第十一話:それでもなお
暗い夜の森を、カイムは走っていた。
闇は深く、先を見通すことなど出来はしない。おかげで枝に頬を引っかかれ、木の根に足を取られそうになる。
《暗視》スキルをとっておけば良かったと、彼女は心の片隅で後悔した。《ライティング》は駄目だ。あれは遠くからも明かりが見えてしまう。追手に自分の位置を知らせるようなものだ。
彼女は逃亡者だった。身を捻り、背後を見れば、木々の隙間から松明の炎が揺れているのが解る。彼女を追い、捕らえ、断罪しようとする者達だ。
彼女は罪人だった。罪を犯したことを悔いてはいる。だが、懺悔は彼女の死と引き換え
であり、だからこうして逃げている。
唐突に、木々が途切れた。
彼女が飛び込んだのは、広間のように開けた場所だった。そこに並ぶのは、森の動物たちなどではなく、明かりも点けずに待ち構えていた、追手の集団だった。
追い込まれた。カイムは胸中で舌打ちする。明かりを灯して、これ見よがしに捜索することで彼女の移動ルートを制限し、その終着点に罠を張る。せめて《索敵》スキルがあれば気付けたかもしれないが、生憎と習得していなかった。
――いや、彼女はおよそ「冒険者」に必要なスキルを殆ど習得していない。
仕方が無い、とカイムは悲しく決意し、手に持った槍を握りなおす。「また」人を傷つけるのは本位ではないが、捕まるわけには行かないのだ。
――だって彼女は「決闘者」なのだから。
追手の一人が、飛び出す。他の者は動こうとしない。
相手は随分と小柄だった。黒いフード付きの外套をはためかせ、短剣を引き抜き、襲い掛かってくる。
斬撃は鋭く、速い。
カイムは刃を槍でいなすと、その勢いを利用するように槍を反転させ、石突で相手の鳩尾を狙う。相手は機敏な動きで下がり、距離を取ろうとした。
すべる様に間合いを詰め、追撃。上段から袈裟懸けに、穂先で突くのではなく、柄で相手を打つように槍を振るう。
間に滑り込んだ剣で防がれるが、かまわず次の一撃を放つ。右足を、膝が胸に付くほど持ち上げ、両腕を伸ばし、頭上で槍を一回転させるようにして勢いをつけると、強烈な横の薙ぎ払いを叩き込む。
しかし――手ごたえは、無い。
カイムの視界から、少年は煙のように消え去っていた。
驚愕するカイムの耳に、ぱん、ぱん、ぱん、と乾いた拍手の音が響いた。
音の方へと視線を向け――カイムは驚愕することになる。
彼女が振りぬいた槍の上に、消えた敵が立っていた。
人ひとりが乗っているにも関わらず、槍を握るカイムの手にはまるで重みが感じられなかった。
しかしカイムの驚愕の理由は、別にある。相手の顔を覆い隠していたフードが外れていたのだ。
フードの下に隠されていたのは、カイムと同じか、もう少し年下だろう年齢の少年の顔だった。びっくりするぐらい綺麗な顔立ちをしているのだが、目つきは鋭く、口元には皮肉げな笑みが浮かんでおり、どこか斜に構えているような印象を受ける。
そして何より、少年はカイムと同じく――黒髪と黒い瞳を備えていた。
「君は……」
彼女の口から発せられた声は、自分でも驚くくらいにひび割れていた。逃亡生活は既に三日。その間水も食事も与えられなかったのだ。既に体は鉛のように重く、意識も霞がかかったようで、しかも酷い頭痛がした。
「そう、日本人だ。お前と同じく、な」
彼女の声になら無い問いに、少年は肯定を返した。彼はカイムと同じく《NES》のプレイヤーであり、この世界に迷いこんだ異邦人なのである。
「試すような真似をして悪かったな。アンタが日本人か調べるには、腕前を試すのが一番良い――俺の名はソラト。NPKのソラト。聞いたことがあるだろう?」
ひらりと地面に飛び降りて、少年は名乗る。
ソラト。《NES》に知らぬものなど居ない、凶悪なPKの名前である。幸いにもカイムはゲームで遭遇することはなかったが、その恐ろしさは聞き及んでいる。残忍で狡猾な、悪魔のようなプレイヤーだと。
もちろん、それはゲームの話であり、実際の彼がどのような人格の持ち主かは解らない。だが、PKを繰り返し、多くの人を傷つけていた男であることは間違いないのだ。
そこまで考えて、カイムは笑い出しそうになった。彼がPKだからといって、色眼鏡で見るなんて可笑しな話だ――だって彼女は、本当の人殺しなのだから。
「……宮本つぐみ。《NES》ではカイムという名前だった」
素直に名乗りを返したのは、相手が同郷と知った嬉しさと――もとより、彼女はこの逃走を望んでいないからだった。話し合いで解決する、などとは思えないが、それでも争いを避けたい気持ちはある。
カイムの答えに、少年は涼やかな口笛を吹いた。
「これはこれは……『黄金宮』のチャンピオン殿とは。会えて嬉しいぜ」
『黄金宮』は《NES》にいくつか存在する闘技場の一つである。闘技場ではPvP――プレイヤー同士の『合意の上での』戦闘が行われ、その優劣を競う。
そしてカイムは『黄金宮』の王座に君臨していたPCの名だった。
少年は短剣を握ったまま両手を広げ、口を開く。
「さて、さて、カイム。単刀直入に行こう。俺と共に来る気は無いか?」
「何?」
その問いに、カイムは眉をひそめた。
「俺達は追手じゃない。アンタを保護しに来たんだよ、カイム。俺の部下になれ。そうすれば、もう何も心配は要らない。子爵の手から、俺がお前を守ってやろう」
「保護、だって……?」
正直に言えば、このときカイムの心は歓喜に包まれていた。誰一人として味方の居ない、明るい未来が見えない逃走劇を演じていた彼女にとって「味方」と言う存在、それも同郷の少年は、涙が出るほど嬉しいものだった。
しかし、
「……君は、私が何故追われているのか、知っているのか?」
「ああ」
カイムの問いに、少年は頷いた。
「アンタを犯そうとした挙句、世話になってた老夫婦をぶっ殺した阿呆に復讐したんだろ?」
カイムはこの世界に来てすぐに、親切な老夫婦に保護された。彼らは決して裕福で無いにもかかわらず、カイムを自分達の家に住まわせ、衣類と食べ物を与えてくれた。カイムは彼らに深く感謝し、彼らもカイムをまるで孫のように可愛がってくれた。
その全てをぶち壊しにしたのが、領主の息子だった。彼は珍しい異国の娘であるカイムに関心を持ち、強引に己のものにしようとしたのである。
カイムは襲い掛かってきた領主の息子を返り討ちにしたが、命までは奪わなかった。たとえ相手が悪人であろうと、人の命を奪うことに――彼女は躊躇した。
それが失敗だった。
逆恨みした領主の息子は、彼女ではなく、彼女に近しいものを標的にした。カイムが居ない間に老夫婦の家に押し入り、二人を殺害したのである。
カイムは嘆き、悲しみ――そして怒り狂った。彼女は領主の館へと向かうと、屋敷を守っていた兵士達を蹴散らして、領主の息子に復讐した。命乞いする男の手足を切り飛ばし、最後に首を撥ねた。
「そして捕まえにきた騎士団を半壊させて逃走、今に至るっと」
事の結末を口にして、ソラトが肩をすくめる。
カイムが復讐を終えた後、大慌てで駆けつけてきた騎士団は、彼女を拘束しようとした。
彼らにとって不幸だったのは、彼らの実力では到底カイムに敵わなかったこと。しかしカイムが手加減して――つまり殺さずに勝つ事が出来ないくらいには強かったこと。
主君の息子を殺したカイムを、騎士団は見逃すことは出来なかった。おめおめ見逃したとなれば、騎士の恥。なにより、主君である子爵に処刑されかねない。
だから負けると解っていても――死ぬと解っていても、カイムに挑むしかなかった。
カイムは彼らを返り討ちにした。
カイムは彼らを切り殺した。
切って切って、切り続け――まだ少年である従者が、泣きながら特攻してくるのも、カイムは容赦なく切り伏せた。
騎士団の半数以上、百を越える数の人間を殺し、その包囲を突破して――カイムは逃げ出した。
「そこまで知っているなら、何故私を助けようとする?」
虚ろな声で、カイムは少年に尋ねた。
「私は、罪を犯したんだ」
領主の息子の行いは、咎められてしかるべきだ。しかしそれは正当な法律と手続きによって行われるべきことである。
にもかかわらず、カイムは怒りに任せて復讐した。それは彼女が自らの手で報いを与えねば気がすまなかったからだし――貴族である領主の子が、平民の老夫婦を殺めても、まず罪に問われることは無いと知ったからだった。
自分を助けてくれた、あの優しい老夫婦を殺したあの男が、何の罰も受けないなど、認めることは出来なかった。カイムは今でも、領主の息子を殺したことに関しては、何一つ恥じるつもりは無い。
逆に言えば――カイムが己の保身のため、罪なき騎士たちを殺したことは、許されない咎なのだと理解していた。
彼らは彼らの法と良心に従って行動しただけだ。それが例え、カイムにとって都合の悪いことであっても――正義は彼らにあった。
それをカイムは無残に切り殺した。彼らにも愛する人がいて、彼らを愛する人が居るにも関わらず。
彼らの家族や友人にとって――自分は憎むべき敵であり、裁かれるべき罪人なのだ。
誰も彼女を許さない。誰も彼女を救わない。
自分は、誰かに味方をしてもらえるような人間ではないのだ。
「そうだな。理由はどうであれ、お前は人を殺した。領主の馬鹿息子はともかく、騎士団の連中は、この国の法律に従い、罪人であるお前を捕らえようとしただけで、何の咎もなかった。それをお前は殺した。文句なしの人殺しだ。お前が、お前の大切な人々を奪った敵の死を望んだように――お前に大切な人々を奪われた者たちは、お前の死を望むだろうな」
少年の嘲るような口調が、カイムの心を抉り、痛めつけた。
「そうだ、だから――」
「だから、なんだってんだ?」
カイムは俯けていた顔を上げ、呆けたように少年の顔を見つめた。
少年はにやりと、口の端を吊り上げるような、皮肉げな笑みを浮かべた。
「お前は殺人が罪だと知り、それでもなお人を殺した。お前は罪を犯してでも、叶えたい望みがあった――人を殺すことは罪だ。それは認めよう。でもな、罪を犯すという選択肢そのものは、誰にも奪うことは出来やしない」
身を振り、手を振り、歌うように朗々と。群集を前にした独裁者のように、あるいは信者を前にした聖職者のように、少年は言葉をつむぐ。
「罪だと知って、悪だと知って、それでもなお罪を犯し、悪を行うという選択肢が――人には与えられているんだぜ?」
カイムは頭が真っ白になった。
彼の言っている事が解らないのではない。彼の言っている事をカイムは理解してしまった――それを受け入れようと、受け入れたいと思っている自分を、自覚してしまった。
「お前を恨むものは居るだろう。お前を憎むものは居るだろう――だがお前は選んだんだ。他者を踏みつけ、世界に背を向け、それでも己を通す事を選んだんだ。ならばもう、貫くしかあるまい?」
少年は、いたずらっぽく微笑んだ。
「あ、あ、あ、あ……」
カイムの口からは言葉になら無い声が、瞳からは涙が零れ落ちる。
彼女の心は、『自分は間違っていない』と言う思いと、『自分は罪を犯した』という認識に挟まれ、軋みを上げていた。
そこに、ソラトの「悪と知り、『それでもなお』悪を行う」という、開き直りにも似た美学は、乾き、ささくれ立った彼女の心に、深く深くしみこんだ。その劇毒のような言葉はカイムを揺さぶり、彼女を構成していた「なにか」を壊し、作り変えていった。彼女が信じ、そして苦しめられていた価値観が、音を立てて崩れていく。
「さあ、その上で問うぜ? もっと生きたくは無いか? 罪に罪を重ねて、悪に悪を積み上げて――『それでもなお』生きることを、お前は望むか?」
私は罪を犯した。
私は許されない。
それでも、
「いき、たい……」
カイムの喉から、悲痛な叫びが漏れた。例え世界の誰もがカイムの死を望んでも、それでも彼女は生きていたかった。
「私は…生きたい……生きていたい……」
「いいだろう」
救いを求める声に、悪魔は手を差し伸べた。
「カイム、俺と共に来い。俺にモノになれ。そうすれば――俺がお前を救ってやる」
少年の顔は、契約の代償として、魂を求める悪魔のように、暗い愉悦に歪んでいた。
このとき、カイムの心には、今だ迷いがあった。
自分はこの手を取って良いのか?
罪人である自分が救い求めていいのか?
やはり自分は裁きを受けるべきなのではないか?
迷い、惑い、しかしカイムは少年の瞳を見てしまった。
少年の瞳に渦巻くのは、煉獄の炎のような悪意。
そして、その奥底に揺らめく――狂おしいほどの渇望。
――ああ。
カイムは理解してしまった。
彼は悪魔だ。
生きとし生けるもの全ての敵であり――それゆえに誰にも理解されず、誰にも愛されず、誰にも許されない。
だから彼は求め、渇望する。己を求め、己を肯定し、己に付き従うものを。人を誘惑し、堕落させ――地獄の底に、己の傍に繋ぎとめる。
――彼は救いを求めている。
それを知ってしまえば、カイムはもう戻れない。
自分の為だけであったら、彼女は己の生を諦めてしまったかもしれない。
だがここに、彼女を望むものが居る。
己を救った者が、救いを求めているのだ。彼女は自らの全てを差し出してでも、彼を救わなければならない。
「ああ」
だからカイムは差し出された手を取った。
「私が君を守る。私が君を支える。私が君の傍に居る。君がどれほど悪辣で罪深い行為に手を染めても――私は君の味方でいる」
だからもう、大丈夫だよ。
声には出さず、少年に語りかける。
カイムの微笑みに、少年は面を喰らったような顔をして……ぷいと顔を背けた。
「……当たり前だ。お前はもう、俺のモノなんだからな」
それが可愛くて、カイムはクスクスと笑った。
彼自身、己の願望に気づいてないだろう。彼は己の弱さを受け入れられるタイプには見えない。
自分は独りで生きられると嘯き、やがては孤独に押しつぶされ、
――そのとき彼は、本当の悪魔になるだろう。
「造反?」
「はい」
カイムを連れて戻った俺は、彼女を連れてアルクスに戻った。子爵がまだ彼女を探しているが――あまり気にすることも無いだろう。私兵である騎士団は半壊しており、カイムを捕らえる、あるいは始末する事など不可能だ。
それに対面というものがある。女ひとりに跡継ぎを殺され、騎士団を壊滅させられ、子爵の面子は既にズタズタだ。これ以上の恥を晒すより、適当な奴を犯人に仕立て上げて処刑することを選ぶだろう。
逃亡生活を続けていたカイムはかなり憔悴していた。水と食事、そして俺が調合したポーションによって大分回復したが、それでも回復には多少の時間がかかるだろう。
自室に戻った俺は、アルクスを離れている間の報告をエレンに求め――「造反の気配あり」の報を聞かされたのだ。
「元《鬼蜘蛛》の者たちが、ソラト様への不満を口にすることが多くなりました。アルクス出身者にも、賛同する声が少なく無いようです」
俺の裸の胸に手を添え、耳元に唇を寄せながら、エレンが続ける。報告は寝台の上で、交わりながら行われていた。既に一度目を済ませ、彼女の呼吸は乱れていたが、報告に支障は無かった。
俺が始めた商売は、どれも人を――それも主に平民を食いものにすることで成り立っている。彼らの殆どが豊かでない、あるいは貧しい生活を強いられている者たちである。俺はそこから更に搾取することで懐を潤しているわけだ。
そのことに、同じく平民であり、貧しい生活をしていた者たちが不満を抱いたのだ。俺の手下は盗賊だのごろつきだの、他人を食いものにしてきた者ばかりではあるが――彼らの中にはアルクスに、つまり俺が搾取している者たちに知人や友人、家族を持つ者だって居る。不満がたまるのも当然だろう。
特に《鬼蜘蛛》は食い詰めた農民が集まった盗賊団だ。彼らと同じように苦しんでいる者達を、更に苦しめる俺のやり口が気に入らないようだ。
やれやれだ。俺は内心で呆れる。彼らがそんな「おめでたい」ことを考える余裕があるのも、俺に使われることによって自分の飯を心配しなくて良くなったからだ。自分達だって飢えている間は盗賊なんてやってたくせに、腹が膨れた途端に善人面したがる。まったく愚かな連中だ。
「いかがなさいますか?」
裸身をシーツで隠しながら、エレンが尋ねてくる。
どうしようもない阿呆どもだが、それでも今は貴重な労働力だ。離反を許すわけには行かないし、かといって始末するというわけにもいかない。数を減らしては意味が無いからだ。
それに、そろそろ更なる勢力拡大のために動くべきだ。アルクスだけでなく、このバスカヴィル領を、ルイゼンラートという国を支配するためには、もっともっと力が必要だ。
頭の中でやるべきことを並べながら、俺はエレンに手を伸ばした。シーツを剥ぎ取り、細い腰を抱き寄せると、形の良い胸の先端を口に含む。
「あ、んん……」
僕を喘がせながら、俺は策を練り始めた。