ブルーノイズ
視界が白く染まるほどに、日に照らされて熱い夏の日の空気。吹き抜ける風を切り裂くように、僕の前を数両の列車が過ぎ去る。
点滅する赤い光と警告音だけが、僕をこの世に引き留めている。まだ僕は、何処へも行かないというのに。
燃えるように青い空を見つめながらふと、少し前の景色を思い出していた。
いつもの曲がり角、何気ない、いつかの記憶の数々。いつも誰かと過ごしていた。そんな日々を、今でも鮮明に覚えている。
潮の香りを運ぶ海風。それに誘われるように、路地裏から一匹の猫が顔を覗かせる。
「どこから来たんだい」
そう訊く前に、俯いた背中は何処かへ去って行く。
海岸線に合流し、灰色の堤防から海を眺めていた。穏やかな波が、砂浜に書いた模様を掻き消す。
――
「■■」
――
その音が聞こえる度に、僕は。
僕は。
「……なんだっけ。思い出せないや」
煩い耳鳴りだけが、今日も頭の中で鳴り響いていた。
――
「転校してきました、■■■■です。よろしくお願いします」
綺麗だった。他の女の子の中でも、一際目立つほど。
転校生補正がかかっていたのかもしれない。それでも確かに言えることは、僕の視界の中では特別ハイライトされていることだった。
「あ」
はっ、とここで気付く。もしかして、僕の隣の不自然に空いた席は。
「よろしくね」
「あ、うん。こちらこそ」
今日学校に来たら隣が不自然に空いていた。何かと思ったがこういうことだったらしい。
妙に気持ちが昂ぶる。そわそわして落ち着かない。
「僕、穂崎葵」
「よろしくね、葵くん」
下の名前で呼ばれてしまった。必死に彼女の顔から目を逸らす。
不自然に口角が上がっていないか、顔が赤くなっていないか。そんな事ばかりが気になって仕方がない。年頃の男子なのだ、それくらい女子を意識していても仕方がないだろう。
いやしかし、僕はこれから始まる彼女との学校生活に心を躍らせていた。
――
中学生の時の記憶が嫌に鮮明に思い出される。懐かしいけど、どこか痛い。みんな大体はそういう時期だろう。かく言う僕もあまり思い出したくはない。
さて、しかし僕は記憶の中のその少女の顔を鮮明に思い出せずにいた。
もう少しで手が届きそうなほど、近くに、
「っ……」
またひとつ、波の音。冷たい海の水が空気を攫う間に、どうしてか心が締め付けられる感覚がする。
ここにいてはいけないような気がした。何かを思い出したくなくて、僕は海岸を後にする。
振り返り、少し遠くを眺めた。そこにあるのは、あの学校。僕と、おそらく、彼女が出会った場所。
気が付けば僕の脚は、その場所へと向かって歩き出していた。
――
「ねえねえ葵くん。テスト、どうだった?」
水音流れる橋の上、夕凪を仰ぐ長い髪が光を反射している。
「僕はまあ、だいたい八割くらいだったかな」
「すご!私なんて全部平均以下だよー」
彼女はこう見えてあまり勉強ができない。いや、どう見えているのか。
毎回こんな調子で、まともに平均点以上を取っているところを見たことがない。本当に勉強しているのか心配になってくる。
「いやでもさ、平均ってみんなの点数から出るわけじゃん。だったら平均点も私みたいな低い点数のおかげであると思わない?」
相変わらず口だけは良く回る。
「はあ、今度勉強教えてあげるから。もう少し頑張ろうな」
「はーい」
彼女はいつも、楽しそうに笑う。目の前の状況が見えていないのか、見えていないのか。
その楽観主義も、どうにかしたらどうだろうか。なんてことを言ったこともある。
「今が楽しければそれでいいの。今を、ちゃんと生きたいから」
なんて、そんな言葉は妙に説得力があった。
先の事も考えたらどうだと、僕は頭の中には言葉があったのに。何故か僕はそれを言えずにいる。
「あ、そうだ」
隣を歩いていた彼女は、突然走り出したかと思うとやがて振り向いた。
「テスト終わったしさ、デート行こうよデート」
「はあ?」
突然何を言い出すのかと思えば、とんでもないことを言い出した。
「別に僕達付き合ってるとかそういうんじゃないだろ。第一どこに行くんだよ、何も無いぞ」
「えー、海とか」
「海なんていつでも行けるだろ」
顔を上げ、奥に見えるその水面に視線を落とした。夕日を反射して、橙色に輝いている。
「そうだけど……あ、もしかして。デートはもっとロマンチックな場所ーとか、そんな感じの人ですかー?」
と、茶化してくる。最初はこんな奴だとは思わなかった。いざ仲良くなってみると調子の良いことを言い出す。人間は本当に分からないものだな、と彼女が来たあの日のことを思い出す。
「うるさいなあ」
「えー。ほら、いいじゃん」
早足で歩く僕の背に、彼女は笑いながら着いてきていた。
――
いつもの橋を渡る。足の下から聞こえる水音が、少し空気を涼しく感じさせる。覗き込んだ川底は透き通った水越しに綺麗に見えて、飛び込んでしまいたくなるほどだった。
「……変わらないな」
教室の窓を眺めながら、僕はなんとなく昔の空気に浸っていた。
窓の向こうからこちらを覗く誰かの姿が見えた気がする。いつか見たことがあるような、彼女の顔。でもその景色はやがて溶けて消えていく。
今は八月の真ん中、学生はみんな夏休みの真っ最中だろう。そんな時期に、あの教室に誰かがいるはずない。そう自分に言い聞かせた。
校庭を囲む白いフェンスを手でなぞる。触れるその一瞬一瞬に、夏の日を視ている気がした。
――
「なあ」
声を掛けた彼女は、咄嗟に振り向いた。
「そういや■■ってさ、どこから来たの?聞いたことないよね」
「私?」
再び前に向き直った彼女は、少しの間考えてからまた僕の方を見た。
「えっとね、東京のほう」
「そっか」
たったそれだけ。不意に気になったことを聞いただけ。
「え?それだけ?」
「うん。そういや聞いたことなかったなって」
そこまで、僕は正直に彼女に伝えた。
「海とかなくてね、空気もこんなに綺麗じゃなかった。だからなんというか、ここに来てから、すごく調子が良いんだ」
「そういうもんなの?」
「うん、そういうもん」
調子が良い、という言葉が少し引っかかった。それはまるで、前は悪かったみたいな――
それを聞いたのは彼女が休み始めてから四日目。先生の口から伝えられたのは、街の方の大きな病院だった。
彼女は突然学校を休んだ。今まで休んだことのない元気な子だったから余計に心配になったが、あまりにも長いので僕はついに先生に訊いてしまった。
曰く、「入院している」と。
「ちょっと出かけてくる」
それだけ親に伝えた。少しばかりの金を財布に入れ、僕は駅へと歩き出した。まだ夏の声が聞こえ始めた時期のことだった。今でも覚えている。やけに煩く聞こえた蝉の鳴き声を。僕の心はざわついていた。何か、悪いことを予見しているように。
たまに歩く駅までの道のりも、このときはやけに長く感じた。
列車を待つ。一時も忘れず、彼女の事を考えながら。この時の僕は、ただ彼女の無事を願うばかりだった。
「あ、葵くんじゃん。来てくれたんだ」
「……はあ」
慣れない広い病院で、必死にその名前を捜す。頭の中はその文字でいっぱいだったのに、今となってはなにひとつ思い出せない。
「……で、どうしたんだよ」
元気そうな彼女の顔に安堵しつつため息をついた僕は、何があったのかを真っ直ぐ彼女に聞こうとしていた。
「ちょっと病気になっちゃっただけだって。すぐ治るから」
そうやって、いつもみたいに笑う。もしかしたらこのときの僕は、君の笑顔を見たくなかったのかもしれない。それはどうしてか、君が無理をしていると思ってしまったから。
すぐ治る、なんてそんな言葉に甘えていたいのはそうだったし、何よりすっと綺麗事で終わらせて欲しかった。何も気に留めることなんてない、只の病気。そう言って聞かせて、流してしまいたかった。
だからこのときの僕は、それ以上何も彼女に聞くことはしなかった。きっと何もない、そう思い込んでいたから。
ただ、それから二日後に容態は悪化した。彼女に幾つもの針が刺され、管が通された。見たこともない機械から不穏な音が響いて、僕はその一端をただ飲み込むことも出来ず、見えないところで彼女の命を願うしかなかった。
「あ、葵くん。おはよ」
少し良くなったのか、ベッドの上の彼女はまたそう言って微笑む。
「もう、無理はしなくていいから」
「はは、もう、誤魔化せないね」
そして僕は、彼女の病気を知ることになった。
転校してくる前から、ずっと重い病気であったこと。動けるほどに状態が良くなり、本人の希望で今の学校に転校してきたこと。
「葵くんに会うために、来たんだよ」
へへ、と得意げに笑ってみせる。いつもの彼女の冗談だ。いつも通り。そのはずなのに。
その笑顔を見る度に、僕の心は少しずつ締め付けられていく。
無理して笑わないで、と言ってしまいたくて。だけど、苦しんでいてほしいとも言えない。
どうすることもできない僕は、まるで足を取られるように、まどろみの中へ深く沈んでいくようだった。
――
「海に行きたい」
だなんて、最初は冗談だと思っていた。
無機質な白い部屋で天井を見つめる君の口から、そんな言葉が出るなんて思っていなかったから。
やっと、冗談が言えるくらいに気力が戻ったのかとほっとしていた。でもどうやら、彼女は本気だったらしい。
「今の状態なら、外出も許可できます」
信じられなかった。少し前までは食事も難しかったのに。今こうして、笑顔で僕の隣を歩いている。何もなかったように。僕が、そうであってほしいと願っていた通りに。
「ねえってば。聞こえてる?」
「あ、あぁ。ごめん」
またこうして、遠くを見てしまっている。隣にいる君が、どうしようもなく遠くに感じてしまう。
波打ち際、いつも通り君と他愛もない話を駄弁りながら歩く。サンダルの奥に入り込んだ砂の温度を確かめながら、一歩、また一歩と、どこを目指すわけでもなく歩き続ける。
このままどこへ行くのかなんて、僕も彼女も知らなかった。ただそこにあるのは、終わらないとさえ感じてしまっている時間だけ。永遠にも近いその一瞬の連なった一縷を、ただ必死に紡いでいた。
「ねえ、来年もさ。来られるといいね」
「……うん」
そう。これは最初から、君の言い出したこと。
「そうだね。来年も、一緒に」
その言葉が妙に心残りで、奥歯で強く噛み締めた。思えばもうこの時には、僕は無理だとわかっていたのかもしれない。
その報せを聞いたのは、潮風に凪いだあの日からほんの少し。たった一月先だった。
「はぁっ、はぁっ」
バタン、と廊下中に音が響く。
何かを引き戻すように扉を勢いよく開けた。
その奥に広がる、見慣れた無機質な光景。でもその中で一人、もう僕の識らない誰かになっていた。
受け入れたくない現実を直視する度に、何かが爆ぜる。それはゆっくりと、やがて僕の心を包んでいった。
「なあ、嘘だろ」
消えない
「おい、おい」
消えない
「また一緒に行こうって、約束したじゃんか」
消えない、あの日の波の音が。僕の記憶を鮮やかに掻き消した。
そして波が引くたびに少しずつ。僕は君のことを忘れる。
――
筆を手に取る。灼けるような青を手に真っ白なキャンバスを前にしたところで、描けるのは海と空だけであった。ただ目に見えているものを描き写しただけで。
それなのに未だに、誰かの姿が消えない。風に揺られただ風を竢つ、誰かの背が。本当はいたはずなのに。
「っ……」
また、耳鳴りが僕を襲った。波の音にも似た、あの夏の音だ。煩くて、煩わしい。
そのノイズに掻き消されるまま、そこに視ていた誰かの背は消え失せてしまった。
この音がする度に僕は、
僕は、
「僕は一体、何がしたかったんだろうな」
目を閉じれば思い出すのは、いつもあの日のこと。退屈を再演した、あの夏の記憶。
もう何回繰り返して、今僕はここに居るのだろう。
あと何回繰り返して、僕は君を忘れられるだろう。
そう、もうずっと前に気付いていた。
耳鳴りなんかない。この音は、嫌に僕を蝕む、あの忌々しい音は。
二度と戻らないと知った、あの夏の音。
君の声を掻き消した、あの波の音。
今もそこで一人泣いている。
失ってしまったあの夏を。咽せ返る程に苦しい、あの黒い夏を。思い出す度に、酷い眩暈が僕を襲う。
誰もいないキャンバスに描いたのは、黒塗りになった君の顔。思い出したくないと、波に掻き消させたあの笑顔。たった一つ、思い出すことができたのなら。
涙も出ないまま、胸の奥に引っかかった言葉を押し戻した。誰にも届かないと知っていたから。
これはそう。
思い出したくもない、最悪の思い出。




