第32話 祈りと湯気の満ちる城
ヴィンセント様たちが出陣してから、城に残された私たちにとって静かな時間が始まった。
誰もが北の国境地帯で繰り広げられているであろう激戦に固唾をのんで耳を澄ませている。
けれど、城は沈黙を守ってはいなかった。
私は騎士団が残していった空っぽの食堂を新たな拠点と決めた。
「戦いはまだ終わっていません。いつ、どなたが怪我をして戻ってきても、すぐに温かい食事と手当てができるように準備をします!」
私の呼びかけに厨房の仲間だけでなく、城に残ったメイドたちや年若い文官たちまでが力を貸してくれた。大きな寸胴鍋にいつでも提供できるように滋養に満ちた野菜スープを常に温め続けた。
負傷者がすぐに体を休められるよう、食堂の長椅子には清潔な毛布が用意され、暖炉の火は絶やされることがない。
棚には薬師から分けてもらった薬草や清潔な包帯がいつでも使えるようにずらりと並べられた。
厨房では交代でパンを焼き続け、城中に香ばしい匂いを満たす。
それは残された者たちの戦いだった。
不安に押しつぶされそうになった時、温かいスープの湯気と焼きたてのパンの香りは、不思議と人の心を落ち着かせてくれる。
「エリアーナ様はすごいな」
スープを配るのを手伝ってくれていた若いメイドがぽつりと言った。
「一番不安なはずなのに、いつも笑顔で……。エリアーナ様の顔を見ると、なんだか大丈夫な気がしてきます」
(……笑顔)
そう言われて、私は初めて自分が無理に笑っていたことに気づいた。
本当は怖い。
ヴィンセント様の顔、声にも触れたい。彼が無事かどうか今すぐにでも確かめたい。
夜、一人で自室のベッドに入ると、額に残された口づけの感触を思い出し、不安で胸が張り裂けそうになる。けれど、私がここで泣いてしまったら皆の心まで折れてしまう。
私は城の「食」と「心」を支える柱なのだから。
(ヴィンセント様、どうかご無事で……)
私は毎晩、窓から北の空を見上げ星に祈った。
出陣から三日目の昼下がり。
その時は突然やってきた。
遠くから一つの馬影が猛スピードで城へ向かってくるのが見えたのだ。見張り台の鐘がカンカンカンッ! と伝令の到着を知らせる。
城中の誰もが、それまでの作業の手を止め、固唾をのんで城門を見つめた。
良い報せか、悪い報せか。
やがて雪と泥にまみれた一人の騎士が馬から転がり落ちるようにして城の中へ駆け込んできた。
彼は、その場にいたギルバート執事の前に膝をつくと息を切らしながら叫んだ。
「ご報告、申し上げます! 我らアシュフォード騎士団……!」
その言葉の続きを城に残された全員が心臓が止まるような思いで待っていた。




