第十話:異郷の知識
ゴドフリー・ゴールドバーグは不機嫌だった。
それは最近雇ったばかりの使用人の一人が金目のものを盗んで逃げ出したからであり、部下が仕事でミスをして大事な商談が一つ駄目になったからだった。挙句の果てには、隣の領地で領主の息子を殺した輩を探しているとかで街道が封鎖され、今日届くはずだった商品が届かないという自体まで発生した。
なにより忌々しいのは、最近、彼が経営するいくつもの店舗にごろつき達が「用心棒代」と称して金をせびりに来るようになったことだ。被害にあってるのは彼だけではなく、アルクス中の商人が迷惑をこうむっている。
まあ、それはもうじき解決する。己の屋敷へと向かう馬車の中で、ゴドフリーは暗い笑みを浮かべた。暗殺ギルド《バグウェルの短剣と外套》にごろつき共を取りまとめている、ソラトとか言う男の始末を依頼したのだ。所詮はチンピラに毛が生えたような集団だ。頭をやられれば直ぐに瓦解するだろう。
暗殺と言う手段を使うことに、難色を示す者もたくさん居た。しかしアルクス一番の商人であり、商人ギルドでも筆頭の地位にあるゴドフリーが音頭を取ったことにより、決行されることになったのである。
商売の邪魔になるものは、どんな手を使ってでも排除しなければならない。金のためなら何でもやる。それがゴドフリーの美学であったし、それに忠実だったからこそ、彼は国内有数の大商人になることが出来たのだ。
馬車が止まり、使用人が扉を開ける。護衛と使用人を引き連れたゴドフリーは屋敷へと戻った。
「よう。邪魔してるぜ」
──玄関ホールへと足を踏み入れた彼が見たものは、使用人たちの出迎えではなく、我が物顔で寛ぐ、見知らぬ少年の姿だった。少年の周囲にはならず者風の男たちが十名ほどおり、屋敷の使用人たちに武器を突きつけている。
彼らの中心では、ゴドフリーの娘が裸で床に四つん這いにさせられ、その背中に少年が腰掛けていた。少年の上半身は裸で、肩に外套を引っ掛けているだけだ。下には黒い、動物の毛皮を使ったズボンを身につけ、腰には短剣が下がっている。
娘の首には犬にするような、鎖のついた首輪がはめられ、少年の手に握られていて。重みに必死で耐えているのか、娘は生まれたての小鹿のように震えている。顔は苦痛と恥辱で朱に染まり、頬には涙が流れていた。
そして――その太ももの間からは、白濁した液体が滴り落ちていた。床に落ちた液体には、赤いものも混じっている。
椅子が徐々に低くなっていくのが気に入らなかったのか、少年が平手で娘の尻を叩いた。高らかに音が響き、娘は悲鳴を上げる。
それを見た瞬間、ゴドフリーの中で何かがはじけた。
「ルドルフ! サイモン!」
主人の命に答え、護衛の二人が剣を引き抜き、飛び出す。
ルドルフとサイモンは、二百勝以上の戦績を誇る元剣闘奴隷である。チンピラが何人集まろうと相手ではない。二人の護衛は主人の敵を排除すべく、少年に切りかかった。
迫りくる刃に怯える様子もなく、少年は悠然と立ち上がり――次の瞬間、二人の護衛は文字通りのバラバラになった。飛び散る血と肉片に、娘の口から甲高い悲鳴が上がる。それでも四つん這いの体制を止めないのは、少年に何をされるか解らないという恐怖からだろう。
――な、なんだ今のは!?
少年の手には、いつの間にか短剣が握られていた。それで護衛を切り刻んだのだろうが――到底人間業ではない。ゴドフリー己が見たものが信じられなかった。
「ジェイク」
「うっす」
驚愕に目を見開いていたゴドフリーを、彼の一番近くに居たならず者が殴りつけた。ゴドフリーの視界に火花が散り、殴られた頬が火を押し付けたように熱くなる。ならずものは更に二回、三回とゴドフリーを殴りつけると、腕を掴んで捻り上げ、地面にひざまづかせた。
「さて、ゴドフリー君」
再び娘の背中に腰を下ろしながら、少年は口を開いた。
「初めに自己紹介をしておこうか。俺がソラトだ」
名乗るだけで充分と言わんばかり。だが確かにそれで充分だった。つい先日、ゴドフリーが暗殺を命じた男の名前である。
驚くべきことに、アルクス中の商人を悩ませる悪党の首魁は、まだ子供と呼ぶべき年齢のようにしか見えなかった。
まず印象に残るのは、艶やかな黒い髪と、同色の瞳。濃紺など「黒に近い色」ならともかく、少年のような「完全な黒」を備えた人間というものを、ゴドフリーは見たことが無い。美しくも幼さを残す顔立ちと相まって、どこかエキゾチックかつ神秘的な魅力を醸し出している。
だがこの少年を見て好感を覚える者は皆無に違いない。目つきや顔つき、振る舞いの一つ一つがどこかおぞましく、見る者全てに畏怖と生理的な嫌悪感を抱かせるのである。
ゴドフリーは歴戦の商人だ。それこそ妖魔の類かと思うような同業者を相手に、生き馬の目を抜くような商売をして、そして成功させてきた。度胸だけなら騎士や傭兵にも負けない自信がある。
だが、この少年を前にすると、まるで全身を蛇や蜘蛛が這い回っているかのような、恐怖と不快感が襲ってくるのであった。
「ゴドフリー、俺が今日来たのはな、お前に見せたいものがあるからだ」
少年が手を振ると、控えていた男が頭陀袋を開き、逆さまにした。中身が床に落ちて、転がる。
「ひっ……」
出てきたものを見て、ゴドフリーの喉から引きつった声が漏れる。
それは一抱えほどの、歪に丸い物体だった――人の生首である。
「こ、これは……」
「馬鹿の末路といったところかな」
巌のような顔つきから、生前は屈強な男だったろうことが伺える。しかし、果たしてどんな恐ろしい目にあったのか、胴体をなくした男の顔は、今にも叫びだしそうな形相をしていた。
これが何なのか考えるまでも無い。《バグウェルの短剣と外套》が送り込んだ刺客だ。暗殺は失敗したのである。そして、この少年は依頼者である自分に報復に来たのだ。
「俺は俺に逆らう者を許さない主義でね。必ずそれ相応の報いを与えることにしているんだ」
彼の推測を裏付けるかのように、少年は言う。
ゴドフリーは恐怖した。このまでは殺される。いや、果たして殺されるだけで済むだろうか。あの生首が浮かべる凶相を見れば、死ぬ直前までいたぶられ、苦しめられていのだと解る。自分の末路を想像し、ゴドフリーの心臓は凍りついた。
「が、俺は柔軟な思考を大切にしたいと思っている。それ相応の誠意を示してくれると言うのなら、主義を曲げるのもやぶさかじゃあないな」
にやにやと笑う少年の言葉に、ゴドフリーは縋るしかなかった。
「わ、わかった! 私が悪かった! 依頼は取り消す! 取り消すから――」
「ジェイク」
「うっす」
少年に命じられ、ゴドフリーを押さえつけていた男が彼の髪を掴み、顔を床に叩き付けた。脳の奥まで響くような激痛が走り、一瞬、視界が赤黒く染まった。
「それは当たり前の事だろう? 俺は誠意を示せと言ったんだ――何ならお前が受ける予定の報いってのがどんなものか、詳しく解説してやろうか?」
少年は言いながら、娘の尻をぺたぺたと叩いた。
「実演を踏まえて、な」
ゴドフリーはどうすれば少年の怒りを静められるかと、必死に頭を回転させた。わざわざ屋敷に来て「誠意を見せろ」などと脅迫しているのだ。彼には欲しいものがある。そして、自分は商人であり、金を持っている。つまり、少年は自分に慰謝料を払わせようとしているのだろう。ゴドフリーはそう推測した。
「……金なら払う」
「いくら?」
少年が尋ねてくる。暴力が振るわれることはなかった。どうやら正解のようだ。
「き、金貨百枚」
「ほう、それがお前の命の値段か?」
ゴドフリーの提示した額を、少年は鼻で笑った。金貨百枚は大金だ。一生生活には困らない額である。それでも足りないとは、いったい幾ら支払えというのか。
口ごもるゴドフリーに、少年は悪辣な笑みを浮かべた。
「二十万だ。金貨二十万枚」
「に、にじゅうまん……」
少年が示した額に、ゴドフリーは思わず状況を忘れて激怒した。
「ふざけるな! そんな額が払えるか!」
「てめぇ! 旦那になんて口を聞きやがる!」
ゴドフリーは再び顔を床に叩きつけられた。だが屈するわけにはいかない。少年の要求はとても呑めるものではないのだ。二度、三度と床に叩きつけられるのに、ゴドフリーは歯を食いしばって耐えた。
実のところ、金貨二十万枚というのは払えないわけではない。払えないわけではないが、それはゴドフリーの財産をほぼ全て差し出すということだ。
それは断じて認められない。命は惜しいが、金はゴドフリーの全てなのだ。金がなければ死んだも同然である。
ゴドフリーが一通り痛めつけられるのを待ってから、少年は口を開いた。
「まあそう焦るな、ゴドフリー。何も今すぐ全額払えと言うわけじゃあないし、無条件で寄越せってわけでもないんだ」
そう言って、少年はにやりと笑う。ひょっとしてゴドフリーを安心させるための笑みだったのかもしれないが、もしそうだとしたら全く効果がなかった。少年の笑みが、まるで商人がカモを見つけたときのような、黒い黒い笑みだったからである。
「お前には俺に投資して欲しいのさ」
「ど、どういう意味だ」
要求の意味が解らず、ゴドフリーは問い返した。
「見ろ」
少年の返答は、その懐から取り出された紙束だった。拘束を解かれたゴドフリーは、床に投げられたそれに、恐る恐る手を伸ばす。
目を通して、ゴドフリーは絶句した。
二つの車輪をペダルで回して走る乗り物。構造の説明と、簡単な図解まで載っている。他にも折りたためるナイフやら、黒鉛を木で挟んだ筆記具やら、独創的な『商品』がずらりと並んでいた。どれも大雑把な概念が記されているだけだが、それだけでもかなりの価値があると、ゴドフリーの中にある、商人としての部分が訴えかけていた。
「そいつをくれてやる。代わりにお前は、俺の望むものを手に入れて来い」
巨万の富を生み出しかねない「商品」をこれほど思いつき、しかもそれを平然と投げ与える少年は、そうゴドフリーに持ちかけてきた。
「なあ、ゴドフリー。俺はこのちっぽけな街で満足するつもりなんてさらさら無いんだよ。もっともっと楽しみたい。この世界を、滅茶苦茶に引っ掻き回して遊びたい」
少年の浮かべた表情を見て、ゴドフリーは身を震わせた。
彼は商人だ。欲望にまみれた顔などいくらでも見てきた。
だが、少年が浮かべるのは、人間の表情ではなかった。破滅と混沌を望む、悪魔の笑みだった。
「そして、世の中が滅茶苦茶になる時ってのは、大儲けする好機でもあるだろう?」
悪魔はゴドフリーの内心を気にかけた様子もなく、話を続ける。
彼の言葉は正しい。戦争や貧困、疫病ですら上手く立ち回れば儲け話に早変わりする――いち早く予期し、準備を整え、それに加えて運が良ければの話ではあるが。
「お前が金を出す。俺はその金で世の中をかき回す。俺がかき回した世の中で、お前が金を儲ける。良い考えだと思わないか?」
ゴドフリーの喉から、うなり声が漏れた。
到底応じられるものではない。何しろ彼が何者で、何をしようとしてるのか、具体的な事は何もわからないのだ。そんな相手に投資するなど金をドブに投げ捨てるのも同然である。
だが、この男は本気だ。目を見れば解る。まるで直接地獄に繋がっているかのような、深く暗い瞳は、地獄の炎を映してギラギラとした輝きを放っていた。
――成功するかしないかは別として、何かとんでもない事を起こそうとしているのは事実だろう。それを利用して儲けることは不可能ではないのでは?
少年に与えられた紙束だけでも、彼に投資する価値はある。いや、まだまだ他にも商売の種を隠していると考えるべきだ。だったらむしろ、進んで縁を繋いでおくべきかもしれない。
それに、彼は今すぐ払う必要は無いと言った。つまり彼は「これから起こす何か」のために金が欲しいのであって、必要に応じてゴドフリーに出させるつもりなのである。つまり、もし安く上がれば金貨二十万枚も払わなくて良いかもしれないし――途中でこの男が死ねばそれ以上払わなくて済む。
少年が何を企んでいるかはわからないが――いや、別に何だっていいのだ。どんな災厄だって、上手く立ち回れば金になるのだから。
どうせこのままでは殺されるのだ。だったらここは一つ、一世一代の大博打を打つべきではないか?
深く長い思考の後、ゴドフリーは決心した。
「解りました、ソラト殿。過ぎたことは水に流し、今後はお互いに良い関係を――」
口上の途中で、すたすたと近づいてきた少年の靴底が、ゴドフリーの顔に叩き込まれた。
「誰がお前と仲良くしたいといった? ゴドフリー。俺はな、死か服従か、どちらかを選べと言ってるんだ」
ぐりぐりとゴドフリーの顔を踏みにじりながら、少年は嗤う。
「が、俺はちゃんと部下に報いる男でもある。お前がちゃんと俺の役に立てば、お前の財産は何倍にもなるだろうよ」
靴の下から、ゴドフリーはくぐもった声を返す。
「し、失礼いたしました、ソラト様。このゴドフリーめを、貴方の下僕にお加えください」
「いいだろう。精々励めよ」
ゴドフリーはそのまま地面に這い蹲り、己の主に頭を下げ続けた。
プライドなど居らない。自分がやるべきことは、この人の形をした災厄を利用して、何とか利益をひねり出すことだ。
金のためなら何でもやる。それがゴドフリーの美学であったし、それに忠実だったからこそ、彼は国内有数の大商人になることが出来たのだ。
「じゃあ、まずこれ貰っていくぞ」
言って、主はまた娘の尻を叩いた。ゴドフリーは躊躇なく頷いた。どうせ娘はどこかの貴族か豪商に嫁がせるための道具でしかない。ただその相手が世紀の悪党になるだけだ。
「ああ、それと」
娘を繋いだ鎖を引きながら、主はふと思いついたように尋ねる。
「お前、日本人に心当たりないか?」
「日本人、ですか?」
「そう、日本人。あるいはプレイヤーと呼ばれる人間だ。武芸や魔法、あるいは何らかの技能に優れている場合が多い。常識はずれなぐらいにだ。特長としては、俺のように黒い髪と黒い眼を持っている。例外的に別な色をしている奴も居るし、染めている奴も居るから、目安にしかならんが」
あいにく、日本人なる人々に心当たりはなかった。優れた能力を持つ人間はいくらか知っているが、その殆どの生まれはハッキリしているし、黒髪黒目など今日始めてみた。
しかし――ゴドフリーの脳裏に浮かび上がってきたのは、隣の領地で領主の息子が殺されたと言う話だった。
話によると、その下手人は確か――
周囲を警戒していたシュトリと合流した俺は、ゴドフリーの用意した馬車に揺られていた。あの男は俺に媚びへつらってお零れに預かるという、きわめて賢い道を選んだようだ。
――いや、正確には賢いと思っている道、あるいは賢いと思わされている道、だろうか。
まず命の危機に晒され、次にとんでもない額を吹っかけられ、あの男は完全に冷静さを失っていた。そこに別な道を――それもひょとしたら自分にも利益があるかもしれないという道を示されたものだから、思わず飛びついてしまったのだ。それが「賢い道」だと自分に言い聞かせて。
もちろん、そんな経緯で仲間に加わったゴドフリーに、忠誠は期待できない。しかし奴は商人だ。俺の示した「価値」が翳らぬ限り、俺を裏切る事は無い。
俺がゴドフリーに渡したのは、向こうの知識のうち、こちらで金になりそうなものを纏めたリストである。自分で商売を始めても良かったのだが、商売を軌道に乗せるには手間も時間も掛かる。俺はあくまで「楽しみたい」のであり、金のためにあくせく働く気は無かった。ならば有効活用できる奴に渡して、その利益を吸い上げればいい。
「ねーねーソラト。あのオッサン、最後まで気がつかなかった?」
「ああ」
俺の隣に収まったシュトリが尋ねてくる。シュトリが言っているのは、俺が奴の前に出した首のことだ。あの首は暗殺者のものでもなんでもない。俺の定めたショバ代を勝手に値上げして、差額を着服していた手下の首である。
イザベラをギルドに潜り込ませたことによって、暗殺ギルドに依頼が出されたこと、出したのがゴドフリーであることは解ったが、この手の依頼は金さえ払われてしまえば依頼主が死んでも実行されるものだし、刺客を返り討ちにしても別の誰かが送られてくるだけだ。だからゴドフリーには、自分の意思で依頼を取り下げてもらわねばならなかったのである。
だから適当な死体をこれ見よがしに見せ付け、暗殺ギルドの刺客でも敵わないと誤認させたのだ。暗殺の依頼なんて間に何人も人を挟むだろうし、実行役の顔なぞ知らないだろうとは思っていたが……こうも簡単に騙されてくれるとは。護衛が切りかかって来てくれたおかげで、俺の力を見せる機会が生じ、説得力を持たせることが出来たのも良かったのだろう。
「ね、ソラト。次はどんな悪いことすんの?」
シュトリが俺の腕に絡みつきながら、それはそれは楽しそうに尋ねてくる。彼女の腰に手を回しながら、俺は口を開いた。
「明日の予定はハイキングだ」
「……え?」
目を瞬かせるシュトリに、俺はにたりと笑みを浮かべた。
「このバスカヴィル伯爵領の隣は、ヴィロー子爵領って土地なんだがな。つい昨日、そこのドラ息子が殺された。子爵の騎士団が直ぐに犯人を捕まえるようとしたが、百人以上を返り討ちにして逃げ遂せたらしい」
俺の言いたいことを察したシュトリが、目を見開く。
「それって……」
「そうだ」
俺は頷き、口の端を吊り上げた。
「その下手人ってのは、プレイヤーである可能性が高い。明日から山狩りだ。そいつをとっ捕まえて、俺の前に跪かせろ」