第三話 午後
七つの鍵の物語 -祝祭日- 第三話
3
「♪」
清掃と訓練を終えた蜂蜜色の髪の少女、イスカは、歌を口ずさみながら、スケッチブックに絵を描いていた。
小さな手で赤や黒や様々なクレヨンを握り、白い画用紙に塗りつけてゆく。
悪いことをしたと、灰色熊のぬいぐるみ、ベルゲルミルは後悔した。休日の昼ともなれば、いつもなら放っておいても、公園や買い物に行こうとあの男が連れ出したことだろう。
「ン……」
なかなか思い通りに描けないらしく、イスカは描いては破り、描いては破りを繰り返していた。
「……」
ベルゲルミルは、箪笥の上に置かれたリボンの包みを見て、浅く息を吐く。
時計に目を移せば、正午はとうに回っていた。イスカが昼食にと張りきって焼いたパンケーキは、テーブルの上で冷めていた。
「イスカ。そろそろ食事にしませんか」
「ベル。きょうは、おやすみだから、パパといっしょに食べよ?」
イスカは父親が帰ってくるものと信じていた。だって今日は休日で、お祭りの日なのだから。
(ですが……)
それはないだろうと、ベルゲルミルは考える。ああまで言えば、確実にあの男はヘソを曲げる。今頃は自分がいないことをこれ幸いと、小洒落たレストランでナンパした女を相手に食事しているか、その手の宿でご休憩の真っ最中だろう。
「イスカ。体調の管理も訓練のうちだと教えられませんでしたか?」
「……ン」
納得のゆく絵を描きあげられたのか、イスカは渋々といった表情で手を洗い、テーブルに向かった。食前の祈りを捧げ、ベルゲルミルと彼女の盟約者は二人きりの食事をはじめる。でも、フライパンを振って作っているときに比べ、食べる姿はちっとも楽しそうに見えなかった。
もそもそと味気の無い食事を終えて、イスカは絵本を読み始めた。ニーダルがせがまれるままに毎夜御伽噺を聞かせたせいか、彼女は物語を好んだ。
最近は勉強も進んで、父親が買い出しのついでに買ってくる、おひめさまやおばけの活躍する本も、一人で読めるようになっていた。そして、今日、イスカが手にした絵本は――。
「創世神話…」
それは千年の昔、神話の時代の物語。
邪悪なる一人の魔女が、全ての願いを叶える世界樹に至ろうと、魔物の軍勢を率いて神々に挑みました。魔女は、門の鍵たる七つの神器のひとつ、呪われた槍を手にして、神を殺し、人を殺し、妖精を殺し、遂には、9つあった大陸のうち8つを海に沈めました。
多くの人や動物が空飛ぶ船に逃れたものの、残された大陸はひとつ。もう誰も魔女を止められないと、人々は嘆き、祈り、……絶望しました。
けれど、諦めない者がいました。
ひとりの勇者が、魔女の持つ呪われた槍と同じ、虹の門を開く七つの神器のひとつ、炎の神剣を妖精の女王から授かって、世界を救うために立ち上がったのです。勇者は戦いました。戦って戦って、万億の魔物の軍勢を打ち破り、遂には神剣で呪われた槍を打ち砕き、魔女の胸を貫きました。人々の希望と絶望を背負った二人は炎に包まれて、……この世界から消えてしまいました。
(母様……)
イスカがめくるページを、ベルゲルミルは沈痛な表情で眺める。
これが神焉戦争<ラグナロク>と呼ばれる創世の戦いだと、現代には伝えられていた。
西部連邦人民共和国では、名も無き勇者こそはパラディース教団の加護を受けた聖戦士であり、彼の盟友であった共和国『国父』ゲオルク・シュバイツァーと教団は、その後の世界を託されたのだ、と大々的に報じ、国民に教育していた。
「イスカ。この絵本は、嘘です」
「うん。パパもいってた。”こんなむかしに、教団はねーよ”って」
「イスカは、その絵本が好きなのですか?」
「ン! だって、ゆうしゃさまって、パパに似てるから」
「……」
蒼い瞳を柔らかく細めて、ページを繰る己の盟約者を、ベルゲルミルは陶器でできた奥歯を噛み合わせ、複雑な表情で見つめていた。
□
「く、このっ」
ヒュンヒュンヒュン。
風を裂き、音を立てて繰り出されるクラウディオの細剣は、しかし、ニーダルの紅い外套を掠めることさえなかった。
汗で目にからみつく黄褐色の髪を手櫛で撫でつけ、投棄された不法廃棄物の間を、灰色の上着で駆けずり回る。
一方のニーダルは、紐で縛った黒い長髪を振り回しながら、三日月十文字槍を手に、器用に受けて受けて受け流し続けた。
剣と槍が奏でる剣戟を伴奏に、足場の悪さをものともせず、生ゴミや粗大ゴミのぶちまけられたスラムをひょいとひょいと渡ってゆく。
「この私が、こんな無様なダンスを踊ることになるなんて」
「フハハハハ。修業が足りないぞォ」
息をきらせるクラウディオに見せつけるように、ニーダルは跳躍、無駄に三回転ひねりを加えて着地する。
「そぅ、男たるものォ、いついかなる時でもスタァイリッシュ!!」
が、足元には、なぜかバーナの皮が落ちていた。
「ぐはっ」
「あ、阿呆だ」
「バーナの皮を踏んで転ぶ方って、初めてみましたよ」
いつの間にか再びヒトガタに戻ったロティが、汚物に頭から突っ込んだニーダルを見て、淡紅色の瞳をまるまると見開いた。
「ね、ね。マスター。これって貴重な経験ですよね」
「貴重なのか、これ……」
「ふふ。わかっちゃいないなァ。たとえゴミの山に倒れようと、人には、辿り着くべき境地が、素晴らしい風景がある。俺は、今、それを得たッ」
ゴミの上で、イイ笑顔で親指を立てて微笑むニーダルの視線は、ロティのスカート下から伸びた素足へと向いていた。だから、ロティは踏んだ。
「あ~、あ~、目がぁ~目がぁ~っ」
「ストッキングを、いえ、ハイヒールを履いておくべきでした」
再び、糸が解けるように、濃紺のスーツに身を包んだ女性はフロッティに変化する。
細剣を手にしたクラウディオは、野菜くずを払い落とすニーダルを不思議そうに見やった。
「貴殿は、驚かないのだな」
「職業柄、色んな神器を目にしてね」
むしろ、ぬいぐるみに化けた神器に毎日蹴られたり、噛みつかれたりしてます。と心のうちで加える。
(いや、ひょっとしてあいつも化けられるのか)
ニーダルは、想像してみた。
こう、むちむちのグラマラスなボディで、V字水着とかバニースーツとか色々オプションをつけて。……でも、中身は”あの”クマ。
(ちっとも萌えねぇえええ)
オエー、と重いため息をはいてみる。
「逃げるのはやめて、真面目に戦ったらどうだ? 私もそろそろ本気で行かせてもらう」
「その前に教えてくれないか。”無限の自由”は、なんでこうも俺を目の敵にする?」
「そんなの、自分の胸に聞いてみろっ!」
黄色い砂と野菜屑を舞いあげて、クラウディオは踏み込んだ。
突く、突く、突く!
先ほどまでの攻撃とは違い、的確にニーダルの逃げ場を塞ぐ、容赦ない攻めだった。ニーダルもまた、留まったまま、槍で捌くことを余儀なくされる。
(ちぃ、この短時間で学ぶかよっ)
「シュターレンの地で、貴殿に倒された同志達の怨み、贖ってもらうぞ!」
「他人の領内で破壊活動してたのはお前らだろ。犠牲者だって大勢でてるんだぞ」
「それがどうした? 謝罪と賠償は請求するものだ。我々には何一つ非などないのだからっ」
「ああ、そうかい」
毒を撒き、資源を略奪し、それを悪とも思わない者や国がある。
誰もが同じように、清潔で豊かな暮らしを夢見るだろう。――自ら掃き清め、田畑に種を撒く事で得ようとする文化と、他者に奉仕を強制し、実りを力づくで奪う文化があるだけの差だ。
「そも、この数年で五万人の女性を犯して殺し、十万人の女性を犯して廃人に追いやった貴様のような猟奇的強姦魔に説教される覚えは無いぞ。この鬼畜ハーレム男!」
ニーダルは、クラウディオの発言の意味が、掴めなかった。
だから、フロッティの突きと共に大地より盛り上がり、槍と化した黄色い砂と野菜のゴミクズの刺突を避けきれなかった。
間一髪、槍の三日月鎌でなぎ倒したが、紅いコートにはいくつもの穴が空き、血が滲んだ。
(フロッティ。”突き刺す”を意味する契約神器かよ。それよりもっ)
ツッコミを入れずにはいられない―――。
「できるかぁ!」
「加害者の言う台詞か」
「一日に何人相手すればいいんだよっ!」
ニーダルは、日々を思い返した。
――たとえば平日。ダンジョンでモンスターを駆逐してゆく。
「アハハハ。ハハハ。アーッハッハッハ!」
「ガブ!」
「OUCHI!」
「だから、どうして貴方は大声あげて突撃するんですか。イスカが真似したらどうするんですか?」
「だからこれは敵の注意を引く為の戦術。つか、俺の腕はフライドチキンじゃねーぞ。OUCHI!」
「ガブ!」
言いがかりをつけられて、クソクマにいびられる……∞――
――たとえば休日。イスカとともに、商店街に出向く。
「服が傷んじまったから、新しいの買いにいくか」
「ン!」
「よし、これなら生地もいいし、価格もお手ごろ。って、なぜ噛み付こうとする、ベル」
「前から言おうと思ってたのですが、貴方の選ぶ服は地味すぎです。華がない。それでもナンパ師ですか?」
「けど、イスカの年じゃ着飾るには早いだろ。変な虫がついたら…
って、なんだよそんなフリフリのリボンみたいな服着せられるか、OUCHI!」
「ガブッ!」
無茶を言いだすクソクマにいびられる……∞――
「そりゃあ、男なら誰だって綺麗所はべらかしてフハハと邪悪に笑ってみたいわ。
俺の場合、邪悪な笑いを浮かべるどころか、邪悪なクマに虐待されてるじゃないか。
何が鬼畜か、何がハーレムか。
俺はこの数ヶ月ゼーゼマン家の女執事さんも真っ青!? な鬼姑にいびられながら、必死で娘育ててきたんだぞ。
その苦しみが、お前に、うぉおおお」
「……何を言ってるのかわからないが、成人女性に飽き足らず、年端も行かない少女にまで手を出したという噂は本当だったか。このロリコン外道!」
「だからなんでそうなるんじゃぁあああ」
ニーダルは、三日月十文字槍を自在に振い、地より伸びあがる杭を裂きながら、クラウディオへと斬りかかった。
しかし、届かない。第三位級契約神器フロッティに宿るロティの意志が、宙空に無数の魔術文字を刻んで不可視の盾を生み出し、斬撃も突撃も弾いてしまう。
上体を崩したニーダルの足を、クラウディオが操る砂槍が裂き、腕を細剣が刻む。
ロティは勝利を確信した。追い込んだ。ここで、勝てる、と。
一方のニーダルは、槍という長さを活かせぬまま、完全に細剣の間合いへと踏みこまれていた。
笑みが、貼りつく。
(強い。強いけどよ。今のイスカと同じように、まだ武器に頼った強さだ。こいつは神器の所有者であっても使いこなせちゃいない。なら、勝てる!)
神器によって強化されたクラウディオの膂力が、今までどうにかしのいでいたニーダルの十文字鎌槍を弾き飛ばした。
その突きこまれた腕に、右腕を絡みつかせる。
「っ!?」
(誘われた!?)
クラウディオの余裕が消え失せ、ロッテは歯噛みをした。
攻撃によって選択肢を狭めるように、防御でもって隙をつくり、選択肢を見出すことができる。
弾き飛ばした槍は囮だ。けれど、ただの魔術師に、契約神器の加護をこじ開けることなどできはしない。
ア ク セ ス
「え、何、これ。なんなの?」
(クリスッ! 逃げてぇえええ)
ニーダルの背から、獣とも機械ともつかぬ何かが吹きあげた。
彼の瞳に宿るは虚無。世界を呪い滅す憎しみの炎。かつて世界を救った終焉の……
我は封じられし九つの箱を破り、災禍の枝を掴みしもの。
顕現せよ。呪われし焔。世界樹の敵。地を覆す異形の翼よ!
フロッティの絶叫に、盟約者は反応できなかった。
幾重にも張り重ねられた不可視の防御壁と魔術結界は、一瞬にして食い破られ風に消えた。
狂気の笑みを貼りつかせた、ニーダルが左掌でクラウディオに触れた刹那、明滅する炎の魔術文字が、彼女とロティを覆い尽くした。
千年前、近接戦闘に特化した異端の魔術師が鍛え上げた、必滅の爆殺呪法だ。
この認識を最後に、クラウデイオもロティも悲鳴をあげる暇もなく、血と脳髄を沸騰させ、焼け焦げた肉塊と金属片を撒き散らし、消失するはずだった。
が。
「ひゃうん」
「この感触、70のB」
「うわああああ」
だだっこのように、クラウディオは腕を振り回し、胸部を掴んでいたニーダルを殴りとばした。
ドキメガゴシャと、酷い音を立て、ニーダルの身体が粗大ゴミに叩きつけられる。
「な、なんで、なんでわかった?」
ツーと、赤い血が垂れた鼻を押さえ、黄色い砂とゴミにまみれたニーダルが息も絶え絶えに答えた。
「揉み慣れて」
「破廉恥なことを言うなっ。どうして私が女だと」
「そりゃあ」
―――硬直する。忘れたことさえ忘れているような空白に、ニーダルは戸惑う。
(あのクリスマスの日、俺は、誰と)
ザ…ザ…、と、思考に割り込むノイズが邪魔をする。
(つか、”クリスマス”ってなんだ?)
記憶を探る手は、真実に届かない。
「ふっ。男たるものォ、いい女は匂いでわかるっ!」
「変態め」
「酷っ」
「公園からずっと、ロティの胸ばっかり見ていたくせにっ」
「馬鹿野郎っ。おっぱいに貴賎なし!大きいものも小さいものもぉ、その美しさを愛でるのがぁ、おっぱいソムリエとしての俺の美学っ」
白い歯を光らせて、廃棄物の真ん中で天を指さしてイイ笑顔で胸を張るニーダルを、女性陣は物凄くイタイ目で見つめた。
「マスター。やっちゃいましょう」
「同感だ」
日の陰りが、黄色い砂に映る二つの影を長くのばした。
「のわぁあああああ!! 痛い、痛いって、殴るな刺すな切りつけるなあ」
『ただいま、お見苦しい場面が続いております。川のせせらぎや、木漏れ日の風景を想像してお楽しみください』
一五分後。ボロ雑巾もかくや、というほど、ズタズタのヨレヨレになったニーダルがゴミの中に突っ伏していた。
「ゴフッゴホッ。ど、どうやらこの勝負、俺の致命傷のようだな。今日はこれくらいにしといてやるぜ。また会おうなあ。ふははははは」
発言の割には元気な足取りで跳躍、廃棄ビルの屋根を飛び石のように飛びながら、ニーダルは逃走した。
「待てぇ。その首置いてけ。ロティ、駐留部隊に連絡、あいつの宿を押さえろ!」
駆け出したクラウディオの足を、ロティは長い脚を伸ばしてひっかけた。
「な、なにをするんだよぉ」
「クリス。これくらいにしましょう。見逃されたのがわからないのですか」
「でも、これはチャンスなんだ。赤い導家士の幹部かもしれない男をみすみす逃すのか!?」
赤い導家士。
世界をひとつの家にする――というスローガンを掲げ、ロアルド地方を中心に、この一年で驚異的速度で勢力を伸ばしたテロリスト集団だ。
平等と新世界創造の名の下に、いくつもの銀行に押し入って金塊を強奪、数村の地主を殺して農民達の借金の証文を焼き捨て、溜め込まれていた銀貨を没収し、奪い取った財産で宴会を開き、死体を吊るした宴席で、殺された者の妻や娘を嬲り者にするという陰惨な行為を繰り返していた。
「確かにニーダル・ゲレーゲンハイトは、紅い道化師と呼ばれています。ですが、クリスは、あの男にできると思います?」
「似合わないとは思う」
カジノから追い出されても居合わせた盟約者に武器を抜かせることを望まず、戦場にはわざわざ人気のない場所を選んだ。
「彼は、戦闘による被害の拡大を極力抑えようと動いています。奇抜な言動や服装に惑わされなければ、きっと彼なりのルールがあるのでしょう」
あの男は、現時点で闘うべき相手ではない。そう、ロティの淡紅色の瞳が警告していた。
「で、でも代わりに私が破廉恥な目にあったじゃないか!?」
「ちょっと、胸を触られたくらいでどうだというのです。クリスは控えめなのですから、ひょっとしたら血行がよくなって大きく。どうしました?」
「だったら、だったらロティのを寄越しなさいよ~」
「いや、やめてマスター。助けて、誰か、襲われる~~」
黄色い悲鳴があがったが、危険を感じて逃げ出した、スラムの荒くれ者たちが出てくることはなかった。
(マスターを、クリスを、あの男に近づけてはいけない)
システム・レーヴァティン。
はるかな昔、神器による戦争で文明を失った人類が、ある英雄のもと、再びの滅亡を防ぐ為に作り出した究極のカウンター。
ただし、その代償は術者の精神と命。
(あれは、契約神器に対抗する力と引き換えに……。
ヒトがヒトである証。五感を、記憶を、理性を、思考を――、その全てを喪失させ、ヒトを殺戮の獣へと変容させてしまう。
発動させた人間は、破壊衝動の赴くまますべてを壊して、自らも滅ぶ。…彼は正気だった。だから、違う。違うはずなのに)
それでも、ロティは大切な妹のような主を、豊かな胸と細い両の腕で包むように、抱きしめた。