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300年石化していた悪役令嬢が、"美術品"として競り落とされて元婚約者の子孫の屋敷で目を覚ます

掲載日:2026/10/07

絶対に評価ポイント、ブックマークお願いします

人気が出たら連載も考えているのでぜひ感想レビューお待ちしています。

 目覚めたら、値札がついていた

最初に感じたのは、埃の匂いだった。

次に、暗さ。目は開いているはずなのに、何も見えない。顔に布のようなものが被さっている。

わたくしは、ロザリンデ・ヴァルトハイム。ヴァルトハイム公爵家の長女にして、第一王子殿下の婚約者――いいえ、元婚約者。

最後の記憶は、王城の大広間だ。居並ぶ貴族たち。わたくしを指さす殿下。「悪女」と囁く声。そして、足元から冷たいものが這い上がってくる感覚。

あの日、本当は何が起きたのか。知っているのは、わたくしだけだ。

腕を動かす。ぎしり、と関節が鳴った。まるで長いあいだ使っていなかったかのように。

顔の布を払いのけると、そこは見知らぬ部屋だった。

窓には分厚いカーテン。床には木箱と藁屑。壁際には額縁や壺や甲冑が、所狭しと押し込まれている。物置、それも相当に散らかった物置だ。

わたくしは台座の上に立っていた。足首に、紙の札が紐で括りつけてある。

『第四十七番 女性像(作者不明) 落札済』

……女性像。

そのとき、扉が開いた。

ランプを提げた若い男が入ってきた。くたびれたシャツに、寝癖のついた栗色の髪。年は二十をいくつか過ぎたくらいだろうか。目の下にくっきりと隈がある。

男はわたくしを見た。

わたくしも男を見た。

男の手から、ランプが落ちた。

「――っ、う、動、うご、え、マジで?」

半分も聞き取れなかった。

「無礼者。まず名乗りなさい」

わたくしが言うと、男はさらに後ずさった。背中が甲冑にぶつかり、がしゃんと派手な音が鳴る。

「こ、古語……? いや待て、落ち着け俺。石化が解けた。石化が解けたってことは……」

男は頭を抱えてぶつぶつ言い始めた。床ではランプの火が燻っている。わたくしは台座から降りて、それを踏み消した。久しぶりの足は、思ったよりよく動いた。

「火の始末くらいなさい。屋敷が燃えますわよ」

「あっ、はい、すみません……じゃなくて!」

男はようやく顔を上げた。

「あの、言葉、わかりますか。俺の言ってること」

「おおむね。ずいぶん訛っているけれど」

「訛ってるのはそっちなんですけど……」

失礼な男だ。けれど言われてみれば、男の言葉はわたくしの知る言葉と少しずつ違った。音が崩れている。知らない単語が混じる。外国語というほどではないが、辺境の農夫と話しているような気分だった。

「ここはどこ。あなたは誰。わたくしの侍女はどこ」

「ここはハルトマン美術商会……っていうか俺の家です。俺はテオ・ハルトマン。侍女は、いません。たぶん三百年前に亡くなってます」

「……三百年?」

テオと名乗った男は、気まずそうに頷いた。

「あなた、三百年ずっと石だったんですよ。で、先月それが競売にかけられて、俺が落札しました」

意味を飲み込むのに、少し時間がかかった。

石。三百年。競売。落札。

そして、目の前の顔。

さっきから引っかかっていたのだ。灰青の瞳。少し下がった目尻。困ると片方の眉だけが上がる癖。三百年前、大広間でわたくしを指さした、あの方によく似ている。

……似ているだけだ。三百年も経っているのだから。

それでも、腹が立つものは腹が立つ。

「……つまり、あなたがわたくしを、石の呪いから救い出したということ?」

「いや、勝手に解けました。俺は何もしてないです。むしろ解けて困ってます」

「困る?」

「困りますよ!」

テオは叫んだ。それから何かを諦めたように深く息を吐き、まっすぐわたくしを見た。

「いいですか、落ち着いて聞いてください。この国の法律では、石化から戻った人は『出土美術品』として扱われます」

「しゅつど……?」

「掘り出された美術品、ってことです。つまりですね」

彼は一度、言いにくそうに口を閉じた。そして言った。

「あなたは法律上、私の所有物です」

殿下と同じ顔で、よくもそんなことを。

わたくしは扇を探して腰に手をやった。ない。扇がない。仕方がないので、代わりに顎を上げた。

「冗談はほどほどになさい。わたくしはヴァルトハイム公爵家の――」

「ヴァルトハイム家、もうないです。二百年くらい前に断絶してます」

「…………」

「それと、美術品には人としての権利がありません。財産も持てないし、契約も結べない。所有者の許可なく屋敷の外にも出られません」

「では、あなたが許可なさい。わたくしを自由にするのよ」

「それができたら苦労しないんですよ」

テオは棚から一枚の紙を引き抜いた。

「自由になるには、国に『解放税』を払う必要があるんです。金額は、その美術品の評価額と同じ。所有者が手放したくても、税金を払わないと解放できない決まりで」

「なら、払えばいいでしょう」

「払えないんですよ。……これ、見てください。昨日届いた、国の鑑定局の鑑定書です」

差し出された紙には、ミミズがのたくったような文字がびっしりと並んでいた。読めない。三百年で、文字まで変わってしまったらしい。

けれど、一番下に大きく記された数字だけは、かろうじて読み取れた。

「金貨……八万、二千枚?」

「そうです」

わたくしは、思わず胸を張った。

「まあ。当然ですわね。わたくしの美貌と気品を思えば、それくらいの値は――」

「いや、美貌は関係ないです」

テオは鑑定書の一行を、指でなぞった。

「評価額は、悪名の高さで決まるんです。あなた、この国で一番有名な悪女なんですよ。『伝説の悪女ロザリンデ』。子供でも知ってます。だから国宝級の値段がついた」

「…………は?」

「ちなみに落札したときは『作者不明の女性像』で、金貨三百枚でした。鑑定に出したら伝説の悪女本人だとわかって、八万二千枚に化けたんです」

わたくしは鑑定書を見下ろした。

金貨八万二千枚。

三百年かけて積み上がった、わたくしの悪名の値段。

【現在の評価額:金貨八万二千枚】

 悪女像は、動かなくてよろしい

翌朝、目を覚ましたわたくしは、枕元の鈴を鳴らした。

誰も来ない。

もう一度鳴らす。やはり誰も来ない。

三度目を鳴らそうとしたところで、扉の向こうから眠そうな声がした。

「それ、呼び鈴じゃないです。売り物の置き時計についてた鐘です……」

結局、この屋敷には侍女も料理人も執事もいなかった。いるのはテオ一人だけだ。

着替えにも難儀した。三百年前のドレスは、背中に紐が十二本ある。一人では到底結べない。仕方なくテオを呼び、目を閉じさせたまま結ばせたところ、十二本のうち九本が見当違いの穴に通され、残る三本はなぜか彼自身の袖に結ばれていた。

「無理ですって。見ないで結ぶのは」

「見て結ぶのは、もっと無理でしょう」

「……はい」

食堂――といっても、半分は売り物の家具で埋まっている――で、テオは固いパンと紅茶を出した。テーブルにも椅子にも、赤い札が貼ってある。読めないけれど、不吉な札だということはなんとなくわかった。

「差し押さえの札です。父が亡くなってから借金が見つかりまして。使用人にもみんな辞めてもらいました。来月までに返さないと、この家ごと持っていかれます」

「まあ。気の毒に」

わたくしは紅茶に口をつけ、目を見開いた。

「……この紅茶、砂糖が入っているわ」

「入れましたけど」

「砂糖が! 紅茶に! 朝から!」

三百年前、砂糖は薬として量り売りされる品だった。紅茶も同じ。公爵家ですら、両方を揃えるのは客人をもてなす日だけだった。それを、差し押さえの札だらけの家の朝食で、平然と。

「あなた、本当は裕福なのではなくて?」

「砂糖も紅茶も、今は安いんですよ。庶民の飲み物です」

「では、今は何が高いの」

テオは黙って、わたくしを指さした。

……なるほど。

「ともあれ、もてなしには礼を言います。――御身に幸いあれ」

三百年前の、最上級の感謝の言葉だ。ところがテオの顔は、みるみる引きつった。

「それ、やめてもらえます?」

「なぜ」

「借金取りの督促状が、毎回それで始まるんです。『御身に幸いあれ。なお、期日は来月末』って」

わたくしの時代の最上級の言葉は、三百年のあいだに督促状の決まり文句まで落ちぶれていたらしい。

パンをちぎりながら、わたくしはテーブルの端に置かれた薄い本に目を留めた。表紙に、角の生えた女の絵が描いてある。真っ赤な唇で高笑いし、足元では小さな人々が逃げまどっている。

「これは何かしら」

「あー……子供向けの絵本です。『わるいれいじょうロザリンデ』。参考資料に買ったんですけど」

手に取ってめくる。文字は読めない。けれど、どの頁にも同じ女がいて、城に火をつけたり、子犬を蹴ったり、月を食べようとしたりしていた。

「……ひどいわ」

「ですよね。まあ伝説なので、尾ひれは――」

「わたくしの鼻は、こんなに尖っていません」

「そこですか」

「それに、髪はもっと艶やかです。この絵描きを呼びなさい。描き直させます」

「二百年前に亡くなってます」

本当に、三百年経っているのだ。わたくしは絵本を閉じた。

あの日の真実を語れるのは、もうわたくししかいない。けれど語ったところで、誰が信じるだろう。この国では、わたくしは月まで食べようとした女なのだ。

「ねえ、テオ。わたくしを、どうするつもり?」

テオは手の中の茶碗を、しばらく見つめていた。

「王立博物館に売ります」

「……」

「館長が、悪女像を展示の目玉にしたいそうです。評価額で買い取ってくれる。それで借金が全部返せます」

「わたくしを、見世物にするのね」

「すみません」

テオは頭を下げた。言い訳はしなかった。殿下なら、言い訳を十は並べたところだ。似ているのは顔だけらしい。そのことが、なぜか少しだけ腹立たしかった。

「……博物館は国の施設なので、待遇はここよりいいと思います。少なくとも、朝食にジャムはつきます」

「ジャムで釣られる公爵令嬢がいると思って?」

「いないですよね……」

そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。今度は本物の呼び鈴だ。

テオが青い顔で立ち上がった。「館長だ。予定より早い」

現れたのは、銀髪をきっちりと撫でつけた初老の紳士だった。上等な外套に、片眼鏡。王立博物館館長、ゲルハルト・ブラントと名乗った。

館長はわたくしを一瞥し、片眼鏡の奥の目を細めた。

「素晴らしい。保存状態は完璧ですな」

保存状態。

「ハルトマン君、朝刊は見たかね」

館長は丸めた新聞をテーブルに広げた。一面に大きな文字と、わたくしの肖像画が載っている。やはり鼻が尖っていた。

「『伝説の悪女、三百年の眠りから目覚める』。昨日、君が鑑定局に出した届けが漏れたらしい。王都は大騒ぎだよ。悪女が蘇った、国が呪われる、とね」

「届け出は義務なので……」

「責めてはいないよ。むしろ礼を言いたい」

館長は懐から封筒を取り出した。鑑定局の封蝋が押してある。

「今朝、再鑑定の結果が出た。悪名がさらに高まったということで、評価額は金貨十二万枚に上がった」

テオが息を呑んだ。わたくしも息を呑んだ。

一晩で、三万八千枚。わたくしは何もしていない。砂糖入りの紅茶を飲んで、絵本に文句をつけただけだ。

「当館はこの額で買い取ろう。展示は来月から。目玉は二つ――この悪女像と、三百年前の、あの手紙だ」

「手紙?」

わたくしが口を挟むと、館長は初めてこちらを見た。ほんの一瞬だけ。

「悪女の証拠として名高い手紙ですよ。古い文字なので、今では読める者はほとんどおりませんが、ご心配なく。当館の翻訳が添えてあります」

それだけ言うと、館長はまたテオに向き直り、展示の話を始めた。台座の高さ。照明の角度。来館者に見せる顔の向き。

わたくしの話を、わたくし抜きで。

「お待ちなさい」

わたくしは椅子から立ち上がった。三百年前、王城の大広間でそうしたように。

「わたくしは、まだ何も承知して――」

館長は片手を軽く上げて、わたくしを制した。穏やかな、子供をあやすような微笑みだった。

「動く必要はありませんよ。像なのですから」

【現在の評価額:金貨十二万枚(前日比+三万八千枚)】

 御身に、さいわいあれ

王立博物館の内覧会は、三日後に開かれた。

売買の契約は、その場で交わされる予定だった。国宝級の出土美術品を売り買いするには、鑑定局の役人の立ち会いが要るのだという。わたくし本人の意思を確かめる手続きは、どこにもなかった。

館長は、新聞記者まで呼んでいた。

「動く悪女像を一目見せれば、評判はさらに上がる。評価額もね」

大広間の中央に、大理石の台座がひとつ。わたくしはそこに立たされた。周りを記者たちが取り囲み、ペンを構えてこちらを見上げている。三百年前の断罪の場と、よく似た光景だった。違うのは、誰もわたくしに話しかけないことくらいだ。像に話しかける者はいない。

広間の壁には、「悪女ロザリンデ」にまつわる品々がずらりと並べられていた。

わたくしの肖像画。やはり鼻が尖っている。

わたくしの手鏡。札には『悪女が呪いをかける際に用いた魔鏡』とある。毎朝、前髪を直すのに使っていただけだ。

わたくしの櫛。『侍女を打ち据えた拷問具』。櫛である。髪を梳かす以外に、何に使えというのか。

わたくしの日記帳。『悪事の計画書と推定される。解読不能』。解読されなくて本当によかった。毎日のお菓子の感想しか書いていない。

「……テオ。三百年のあいだに、わたくしの持ち物は随分と出世したのね」

「悪女の持ち物だと思って見ると、なんでも怖く見えるんですよ」

テオが気まずそうに囁く。その後ろで、館長が満足げに頷いていた。

台座の脇に、ガラスのケースがあった。中には黄ばんだ紙が一枚。その横に真鍮の札が掛かっている。テオが小声で読み上げてくれた。

「『悪女ロザリンデの手紙。断罪の前夜、第一王子に宛てて書かれたもの。冒頭の一文は、悪女の呪詛として名高い』……」

札の一番上には、翻訳文が大きく刻まれていた。

『殿下の御身に、災いあれ』

わたくしは台座の上から身を乗り出して、ガラスを覗き込んだ。

懐かしい筆跡だった。わたくしの字だ。インクの滲み方まで覚えている。あの夜、震える手で書いた一枚。

そして、冒頭の一文。

「……災い?」

思わず声が出た。記者たちがざわめく。悪女像がしゃべった、と誰かが言った。館長が咳払いをする。

「お静かに。像は――」

「館長。この翻訳は、どなたが?」

「……二百年前の高名な言語学者ですよ。古い文字を読める最後の一人と言われた方です」

「では、その方は字を読み違えています」

館長の片眼鏡が、きらりと光った。

「悪女の言い分を、誰が信じると?」

それは、その通りだった。三百年前もそうだった。わたくしが何を言っても、誰も耳を貸さなかった。

けれど今のわたくしには、三百年前にはなかったものがある。

「テオ。上着の内ポケットの紙を出しなさい」

「え? な、なんで知って――」

「今朝、溜め息をつきながら読んでいたでしょう」

テオが渋々取り出したのは、例の督促状だった。わたくしはそれを、立ち会いの鑑定官に差し出した。白髪交じりの、無愛想な男だ。

「冒頭を読んでくださる?」

鑑定官は眼鏡を押し上げ、淡々と読み上げた。

「『御身に幸いあれ。なお、期日は来月末』……これが何か」

「その一文は、わたくしの時代の手紙の挨拶です。三百年前、身分ある方に宛てる手紙は、必ずそれで書き始めました」

わたくしはガラスケースの手紙を指さし、古い言葉でゆっくりと読み上げた。

「おんみに、さいわい、あれ」

広間が静まった。

「三百年前の『幸い』の字は、今の『災い』の字にそっくりなの。線が一本あるかないか、それだけ。字の形も、言葉の音も、三百年かけて少しずつずれていった。けれど、この挨拶だけは決まり文句として生き残った。――督促状の書き出しとしてね」

「それに、悪女の手紙だと思って読めば、幸いも災いに見えるものよ。あそこの手鏡や櫛と同じように」

鑑定官が、督促状と手紙を見比べた。それから鞄から分厚い帳面を取り出し、黙ってめくり始めた。

記者のペンの音だけが響く。館長は、片眼鏡を外して拭いていた。拭いても、何も変わらないのに。

「……確かに」

鑑定官が顔を上げた。

「古い書簡の決まり文句として、『御身に幸いあれ』の用例は四百件以上記録があります。『御身に災いあれ』は――一件もありません。この手紙を除いては」

館長の顔から、すうっと血の気が引いていった。

「じゃあ」と、記者の一人が言った。「伝説の悪女の呪いの手紙は、ただの挨拶状……?」

「ただの、ではありません」

わたくしは台座の上で、顎を上げた。

「少なくとも、呪いの手紙ではない。それで十分でしょう。続きに何が書いてあるかは――あなた方には、教えて差し上げませんけれど」

鑑定官は、静かに帳面を閉じた。

「『悪女の呪詛』は、悪名の最大の根拠でした。それが誤訳となれば、再鑑定を待つまでもない」

彼は懐から鑑定印を取り出し、その場で書類に数字を書きつけて、印を押した。差し出された書類を、テオが受け取る。その手が、目に見えて震えていた。

「に……」

テオは、蚊の鳴くような声で言った。

「二百、枚……」

【現在の評価額:金貨二百枚(前回比−十一万九千八百枚)】

 悪女は、自分を買い戻す

館長は、契約書を破りはしなかった。まだ署名していなかったからだ。

「この件は、なかったことに」

それだけ言って、彼は踵を返そうとした。けれど記者たちに囲まれて、一歩も動けない。誤訳の展示をいつから続けていたのか。誰が翻訳を確かめたのか。質問が雨のように降り注ぐ。

館長は、その場で固まっていた。

「館長」

わたくしは台座の上から、にっこりと微笑んだ。

「動く必要はありませんわよ。もう、像のようですもの」

記者たちが、一斉にペンを走らせた。

◇

その夜、ハルトマン家の食堂で、テオはテーブルに突っ伏していた。

「三百枚で買って、二百枚……。借金は一枚も減ってない……むしろ鑑定料のぶん増えてる……」

「計算がお上手なのね」

「慰めてくださいよ……」

差し押さえの札が、ランプの明かりに赤く浮かんでいる。来月末には、このテーブルも椅子も、たぶんこの屋敷も持っていかれる。

「ねえ、テオ。金貨二百枚というのは、今の世でどれくらいの値打ちなの」

「この家の借金の、十分の一くらいです」

「砂糖入りの紅茶なら?」

「毎朝飲んでも、一生かかって飲み切れないくらいですかね」

「……わたくし、紅茶よりは高いのね」

「そりゃそうですよ。国宝からは、だいぶ落ちましたけど」

落ちた、と彼は言った。けれど不思議と、わたくしは少しも惜しくなかった。三百年かけて積み上がった悪名が、一枚の督促状で崩れたのだ。痛快以外の何物でもない。

翌朝、あの無愛想な鑑定官が屋敷を訪ねてきた。正式な鑑定書と、言付けを持って。

「二百枚なら引き取りたい、という話がいくつか来ています。見世物小屋がひとつと、物好きな貴族が二人」

テオは、鑑定書から目を上げなかった。

「……売りません」

「ほう。二百枚でも、借金の足しにはなるでしょう」

「なります。でも、売りません」

鑑定官は肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。帰りがけに、丸めた朝刊を置いていった。

一面の見出しを、テオが読み上げてくれた。

「『悪女、博物館長を石にする』……比喩です、比喩」

「失礼ね。本当に石にできたら、とっくにしているわ」

「そういうところだと思いますよ、悪名が戻るの」

鑑定官が帰ってしまうと、食堂には、わたくしとテオだけが残った。

「どうして売らないの」

「……どうしてでしょうね」

テオは困ったように、片方の眉だけを上げた。

わたくしは、それ以上は聞かなかった。代わりに、物置の方を指さした。

「あの物置。古い手紙や帳簿や契約書が、山ほど眠っているでしょう」

「え? ああ、売れ残りです。古すぎて誰も読めないから、紙くず同然の値段で――」

そこまで言って、テオは口を閉じた。

わたくしは頷いた。

「誰も読めない古文書を、わたくしは読める。読めれば、値がつく。誤訳を見つければ、昨日の博物館のように大騒ぎにもなる。――あなたの店を、立て直して差し上げるわ」

「……代わりに?」

「わたくしの取り分を、すべて積み立てなさい。それが解放税の額に届いたら、あなたがわたくしの解放税を払う。わたくしは、わたくしを買い戻すの」

テオはしばらく黙っていた。それから、震える手で棚から紙とペンを取ってきた。

「契約書、作ります。……あ、でも、美術品は契約を結べないんだった」

「なら、あなたが一人で署名なさい。わたくしは立会人の顔をしていて差し上げます」

「立会人も美術品なんですけど……」

ぶつぶつ言いながら、テオは契約書を書き上げ、自分の名前を署名した。インクが乾くのを待つあいだ、彼はペンを置いたまま、なかなか顔を上げなかった。

「あの」

「何」

「署名する前に、言っておくべきだったんですけど」

「署名した後に言うのね」

「すみません。……俺の家、あの第一王子の家系なんです」

言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。

「何代も前に王家を出て、商人になって、今はこのありさまです。家に一枚だけ、ご先祖の肖像画が残ってて。子供の頃から、似てる似てるって言われてました」

灰青の瞳。少し下がった目尻。困ると片方だけ上がる眉。

「競売で、作者不明の像に入札したのも、正直、理由はうまく言えないんです。顔を見たら、なんとなく、放っておけなかった。……伝説の悪女だってわかったとき、怖くなりました。ご先祖が断罪した人を、今度は俺が売るのかって」

テオは、ようやく顔を上げた。

「だから、二百枚では売りません。たぶん、いくら積まれても。……黙っていて、すみませんでした」

わたくしは、長いあいだ何も言えなかった。

似ているのは顔だけだと思っていた。違った。血まで、だった。

あの手紙の宛名を、ふと思い出す。殿下の御身に、さいわいあれ。三百年前、わたくしが続きに何を書いたのか、この男はまだ知らない。

「……よりにもよって」

ようやく出てきたのは、それだけだった。

「はい」

「よりにもよって、あの方の子孫と契約してしまったわ」

「はい。……あの、やめますか」

「やめません。署名はもう済んでいるのでしょう」

わたくしは、彼が書いた契約書を手に取った。相変わらず、ミミズがのたくったような字だ。けれど一番下の数字だけは、ちゃんと読める。

三百年前、わたくしは殿下に断罪された。

三百年後、その子孫と手を組んで、わたくしは自分を買い戻す。

悪女の物語は、どうやら、ここから始まるらしい。

【最終評価額:金貨二百五十枚(朝刊の見出しにより、悪名がやや回復)】

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