第十九話:聖女の炎
《聖女騎士団》がレテ砦を出発してから一日が経過しようとしていた。東北に向けて進軍した《聖女騎士団》はラーヴァニアとの国境であるキホトーナ山脈が見えてきた時点で全軍を反転させ、その場で休息を取ることとなった。
馬から下りたシャーリーアレンに、共回りの兵士が近づいて来る。手には折りたたみ式の椅子を携えていた。
「お疲れ様です、聖女様。天幕の準備が出来るまで少々お待ちください」
兵士は椅子を設置し、慇懃に頭を下げて去っていく。
その背中を見ながら、シャーリーアレンは小さく嘆息すると、馬に括りつけてあった荷物から水袋を取り出した。酷く喉が渇いていた。
椅子に腰掛け、水を口に含む。じんわりと染み込むように、温くなった水が乾いた喉を潤していく。だが直ぐにまた、喉の渇きを感じるようになる。彼女には緊張したり、気が高ぶったりすると、頻繁に水を飲む癖があった。
彼女の視界には、忙しく動き回る仲間達の姿があった。人が働いているのに、自分だけ休んでいるのはいたたまれない。しかし自分が手伝うと、逆に兵が萎縮して作業が捗らないと言われてしまえば、無理を言うことも出来ない。
昔はこうでは無かった。
彼女も皆と共に働き、皆と共に食べ、皆と共に戦った。
しかし――いつしか彼女が『聖女』と呼ばれ、指揮官に祭り上げられてからは、シャーリーアレンは特別扱いされるようになった。
『指導者は特別扱いされるべきなのです』
ウィズベキスタはそう言った。
『何の変哲も無い普通の存在に、自分の上に立ってほしいと思いますか? その辺の村娘と救済者である《聖女》。どちらに進んで従う気になるのはどちらですか? 兵が気持ちよく指示に従うためにも、貴方は特別でなければならないんです』
民が団結するためには象徴が必要なのだ。民を救い、民を導く《聖女》という象徴が。そしてシャーリーアレンが《聖女》に祭り上げられることで生まれる統率力は、彼女が雑用をするよりよっぽど勝利に貢献できる。それを理解しているからこそ、シャーリーアレンは居心地の悪さを我慢して座っていられるのだ。
――彼ならば、きっと私のように悩んだりはしない。
シャーリーアレンが思い出したのは《百鬼夜行》を束ねる少年の姿だった。下手をすれば彼女よりも若く、そして小さな体の持ち主でありながら、二百を超える荒くれ者を纏め上げる、ソラトという少年。彼はきっと、人の上に立ち、命令することに、疚しさを感じたりはしないだろう。
ダインなどは嫌悪と不信感を抱き、それを隠そうともしていないが、ヴィズベキスタはソラトを非常に高く評価していた。
ヴィズベキスタいわく、彼はシャーリーアレンとは真逆でありながら同質の存在なのだという。シャーリーアレンが人に「この人に着いて行こう」「この人の力になりたい」という正の感情で人を集める存在であるとすれば、ソラトは「この人に逆らうと拙い」「この人の敵になるのは怖い」という負の感情で人を従える存在なのだと。
自分にそんな求心力があるとは思えなかったが、少なくともソラトに関しては彼女も同意見だった。彼女もまた、あの恐ろしい少年を敵には回したくはないと思っていた。
やがて天幕の準備が整った。天幕には組み立て式の寝台まで用意されていた――他の兵士達は地面に毛布を敷いただけで眠っていると言うのに。
寝台に横になっても、なかなか眠ることは出来なかった。皆が働いているのに、自分だけ先に休むことへの後ろめたさ、近づいてくる戦への緊張、そして――胸で燃える、炎の熱さが彼女を眠らせない。
シャーリーアレンの胸の奥では炎が燃え続けている。それは恐らく憎悪と呼ばれる感情で、彼女の力の源であると同時に、彼女を蝕む病でもあった。
シャーリーアレンが生まれたのはバスカヴィル領ではなく、ルイゼンラートの中心たる王都カーマイルだった。
彼女の父はラーザネクス公爵。つまりは貴族だった。
シャーリーアレンは貴族の子として生を受け――しかし貴族として生を受けたわけではなかった。母が平民だったからである。
母は屋敷で奉公する侍女――というよりも、奉公の名目で半ば無理やり連れてこられた妾だった。母はラーザネクス領内で生まれ育ち、その美しさゆえに父の目に留まり、召し上げられた。
母に選択肢など無かった。相手は貴族、それも公爵であり、己の暮らす領地の主なのだから。
そして、私が生まれた。
母にとってシャーリーアレンは、好きでも無い男に孕まされた子であった。しかし母はそれでも彼女を愛してくれた。母の優しい声と、暖かな手。そして母が焼いてくれる林檎のパイが、彼女は大好きだった。
父はシャーリーアレンに何の愛情も持っていなかったが、それでも母と共に離れで暮らすことは許した。それは彼が貴族――血統主義者だったからだろう。たとえ平民の子であっても、自分の血を引く者である。血を絶やさぬための道具には成り得る。だから、もしもの時のために手元においておくことにしたのだ。
いびつな、しかし平穏ではあった日常が壊れたのは、彼女が十歳になった頃であった。
きっかけは母が一人の男と恋に落ちたことである。相手は屋敷で働く庭師の青年だった。彼は穏やかで朴訥とした性格の持ち主で、シャーリーアレンにも優しくしてくれていた。
――もし、父が母に飽きて暇をだすことがあれば、それまで二人がお互いに抱いた愛を隠すことが出来れば、二人は幸せになれたかもしれない。
しかし庭師の青年は、母が父の愛人であることなど知りもしなかった。屋敷で働く、美しい侍女としか思っていなかった。それゆえ、己の愛を隠し憚ることなど、思いつきもしなかった。
それが悲劇を呼んだ。
二人の関係が、父の耳に入った。もちろん父は二人を認めなかった。愛など無いくせに、自分の所有物に他人が手を触れることは許せない。父はそういう男であった。
母と庭師の男、そしてシャーリーアレンは兵士に捕らえられ、牢屋に入れられた。父は庭師の目の前で母を殴り、謝罪と庭師への罵倒の言葉を強要した。兵士達に庭師を暴行させ、それを眺めながら母を何度も何度も犯した。
やがて蛮行はエスカレートし、二人はただ苦しめるためだけに拷問された。庭師は鞭で打たれ、母は兵士に輪姦された。庭師は体に焼けた鉄の棒を押し付けられ、母は全身に針を突き刺された。
拷問が始まって五日目に、庭師が死んだ。その二日後に、母も死んだ。
七日間、シャーリーアレンはずっと地獄のような光景を見せつけられていた。泣くのも叫ぶのも、一日目には力尽きて、あとはずっと己の心を閉ざし、悪夢が過ぎ去るのを待っていた。
父は動かなくなった彼女を奴隷として売り飛ばした。あんな売女が産んだ子など、本当に自分の子であるか怪しいと言い捨てて。
シャーリーアレンは鎖に繋がれ、檻に入れられた。母の美しさを受け継いだ少女を見て、奴隷商人は高く売れると喜んでいた。
売られてから三日目。全てを失い、全てを諦めた彼女に、今更のように幸運が訪れた。彼女を運んでいた奴隷商人が、魔物に襲われたのである。
護衛に雇われていた傭兵が奮戦したこともあり、魔物は撃退されたが、私を買った奴隷商人は死んでしまった。
雇い主を失った傭兵達は、奴隷商人の所持金や荷物、商品を漁り、その場で山分けにした。
シャーリーアレンの値は高かった。だから、山分けの品として彼女を選んだ男は、他に何も手に入れることが出来なかった。
にもかかわらず、男は躊躇うことなく彼女の鎖を外した。
「お前くらいの、娘が居る」
男はそうとしか言わなかった。シャーリーアレンは男の故郷に、このバスカヴィル領へと連れて行かれ、そこで男の娘として育てられることになった。
義姉は突然出来た妹に大喜びし、可愛がってくれた。
義父は無骨で口下手な男だったが、それでも愛情をもって接してくれた。
始めは戸惑っていたシャーリーアレンも、時期に新しい家族と生活に慣れていった。
そして平穏な生活は、彼女に正常な反応を――母を失った悲しみと、ラーザネクス公爵への怒りを取り戻させた。
悲哀と憎悪は黒い炎となって、シャーリーアレンの胸を焦がした。彼女は突発的に何かを壊し、傷つけたくなり、あるいは何もかもに無気力になった。
やがてシャーリーアレンは義父から剣を学ぶようになった。己を焦がす黒い炎を宥めるのに、剣を振ることが有効だと気が付いたからだった。あるいは彼女は、人を殺す手段を――復讐のための刃を研ぐことで、心に折り合いをつけていたのかもしれない。
だが更なる悲劇によって、シャーリーアレンの炎はよりいっそう激しく燃え上がることになる。
シャーリーアレンが新しい家族を得てから八年後、義父が死んだ。
義父はもう若くなかったので徴兵は免れていたが、戦争によって税が重くなったことで傭兵家業に戻っていた。ラーヴァニアとの戦ではなんとか生きて帰ってきたものの、その時受けた怪我が原因で寝込むようになり、やがて衰弱して死んでいった。
姉は既に村の男と結婚しており、彼女に良く似た娘が居た。シャーリーアレンにもそういった話が無いではなかったが、過去の経験からか、あるいは単なる性分か、彼女は結婚にあまり興味がわかなかった。一緒に暮らそうという姉の誘いを断り、小さな畑を耕して生活していた、
そして半年前、彼女達が暮らす小さな村を、不作が襲い掛かった。税を納めることは愚か、冬を越す蓄えすら危うい状況だった。
しかし徴税官は無慈悲に、僅かな収穫の全てを奪い取ると、足りない分は村の人間を奴隷として売って払えと言った。
そして「商品」に選ばれたのは、まだ幼い、姉の娘だった。
姉は抵抗した。泣いて慈悲を請い、徴税官の足元にすがり付いて懇願し、終いには娘を抱えてうずくまった。
徴税官は嘆息一つして剣を抜き、姉の背に突き刺した。
――駆けつけたシャーリーアレンが見たのは、血に塗れた剣を片手に、姉の亡骸の下から娘を引きずり出そうとする徴税官の姿だった。
胸の奥で、黒い炎が燃え上がった。シャーリーアレンは野獣のような咆哮を上げ、剣を抜いて徴税官に切りかかった。正気を取り戻した彼女の周りには、失神した姪と姉の亡骸、そして肉片になるまで切り刻まれた徴税官とその護衛が散らばっていた。
徴税官を殺したシャーリーアレンを、村人は誰も責めなかった。姉の夫、義理の兄は感謝の言葉すら述べた。どの道、収穫を全て奪われれば飢えて死ぬしかない。生きるためには、もう戦うしかなかった。
そうして反乱が始まった。
翌朝、浅い眠りから覚めたシャーリーアレンは天幕を出た。
冷たい空気に身を震わせ、朝焼けの空の向こうを――バスカヴィル領主の居るであろう南を、憎きラーザネクス公爵が居るであろう方角を見つめた。
二日後には、彼女達も領主軍と戦うことになる。バスカヴィル伯爵を打ち破り、やがてはこの国の全てを革命の炎で包み込む。そうして農民による新たな国を、貴族の横暴によって苦しむものの居ない、平等と平和の国を作り上げるのだ
――待っているがいい、ラーザネクス。必ず貴様を殺してやるぞ。お前の持つありとあらゆるものを奪い、ありとあらゆる苦痛と恐怖を味あわせてから、私の手で首を撥ねてやる。
彼女の胸中で憎悪の炎が燃え上がり、しかし同時に後ろめたさがこみ上げてくる。
《聖女騎士団》に彼女の過去を知らぬものは居ない。だが、彼らは自分たちの生活のため、未来のために戦っているのだ。そんな彼らを、シャーリーアレンは自分の復讐の為に利用しているのである。彼らを導く聖女の振りをして、彼らを死地に向かわせようとしている。
煮えたぎる憎しみと、自己への嫌悪を抱えながら、シャーリーアレンは天幕に戻った。
胸を焦がす炎のおかげで、もう寒くはなかった。




