
《NES》に限らず、VRGではアバターはプレイヤー本人と同じ体格であることが推奨される。これは現実でとの差が大きすぎると、その違いに慣れるまで操作ミスが激増する――逆に慣れると今度は現実で『操作ミス』が発生しがちになる――からだ。
俺も《ソラト》を作るとき、現実の自分と同じ体格に設定した。それでも多少の違いは出る。だが今、その違いが感じられない。
「……」
視線を下ろす。そこにはいつもどおりの『俺』。つまり《ソラト》ではなく、現実世界の俺の姿があった。データで作られたPCボディではなく、取り立てて特徴の無い、高校二年生の身体だ。自分で顔を見ることは敵わないが、おそらく毎朝鏡で見ているのと同じ顔だろう。
しかも――
「何故に全裸」
ゲームでリアルフェイスを晒しているだけでもわけが解らないのに、その上、生まれたままの姿まで晒しているのである。俺は混乱を通り越して呆然としてしまった。
視線を上げる。青々とした葉を茂らせた木々が並んでいた。何処だかわからないが、人の姿は無い。とりあえず、猥褻物陳列罪で逮捕という事態は避けられた。もっとも、ゲームでも猥褻物陳列罪が適応されるかはわからないが……。
衣類を身につけていないのは、例えゲームでも非常に居心地が悪い。とりあえずイベントリから何か出そうと、右手で指を弾く。これが《NES》におけるステータスウィンドウを開くアクションなのだが――
「開かない、だと?」
何度繰り返してもステータスウィンドウは開かない。そして、俺は恐ろしいことに気がついた。
《NES》ではなにも装備していないPCは、下着――短パンとタンクトップのような服――が表示されるはずなのだ。全裸というのはあり得ないのである。
……俺は夢でも見ているのか?
夢以外にこの状況を説明できる言葉があれば教えて欲しい。夢ならもう少し楽しい夢が良かった。森の中に全裸で佇むというのは、夢診断だと何の暗示なんだろうか――などと益体の付かないことを考えて逃避していたが、脳の冷静な部分が、足の裏から伝わる僅かに冷たい、生々しい地面の感触に『これは現実である』との判断を下していた。
とりあえず、こうして突っ立っていても仕方が無い。
俺は深々と嘆息して、一歩踏み出した。小石を踏みつけ、顔を顰める。
地図もコンパスも無いので、方向は適当だ。遭難したとき迂闊に動き回るのは危険であり、安全な場所で救助を待つのが鉄則なのだが、それは救助が見込める場合の話。助けが来る保障がまるでない今、自分で何とかするしかなかった。
夢ならさっさと覚めろと願いながら、俺はこの世界で歩み初めた。
「異世界トリップでは、まず誰か案内役と出会うのがお約束だろうがよ……」
冗談交じりに毒づく。サブカルチャーを好む俺は、異世界に召喚されたり迷いこんだりする小説も目を通していた。その手の小説では、まず誰か現地の人間が色々と教えてくれたり、助けてくれたりするのが王道なのだが、あいにく俺には用意されてないようだ。
――このときはまさか、本当に異世界に居るだなんて思いもしなかった。
棚引く煙を見つけたのは、空が茜色に染まる頃になってからだった。
歩けども歩けども森の中で、いい加減うんざりしていた俺は歓喜した。火の無いところに煙は立たぬ。火があるということは人が居る可能性が高い。ひょっとしたら山火事なんてオチかもしれないが、このまま当て所なく歩くよりもマシだ。
煙が見える方向に向かって歩き続け――俺は『何か』が近づいてくるのを感じた。
『何か』は人の気配のように思えた。誰かが近づいていることを、俺は直感的に悟っていた。もちろん俺は武術の達人でも何でもないから、人の気配を察知する能力など持っていないはずである。だが俺は今、己に感覚に間違いは無いだろういう確信を抱いている。
――それだけじゃない。俺はおかしくなってる。
散々森を――それも道なき道を歩いたにも関わらず、ほとんど疲労が無い。体力はけっこう自信があるが、だからといって延々と歩き続けて疲労しないほどの超人ではない。
付け加えれば――裸足で森を歩けば、鋭い石や折れた枝などで足の裏がズタズタになってもおかしく無いはずだ。物を踏む感触はあるし、地味に痛いのだが、足の裏に傷が付いたり血が流れたりはしない。
便利だ、の一言で片付けるには異常すぎる。まるで自分が自分ではないように感じられた。俺はいったいどうなってしまったんだ?
思考の渦に囚われているうちに、木々の間から『何か』が姿を見せた。
『何か』は人だった。俺とそう変わらない年頃の少年だ。
まず驚いたのは、少年が剣を握っていたこと。
次に、少年が何かに怯えるように顔を引きつらせ、目尻に涙を浮べていることだった。
少年は何一つ衣類を身につけていない俺の姿に驚いたのか、目を見開いたが――直ぐに何かを訴えようと、口を開いた。
「た、助け……」
――その口から、鋭い金属が突き出した。
少年の体が、ゆっくりとうつ伏せに倒れる。その後頭部には羽のようなものが付いていた。矢羽である。
後方より飛来した矢が、少年の後頭部に突き刺さり、口蓋まで貫通したのだ。
突然の出来事に呆然としていると、前方からまた別な気配が近づいていることに気が付いた。気配の主が少年を射殺した可能性が高いことに思い当たり――咄嗟に俺が取った行動は、木の陰に隠れることだった。
そう間をおかず、ガサガサと音を立てて、木々の間から男が姿を表した。
男は金属製の軽装鎧を身につけていた。手には弓を持ち、矢をつがえている。その上、腰には剣が下げられている。
……俺の記憶が正しければ、日本では銃刀法という文明的な法律があったはずである。なのに、少年も、彼を射殺した男も、当然のように剣をぶら下げている。
「何処に隠れやがった? 確かにもう一人居たはずなんだが……」
俺が半ば逃避気味な思考に陥っていると、男がボソリと呟いた。
男が発したのは日本語だった――そのことが逆に違和感を感じさせた。男の容姿は日本人には見えなかった。何人に見えるかと聞かれても困るが、少なくとも青毛の日本人はいないだろう――というか、人類にありえる髪の色なのだろうか? 眉毛まで青なので、染めたということもないだろう。
男は周囲を探っている。いずれ俺を見つけるだろう。子供を射殺すような輩だ。見つかれば、俺の命も危ういだろう。
――こちらから仕掛けるしかない。
殺人者から身を隠している状況で、俺は恐慌を起こすことなく冷静に判断を下していた。
ただの高校生である俺が、命の危機に瀕しても動じずにいられたのは、おそらくまだ現実感を取り戻していないからなのだろう。
むしろ――理解できない状況に放り出されてから停止気味だった俺の思考は、「敵」という理解できる存在に相対したことによって、急速に働きを取り戻していた。
男が頭を巡らせ、背を向けた。死角から滑り込むように、俺は静かに男の背中に忍び寄った。途中、亡骸になった少年が握る、剣に手を伸ばす。
相手は気がつかない。無音で息を吸い込み――吐くと同時に、握った剣を男の胴体にたたき付けた。
ためらいなど無かった。確実に仕留めなければこちらが危険だし――そうでなくとも、俺は人を傷つけることに忌避感なんて無かった。
振り抜いた剣は鋼の装甲を砕き、肉を切り、骨を断ち、内臓を裂き――そのまま男の胴を両断した。中身が飛び散り、地面に落ちて、湿った音を立てた。
「……」
無言で男の亡骸を眺める。男は装着している鎧ごと綺麗に両断されていた。それを見て、俺の脳裏にはある疑問が浮かび上がっていた。
しばしの黙考の後、俺は死んだ少年の身体から衣服を剥ぎ取った。幸運にも体格に殆ど差がなかったので、サイズは心配なかった。
ようやく服を着ることが出来て、安堵する。
そして、こんどは男の剣を拾い上げた。少年の剣は無理やり鎧を切り裂いたせいか、刃がぼろぼろになってしまっている。
握った剣を軽く振る。軽い。仮にも金属製なのだから、もっと重く感じるはずなのに。
――いや、恐らく重量はあるのだ。ただ、俺がそれを感じないだけで。
剣の感触を手になじませるようにもてあそんだ後、俺は手近な木に横薙ぎの斬撃を叩き込んだ。殆ど抵抗すら感じず、木は鋭利な断面を見せて両断される。
剣には慣れている。実際に身体を動かす感覚が売りのVRGで剣をふるって戦っていたのだ。扱いだけなら問題ない。
だが、VRGをプレイしたからと言って、プレイヤーの肉体に筋力はつかない。プレイ中、プレイヤーの肉体は一切動かないのだから当然だ。いくら扱いに慣れているといっても、俺の筋力で金属製の剣をまともに振るのは難しいはずなのだ。
にもかかわらず、俺の剣は軽装とはいえ鎧を付けた人間を両断し、かなり太さがある木すら切り倒した。
つまり――
「何だ、ゲームか」
ゲームならステータス補正で、筋力が上がっているだろう。剣が軽く感じるのも納得だ。長時間、森を歩き続けられたのも同じ理由だろう。
俺は剣を握りなおし――今度はスキルを使ってみた。
攻撃スキル《十二連突》が発動し、青白いエフェクトを撒き散らしながら、十二回の刺突が空気の壁を蹂躙する。
スキルが発動する。やはりこれはゲームなのだ。
しかし――
俺は二つの亡骸に視線を向ける。少年の口蓋から、男の後頭部から、鮮やかな赤い血が滴っている。
全年齢対応ゲームである《NES》には、「血」が存在しないはずなのに。
どれだけモンスターやPCを切り、砕いても、飛び散るのは赤いダメージエフェクトだけである。にもかかわらず、今俺の目の前では鮮血が滴り、鉄錆臭い臭いを漂わせている。
思考の渦に取り込まれていた俺は、再度何者かの気配が近づいてくるのを感じた。
「おい、逃げた餓鬼は仕留めたのか?」
姿を現したのは、俺が殺した男と似たような装いの男だった。手には弓ではなく、抜き身の剣が握られている。
男は俺と、倒れている仲間を見て、剣を構えた。
「おい、お前! これは何だ!? お前がやったのか!?」
それを無視して、俺は顔を俯かせた。
――これはゲーム。《ネバー・エンディング・ストーリー》の仮想世界のハズだ。
しかし俺の姿はリアルの俺のもので、ステータスウィンドウは開かない。敵の頭上にライフバーが見えないし、地面には存在しないはずの血が広がっている。
――俺はゲームの中に居る……ゲームをプレイしてるんじゃなくて、本当に中に入っちまっているって言うのか……?
「答えろ! 貴様――」
「くっくっくっくっく……」
俺は肩を震わせながら、男を振り向いた。
男が目を見開く。その瞳に映った自分の顔は、邪悪な笑みを浮かべていた。
「くっくっくっく、あーっはっはっはっは!」
突然笑い出した俺を、男はあっけに取られたような顔で見つめている。
「な、何が可笑しい!?」
「くっくっく、何が可笑しいって? コレが笑わずにいられるか! 最高だ! 最高に愉快な気分だ!」
俺が生まれたときに、世界のルールは既に決まっていた。
人を殺すのは悪だ。盗むのは悪だ。欺くのは悪だ。争うのは悪だ。
社会は法と倫理で守られ、管理されていた。社会に属し、社会で生きる以上、ルールを守らなければならない。ルールを破れば、排斥され、排除されるだけだ。
それに異論はない。俺もそのルールで保護されて生きてきたのだ。文句を言うのは筋違いだ。
だが、不満はあった。
禁じられているということは――その行為を行う人間が居るということだ。誰もやらないことを、わざわざ禁止したりはしないのだから。
そう、人はもともと、他者を傷つけ、踏みつけることを是とする生き物だ。誰もが一度は願う。人を操り、支配し、殺し、奪って、己が欲望がままに振舞う生き方を。
あの平和な世界で、俺は法と倫理を守り、「善」を選び続けるしかなかった。
だがもし、もし許されるならば、己の欲望のまま生きるという選択も、俺はしたかった。押し付けられた「善」ではなく――欲望の赴くまま、「悪」として生きてみたかった。
この世界ではそれが許されるのだ。欲望を満たし、邪悪に生きることが……。
「お前……何を言っている!?」
「解らないか? 解らないよな。解らなくて良いさ」
俺はゆっくりと男に近づいた。男は警戒を滲ませ、剣を構える。銀色に輝く刃も、ちっとも恐ろしいとは思わなかった。俺に《ソラト》としての力が宿っている以上、何一つとして恐れるものなど無かった。
愉快で愉快でたまらない。俺は自分の欲望を満たせる世界と、そのための力を纏めて手に入れたのだ。
「お前は此処で死ぬんだから」
男が剣を構えた剣を、自分の剣を下から振り上げるようにして弾く。すかさず手首を返し、男を袈裟懸けに切り裂いた。
飛び散る赤い血が俺の頬を汚す。森に断末魔の叫びが響き、消えた。
剣にこびりついた血を拭うことなく、俺は煙に向かって歩みを再開した。空は既に暗くなりつつある。本格的な夜が来る前に、人里にたどり着きたい。少年が荷物も持たずに逃げていることを考えると、そう遠くない場所にあるはずだ。
手にはまだ、人を切った感触が残っている。見知らぬ場所に一人放り出された不安は、もう無い。それどころか気分は高揚し、胸が高鳴るほどだ。
ここが仮初の夢なのか、それとも偶然が重なった先の現実なのかわからない。
だが、ここには俺の望んだ自由と暴力があるのだと、俺は確信していた。