第二話:日常に潜む狂気
壁に掛けられた時計が、かちこちと時を刻む。いつだって変わらないはずの音が、妙に遅く、そして苛ただしく聞こえた。
黒板の前では英語の教師が淡々と授業している。中年教師の平坦な声は眠気を誘い、ちらほらと舟をこいでる生徒も居た。ただ教科書の内容を読み上げ、板書するだけという、生徒の興味を引くことを放棄しているとしか思えない授業だが、それを行う教師は授業の邪魔にならない限りは生徒を注意しない。生徒もそれを心得ているので、居眠りや内職をする者は居ても、騒いだりふざけたりする者は居ない。
これが授業の風景として正しいかは解らない。だが教師と生徒が、互いに楽な関係を築き上げている点は評価されるべきだと思う。
俺は丁寧に黒板の内容をノートに板書する。内容は全て教科書に書いてあるので、わざわざノートに書く必要はあまり感じないが、「ノートをとっている」という事実を残すために手を動かす。おそらく、テストの前にこのノートを見返すことなど無いし、他の多くの生徒も同じだろう。
ふと、手に握ったシャープペンをへし折りたくなった。隣で間抜けな寝顔を晒しているクラスメイトを殴り倒し、能無し教師を締め上げて、この退屈な授業をめちゃくちゃにしてやりたくなる。
暗い欲望を抱きながらも、授業が終わるまで、俺の手は滞りなく板書を続けていた。
チャイムが鳴り、教師が授業の終了を宣言すると、途端に教室は活気を取り戻した。今日の授業はこれで終わり。部活に急ぐ者。アルバイトに向かう者。教室に残って会話に興じる者。それぞれ思い思いの放課後を過ごすべく、生徒達は動き出す。
「ねえ、園原君」
「うん?」
唐突に投げかけられた声に、帰り支度をしていた俺は顔を上げた。
俺に声をかけてきたのは。クラスでも目立つ――派手と言う意味ではなく、中心的という意味で――女子生徒だった。
藤堂菫は成績良し生活態度良しの優等生で、クラスの委員長でもある。美人で、下品にならない程度に洒落っ気もあると言うのだから隙が無い。
「園原君もやってるの? 《ネバー・エンディング・ストーリー》」
彼女の口から出てきた言葉に、俺は首を傾げる。彼女が口にしたのはVRGのタイトルだ。ゲームは悪だなんてPTAのような事を言うつもりは欠片も無いが、PTA受けが良さそうな藤堂が興味を引かれるモノだとも思っていない。
「今、春田くんから勧められてたんだけど、園原君もやってるのかなって。ほら、園原君って、春田くんや木戸君と、いつも三人で仲良くしてるから……」
彼女の背後では同じクラスの男子生徒、春田幸平が手を振っていた。どうも彼が藤堂を《NES》に誘ったようだ。
四月のクラス替えで藤堂と同じクラスになって以降、幸平は彼女にご執心だった。しかしネットゲームに誘うというのは、果してクラスメイトの女子とお近づきになる手段として正しいのだろうか。ゲームが好きで、ゲームについて良く話す、というのなら解るが、優等生を絵に描いたような藤堂相手には、正直攻め方を間違っているとしか思えない。
何にせよ、俺は藤堂の質問に首を横に振った。
「いや、俺はやってないよ」
「――そっか」
藤堂は目を瞬かせ、頷いた。その清楚で愛らしい顔立ちに、俺は目を細める。
幸平が熱を上げるのも無理は無い。アイドルばりに美しい少女が、テレビの向こうではなく、手を伸ばせば触れられる距離に居るのだ。年頃の野郎ならば、ちょっかいの一つも出したくなるというものだ。
「しかし意外だな。藤堂がゲームやるタイプだとは思わなかった」
「あ、うん。あんまりやったこと無いわ。でも、《ドリームマシン》は持ってるの。ほら、教育プログラムってあるじゃ無い。それで親が買ってきて……私はなんだか肌に合わなかったけど」
VR技術には様々な使い道がある。医療やスポーツの分野もそうだし、各国が軍事利用していることは秘密でも何でもない。
教育の分野においてもそれは同じで、VR技術のもたらす仮想空間での学習、というものが考えられた。何故わざわざ仮想空間で勉強しなければならないかと思うだろうが、仮想空間ならば目や手が疲れることもないし、参考書だってデータ化できるので場所を取らない。
最近では仮想世界で授業をする予備校まで登場した。通学の手間が無いし、授業をする教師の姿を複数の『教室』に映すことも可能なので、一度に多くの生徒が授業を受けられるのである。
「で、そのこと話したら、春田君が『もったいない』って」
藤堂の言葉に、幸平は無駄に真剣な表情で頷いた。
「長らく人類が夢見たヴァーチャル・リアリティーという偉大なる新技術を、勉強にしか使わず、あまつさえ押し入れの中に仕舞いっぱなしだなんて、そんな事が許されるのか。いや、許されない」
「反語だねぇ」
芝居がかった台詞を吐く幸平に、藤堂が少しずれた相づちを打つ。
「僕たちがするべきなのは、そう――ロマンあふれる大冒険!」
拳を握りしめ、幸平は断言した。この友人は決して悪い奴では無いのだが、何というか、暴走癖がある。
「心配はいらない。レクチャーだったら僕と勇太がしてあげる。普通に楽しむだけなら、そんな難しいゲームじゃないし、藤堂さんは運動神経も良いからね。それに、やっぱり《NES》は面白いからさ。絶対にやる価値はある」
「うーん。興味が無いわけじゃないんだけど……」
熱弁を振るう幸平と、煮え切らない藤堂。それを眺めていた俺に、二人とは別な声が投げかけられた。
「なあ、流斗もやらないか?《NES》」
首を捻ると、同じくクラスメイトである木戸勇太が立っていた。
春田幸平、木戸勇太の二人とは、中学時代からつるんでいる仲だ。三人ともゲーム好きで、ゲームの貸し借りや対戦を頻繁にしていている。俺達が同じゲームをプレイするのは良くあることだ。
そして俺は、何度か二人から《NES》を勧められていた。
「……俺はいいや。ネトゲってのがちょっとね」
俺がいつも通りの答えを返すと、勇太は「そうか」とだけ頷き、それ以上何も言わなかった。
「なんか長くなりそうだし、先に帰るわ」
欠伸を一つして、立ち上がる。いつもは三人で帰るので、勇太が怪訝そうな顔になる。
「何か用事でもあるのか?」
「いや……流花がまた体調を崩していてな。大したことはないんだが、退屈してるだろうから」
妹の名を出すと、勇太は納得したように頷いた。長い付き合いなので、彼も妹と面識がある。
「妹さんに、お大事にって伝えておいてくれ」
「了解。じゃ、なんかあったらメールくれよな」
「ああ。じゃあな」
藤堂にも軽く挨拶をして、幸平にはすれ違い様、肩を叩いて「頑張れ、友よ」と彼の想いが成就する事を祈っておいた。
優太も幸平も、俺にとって大切な友人だ。彼等との関係を失うのは、惜しい。俺だって人並みに孤独を恐れ、人恋しく思う。
学校を出て、やや駆け足で帰路に着く。学校から家まで徒歩で三十分ほどだ。そもそも今の学校に進学した理由は「近いから」だった。学歴が欲しかったら大学入試で努力すれば良い。
下校中の学生がたむろって居るコンビニ。
あまり流行ってないクリーニング屋。
妙に耳に残るテーマソングを流しているスーパー。
いつも通りの道を歩く。周囲には校中の生徒や、立ち話をしている主婦らしき集団がいる。
唐突に、道行く人々を蹴り飛ばし、すれ違う人々を殴りつけてやりたくなった。意味など無いが、きっとそうしたら楽しいだろうなと思った。
もちろん実行はせず、俺は何事も無く自分の家にたどり着いた。
俺の家は住宅地――それも「高級」がつく類の――にある二階建ての一軒家だ。父親は大手企業の重役で、母親も会計士として働いている。収入の豊かさに反するように、両親が家に居る時間は短かった。
「ただいま」
「お帰りなさい、兄さん」
帰宅した俺を、妹の声が出迎えた。
妹の流花は寝巻きに上着を羽織っただけの格好でリビングのソファーに納まり、テレビを眺めていた。
兄の贔屓目を差し引いても、妹は美人だと思う。だが、それはどこか脆さ儚さを感じさせる美しさだ。触れば砕け、いずれは溶けて無くなってしまう。まるで雪の結晶のように。
「起きてて大丈夫なのか?」
「ええ。そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。いつも大げさなんです、兄さんは」
そう言って、妹は微笑んだ。
「それに、ずっと寝ていると退屈で」
流花は身体が弱い。大病を患うわけではないが、季節の変わり目になるといつも体調を崩す。本人はもう慣れっこで、体調不良よりも退屈の方が悩みのようだった。
顔色を見た限りでは、具合は悪くないようだ。冷える時期でもないし、心配は要らないだろう。
「飲み物、入れましょうか?」
「いや、自分で入れる。流花は座ってな」
カバンを置き、着替えをすると、キッチンで自分のための珈琲を入れた。家族は皆、紅茶を好むのだが、俺だけは珈琲党だった。特にブラックの、焼けるよう熱いやつが好みである。
それとは別に、妹の為にミルクティーを入れた。ミルクティーは喉に良い。今朝、少し咳をしていたのだ。
俺は妹に甘い。勇太や幸平からは、シスコンだとからかわれることもあるが、その事を恥じるつもりは無かった。妹は可愛がるものである――少なくとも、世間一般の価値基準では、虐待するより可愛がっているほうが「良い事」だとされている。
おかげで流花も良く懐いており、俺たち二人は、この年頃の兄妹にしてはかなり仲が良い。
「ありがとう。兄さん」
「いいや」
妹の隣に収まり、つけっぱなしのテレビを眺める。
テレビからは、ニュースが流れていた。どこか遠くの国で戦争をしている。でもそれはテレビの向こう側のことで、俺達の世界は今日も平和だった。
人と人が殺しあう地獄から見れば、平和な日本は楽園のように見えるだろう。
俺が生きている世界は、法と道徳によって守られている。理性によって統制し管理され、平等と秩序を是とする社会。そこで生きている俺は、きっと恵まれているのだろう。
俺はテレビを消すと、リモコンをおき、手を伸ばして妹の髪を撫でた。手触りの良い感触に、目を細める。手は髪を滑り、首筋を通り、顎の下へと向かう。
「もう、兄さん。私は猫じゃありませんよ」
妹はくすぐったそうに笑い、しかしされるがままに任せている。
ふと、その細く、綺麗な喉に指を食い込ませ、そのまま力を込めてしまいたいと思った。
人形のように整った顔を苦悶と恐怖で歪ませて、大きな瞳を涙で潤ませてやるのは、さぞかし楽しいだろう。
だが、そんなことはしない。
妹は可愛がるものだから。
「兄さん?」
不思議そうに首をかしげる妹に、なんでもないと返し、その額に軽い口づけを落とした。
妹は兄の狂気に何一つ気づくことなく、嬉しそうに笑っていた。
それからしばらく妹と共に過ごし、使った食器を片付けて部屋に戻った。部屋は暗かったが、電気はつけなかった。
俺の部屋は、やや広いことを除けばごくごく一般的な男子高校生の部屋だと言っていいだろう。そういう風に見えるように、意図的に個性を排除したのだ。強いて言えばティーン向けの小説やゲームなどのサブカルチャーが多いくらいだろう。
机に置かれていたヘッドギアを手に取る。このヘッドギアがヴァーチャル・リアリティー・ゲームという革新的な娯楽を可能としたゲームハード《ドリームマシン》である。
ベッドに寝転び、ヘッドギアを被った。ヘッドギアの脇にある電源スイッチを手探りで入れる。真っ暗な視界にスタンバイの文字が灯された。
やがてその文字も消え、ドリームマシンにセットされているゲームのタイトルが浮かび上がる。
タイトルは――《ネバー・エンディング・ストーリー》。
俺が勇太や幸平からの誘いを断り続けているのは、俺が既に《NES》プレイヤー、それもPKだからである。
彼らは俺のPK行為に良い顔をしないだろうし、迂闊に行動を共にすれば彼らにも迷惑をかけてしまう。なにしろ、俺は相当な数のプレイヤーに恨まれているのだから。
かといって、別アカウントを作って彼らとプレイするほど時間に余裕は無い。だから俺は《NES》のプレイヤーであることを、二人の友人に隠すしかなかった。
――そう、俺は友達に嘘をついてまで、殺人者であることを選択した。
殺人者と言っても、所詮はゲームの話。全ては偽りで、虚構だ。《NES》でいかなる行いをしようとも、現実のプレイヤーには傷一つ付かず、何かの罪に問われることもない。
だが、PCの向こう側には、確かに生きて、感じて、考える人間が存在する。虚構の世界であっても、そこでプレイヤーが感じた感情だけは本物なのだ。
そして、俺はPCをキルすることで、その唯一の「本物」を傷つけ、汚し、踏みにじる悪魔(PK)だった。
なぜかは解らない。家庭環境はいたって普通で、何かトラウマを持っていたりはしない。これまでの人生を振り返ってみても、自分が邪悪な心を持つ理由など思いつかなかった。
だが事実として、俺は何かを壊し、誰かを傷つけることに躊躇しない、しかもそれに意味を求めない人間だった。子供が蟻を見つけて踏み潰すように、面白半分にカエルを地面に叩きつけるように――大した理由も意味もなく、残酷な真似をする。
ただなんとなく、そうしたいと思ったから――何故かと聞かれてもわからない。嗜好とはそういうものだ。
だが、俺はそういった行為が社会で容認されないことも理解していた。教育は偉大だ。俺に倫理や道徳の意味と価値を――それに従いたいかどうかは別として――理解させたのだから。小学校の道徳の授業も馬鹿にしたものではない。
幸いなことに、俺には損得勘定が出来るくらいの理性が有った。俺がしたいと思う行為と、それによって発生するであろう問題を天秤にかけた上で、俺は「反社会的な行為をしない」という選択を取った。幼稚ないじめや、喧嘩騒ぎも起こさなかった。快楽殺人犯にありがちな、猫などの小さな生き物を殺して遊ぶ、といった行為も絶対にしなかった。そんなことをすれば、俺の社会的な立場が崩壊すると理解していたから。
その代わり――俺はゲームやアニメ、小説などサブカルチャーを耽溺するようになった。暴力描写の多いゲーム。悲劇的な展開のアニメ。猟奇的なシーンの描かれた小説。現実で実行できないことを、空想の世界で発散させていたのである。
そのなかで俺が最も好んだのがVRG、仮想の世界を体験できるゲームだった。いくつかのゲーム――格闘ゲームなど、暴力の感触を味わえるものばかり――を体験した後、俺が夢中になったのはVRMMOGだった。典型的なファンタジー型MMORPGなのだが、その自由度の高さ――特にPK、ゲーム内での殺人が許されていることに、俺は強く惹きつけられた。
全年齢対応の《NES》には血も内臓も無かったが、恐怖で顔を引きつらせるプレイヤーの感情は本物だ。人を殺すというと言う甘美な行為に、俺は魅せられた。
俺は《NES》にのめり込むようになり、リアルに支障をきたさないギリギリまでインしてPKを重ねた。PKするためにキャラを育成し、PKするために装備を整え、PKするためにプレイヤースキルを磨いた。
そして今や、俺のPCは、《NES》で最も殺し、最も憎まれているPKとなっていた。