タイトル未定2026/03/17 09:21
私の前に座る患者は何も言わずにただ俯いて小刻みな震えを見せてそこにいる。しかし、彼が口を開かずとも、私には彼の複雑な感情が痛いほど伝わってきた。全ての感情が綯い交ぜになって絡まったコードのようになっている。その絡まりを解きほぐすのが精神科医である私の仕事だ。雨音が窓を叩く音だけが響く診察室で、私はなるべく穏やかな声で語りかけた。
「今日は来てくれてありがとう。」
彼は俯いたまま小さく頷く。私は続ける。
「何か話したいことがあれば、なんでも言っていいからね。」
「はい。」
彼は消え入りそうな声で答えたが、その後が続かないようだった。私は彼が話し出すまでじっと待った。彼の呼吸音すら聞き逃すまいと耳を澄ませる。
「……先生の話を聞かせてください。」
彼は消え入りそうな声でそう言った。私は微笑んで頷いた。
「最近、私はね観葉植物を育てるのに凝っているんだ。慣れないうちはすぐ枯らしてしまったんだけどね、最近やっとコツがわかってきた。青々とした葉が茂っているのを見ると達成感が湧くんだよ。」
彼は俯いたままだったが、小刻みな震えは消えていた。聞き手に回るほうが彼にとって負担が少ないのだろう。。少しでも心を開いてくれているだろうかと、私は話しながら彼の表情を観察した。
彼はまだ俯いたままだ、しかし視線だけ私の方へ向けていた。
「これぐらいの小さなポットに入れていてね、机に置いているんだけど、とても可愛いんだ。」
彼は頷きもしなければ笑いもしなかった。
「もう一つ買ってみようかなと思っているんだ。」
私はそう言って笑いかける。相変わらず彼は表情を変えない。その瞳は鈍く光を反射している。彼の唇が微かに震えた。
「……モンステラ。」
「え?」
「先生が育てているのはモンステラですよね。」
私が言葉を続ける前に彼が口を開いたので少し驚いた。彼は視線を私から外さずにそう言った。私は思わず聞き返す。
「どうして分かったんだい?」
私は目を見張った。どうして私が育てている観葉植物が何かが分かったのだろう。彼は私の質問には答えずに淡々と続けた。
「先生、エアコンの風が直接当たる所に置いていますよね。あれじゃあまた枯らしてしまいますよ、それから日光に当てたほうがいいと思って直射日光に当てようとしていますけどあれも駄目です。葉焼けして、せっかくの緑が台無しになってしまいますよ。」
何故、それを知っている?観葉植物の話をするのはこれで初めてのはずだ。私が観葉植物をどこに置いているかなどは分かるはずがない。まして私の行動ならなおさら。
「レースカーテンを通した日光が一番丁度いいんですよ。」
そこで彼はついに顔を上げた。私は思わず息を飲む。その瞳に光はなく、闇をもとかす暗い漆黒がそこに佇んでいた。身体の体温が一気に下がっていく。
彼はゆっくりと口を開いた。
「渡村先生、僕の話を聞いてくれますか。」
私は思わず椅子から立ち上がりそうになったがそれはできなかった。指先が凍り付いてしまったように動かない。
彼の口から言葉が紡ぎ出されるのを、私はただ見ていることしかできなかった。
彼は言った。
「ずっと淋しいんです、淋しくて淋しくて堪らないんです。」
私は何も言えなかった。
雨音はとっくに消え私の耳は彼の言葉しか拾わないようだった。
私は何もできなかった。ただ、彼の目を見ていることしかできなかった。
「だから、先生、」
今、違和感に気付いた。どうして今更気が付いたのか、おかしなところはいくらでもあったはずなのに、どうして。
どうして今この瞬間まで気付かなかったのか。
「先生も一緒に、」
彼の手が、細い手が、白い白い手が、私の腕を掴んだ。
私は思わず振り払おうとしたがそれはできなかった。恐怖が私の身を凍りつかせている。
愚かにも私はそこでようやく理解した。
彼は、
「あぁっ!!」
私はベッドから跳ねように起き上がった。ここは私の家だ、窓の外はまだ暗い。冷たい汗が首筋を伝い、心臓がどくどくと波打っている。荒い呼吸を整えた。
夢を見ていたのか、私は。
____彼は明らかに人間ではなかった。この世のものではないなにかだと理屈ではなく本能で分かった。彼のことは一切知らない。それは絶対断言できる。患者で一度も会ったことがないし、顔も見覚えが無い。それなのに、彼は確かにそこにいた。。夢がまるで現実のようだった。
私は頭を抱えた。もうなにがなんだか分からない。
見やった時計の針は丁度午前2時を指し示していた。
私は再びベッドに横になった。もう眠る気などなかったし、目を瞑ることすら恐ろしくてたまらず眠れるとも思えなかったがそうせざる負えなかった。今日は診察がある。少しでも体を休めなければ。
私は目を閉じた。……忘れよう、アレはただの夢だったと思おう。
瞼の裏に、あの闇がこびりついて離れない。
「先生」と私を呼ぶ声が耳から離れない。
「渡村先生?」
「ああ、すみません。なんでしょうか?」
「いえ、ぼうっとしていらしたので、お体の具合でも悪いのかと。」
「いえいえ大丈夫ですよ。ありがとうございます。」
「そうですか、それなら良いのですが……最近とてもお疲れのようですし心配です。」
正直なところ大丈夫ではない。あの日を境に私は繰り返しあの夢に苛まれ、眠ることすらままならなくなった。
睡眠導入薬も、精神安定剤も一向に効く試しがなかった。
夢の中で彼と対話を試みようとしたがそれも駄目だった。顔を上げた彼の目を見ると恐怖で身がすくみ、何もできなくなってしまう。そして最後に彼から腕を掴まれ「先生も一緒に」と言われる。掴まれた場所から体温が奪われていき、確かに迫る死の恐怖を感じながら夢の中で意識が事切れ、そして痛いほど波打つ心臓の音とともにまた目覚めるのだ。
「ご心配をおかけしてすみません、本当に大丈夫ですよ。」
しかしそれを患者に悟られてはならない。私は医者だ、人の心に寄り添う精神科医なのだ。
それでも憔悴しきり最近では取り繕うのも難しくなってきた。病院に行っても解決しない、家にいては気が狂ってしまいそうになる。もうどうすることもできなかったのだ。一度古い友人に相談してみることにした。彼ならばこんなオカルト的な話をしても馬鹿にはしないだろうし、会って話せば気が楽になるかもしれない。
大学からの友人、須田に「久々に会おう」と電話をして近くのカフェで彼と久々に再会した。彼は私を見るなり驚いた顔で駆け寄ってきて肩を掴んだ。
「渡村、久々に電話を寄越したと思ったらかなりやつれているじゃないか!どうしたんだ?」
久方ぶりの人の体温に安堵しながら私は須田に夢のことを話した。
「いや、それが……」
笑い飛ばしたりせず彼は親身になって聞いてくれた。やはり持つべきものは友である。
「睡眠導入薬も精神安定剤もなんならカウセリングも受けた、それでも治らないんだ。」
「そうか……それは相当まずいな。なぁ、それってやっぱり精神上の問題じゃなくて、幽霊とかそのあたりの問題じゃないか?」
「ああ、そうなるだろうな……もうどうしたらいいか……」
私はオカルトが苦手だ。なぜならば怖いからだ。故にそういった類のものは全てフィクションであると信じていた。だが、今まさにそのオカルトが形を成して私に襲いかかってきている。ここまで来たらもう嫌でも信じざるを得ない。
須田は暫く考え込んだ後、思いついたように言った。
「霊媒探偵だ……」
「なんだって?」
「霊媒探偵だ!渡村、お前今ネットで流行りの霊媒探偵を知っているか?」
「いや、初耳だ。」
「俺も最近知ったんだがな、これがなかなか評判らしいんだ。」
霊媒探偵とはなんだろうかと私が怪訝な顔をすると、須田は説明を始めた。
「霊媒探偵はその名の通り、探偵としての仕事だけじゃなく、依頼者の依頼を受けて幽霊を祓ったり、科学では証明できない超常現象を解決したりするんだそうだ。」
なるほど、渡りに船、天から垂らされた蜘蛛の糸だ。確かにそれは私の悩みを解決するかもしれない。ただ…
「その探偵は腕は確かなのか?」
「ああ、探偵のファンホームページがあるくらいだ。ほら、これを見てみろ。」
須田はそう言って私にスマホの画面を向けた。そこには霊媒探偵によって解決された事件と依頼者の感謝の言葉がずらりと並んでいる。事件は浮気調査や猫探しのごくありふれたものもあったがほとんどが都市伝説の調査、霊媒などの怪事件解決だった。
「探偵としての腕も霊媒師としての腕も確からしいな。」
ホームページを下にスクロールしていくと新聞の切り抜き写真で『行方不明者発見、きっかけは探偵の助言』とあった。
「どうだ?行ってみるか?その探偵の事務所はここからそう遠くないところにあるらしいぞ」
その住所は奇しくも、
「……私の職場の近くだ……」
須田は笑った。
「なら話が早いじゃないか、仕事終わりに行くのに丁度いいじゃないか。行ってこいよ。」
須田の言う通りに私は仕事終わりの土曜日(午前中に問診が終わるため)その探偵事務所に行ってみることにした。
探偵の事務所は2階建てになっており、その2階階部分が仕事場所になっているらしかった。階段を上がり、『霊媒探偵事務所』と小さな看板がかかったドアをノックする。
「はい」
若い女性の声がして、ドアが開かれた。「こんにちは、霊媒探偵事務所へようこそ。渡村仁さんですね?」
そう言って彼女は微笑んだ。
その女性は丸い眼鏡をかけた20代ほどの若い娘で、長い亜麻色の髪を後ろで一つに括り、白いシャツの上に黒いベストとロングスカートを着用していた。
「はい…あの、あなたが霊媒探偵さんでしょうか?」
「え?ああ!違います、私はここの大家兼探偵の世話係の波戸と申します。探偵さんなら中でお待ちです」
身構えていた私は面食らった、てっきりこの娘が霊媒探偵かと思っていた。彼女は私の様子を気にも留めずに案内して短い廊下の突き当たりにあるリビングへと通した。
高級そうなテーブルを挟んで二脚の革張りのソファが向かい合わせに置かれており、その片方に彼はいた。
足の踏み場もないほど床には本や書類が散乱しそれを避けながら彼に近づいた。
細身で端正な顔立ちをした青年だった。彼は私の姿を認めると立ち上がって微笑んだ。
「どうも、渡村さんですね。」
左手を差し伸べられ、握手を交わすと思いのほか強く握られる。
「お初にお目にかかります、霊媒探偵の
八角清史郎と申します」
「は、はぁ……」
彼の纏う独特な雰囲気もそうだが身長がかなり高い。体をを折り曲げて椅子に座っていた時はわからなかったが、2メートル近くはあるのではいか?
「さて、どうぞ座ってください」
床に散乱している本や書類を文句を言いながら片付けている波戸さんを軽くあしらい八角さんは私にソファに座るよう促し、自らもその向かいに腰を下ろした。
「悪夢に魘されているようで……ふむ、彼は貴方の患者ですか?」
私が何も話さないうちに、彼は瞬時に言い当てた。
「そうと言えばそうなのですが…」
「現実では彼に会ったことが無い、夢の中での問診だったわけですね?」
「はい、どうして分かったのですか」
「『見た』までです」
彼は涼しい顔でそう言った。
「貴方に憑いている霊を、といっても霊の残滓ですが」
「それは一体どういう……」
そんな非現実的なこと、いや、しかし今私が直面しているこの事態も十分に非現実的だ。今更霊が見えるところで驚いていてはキリがない。
「どうやら彼は地縛霊のようだ、貴方に憑いて来れなかったのはそれが理由でしょう。
さて、詳しいお話をお聞かせください」
私は起こった全てのことを仔細に語った。
「ところで渡村さん貴方の住んでいる場所はここですか?」
八角さんがテーブルの上に地図を拡げて言った。私は彼の指差す場所を見た。
「はい、そうです」
「貴方の話を聞く限り霊は夢を通してなら接触できるようですが、それ以外は全く動けないようですね。いや、的が動かないのは楽ですね」
「はぁ」
「しかし、少々厄介ですね……」
「厄介とは?」
「貴方に取り憑いている霊はどうやら淋しいという感情で取り憑いている。淋しいという感情を持った霊は人だけではなく別の霊までも取り込んでしまうのです。そうなるとかなり面倒なことになります。」
「面倒とは」
八角さんは私の言葉を遮るように続けた。
「まあ、その話は後ででもできます。まずは霊を祓うのが先決ですね。それでは貴方はここでお待ちになってください。ちょっといいですか波戸さん」
八角さんはリビングで書類を纏めている彼女に声をかけた。彼女は手を止めてこちらを見た。
「はい?」
「これから仕事に行ってきますのでタクシーの手配と、渡村さんをお願いしますね。」
「わかりました」
彼女は笑って書類を机に置いて電話器へと向かった。八角さんは私の方を見る。
「それでは、もう安心してよろしいですよ。霊はすぐに祓いますので、今夜はゆっくりとお休みください。」
そう言って彼は立ち上がり、踵を返して玄関へ向かった。
「あの、待ってください!」
私は思わず呼び止めた。彼は怪訝そうに振り向く。
「何か?」
「私も、その……連れていってくれませんか?」
彼は暫く黙って私を見つめていたが、やがて眉をつり上げると口を開いた。
「何故?」
「彼を助けたい。」
幽霊であれ、仮にも彼は私を頼ってきたのだ。医者が患者の問診を投げ出してどうするというのか。最後まで向き合わねば、それが私の信条だ。
八角さんはくっと口の端をつり上げると、
「取り憑かれていた身であるのにそのようなことを言うのは貴方が初めてです」
くつくつと笑いを噛み殺しながら八角さんは続けた。
「ただし危険が伴うかもしれませんよ。それでもよろしいなら」
私は力強く頷いた。
「貴方は良い医者だ。それでは行きましょうか。波戸さん、留守を頼みます。」
「はい、お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
彼女はそう言って私たちを見送った。
事務所のすぐ側で停止しているタクシーに乗り込み、八角さんは運転手に行き先を告げた。外はすでに日が沈みかけ、橙色のグラデーションを織りなし空と街は混ざり合う。夕焼け空はそういった境界を曖昧にしてしまい少し不安な気持ちにさせる。
「渡村さん」
八角さんが話しかけてきた。私は窓の外から視線を彼の方へ移す。
「はい?」
「恐ろしいですか、これから行く場所は」
私は少し考えた。恐ろしいか、そう問われれば答えはいいえとはいかないが、それでも私は行く。
「私は医者です。患者を見捨てることはできません」
八角さんは一瞬きょとんとしたが、またすぐにくつくつと笑いを噛み殺した。
「貴方は良い医者だ」
事の発端である私の家の前に着くと、八角さんはタクシー代を全額支払ってさっさと降りてしまった。その後を急いで追いかけて私は八角さんの隣に並んだ。
「八角さん!お代は私が」
「いいえ、ここは私が。貴方のお陰で面白いものが見られそうですから。」
「面白いもの?」
「ええ、貴方の部屋は確か三階でしたね」
「え?あ、はい」
八角さんは私の言葉も聞かずに颯爽と階段を上がり始める。三階に着くと、迷いもなく八角さんが足を止めたのは315号室だった。
「ここですね」
「どうしてここだと分かったのですか?」
「言ったでしょう?私は霊が見えるのです。」
彼は私から鍵を取り上げ鍵穴に差し込み回すと、そのまま中へ入ってしまった。私も慌ててその後に続く。八角さんは靴も脱がずにずんずんと奥へ進んでいき、やがてリビングへと辿り着いた。
賃貸だからせめて靴は脱いで欲しい。
「さて、」
八角さんは部屋を見渡した。
「くだんの霊は…」
彼はリビングのテーブルをとんとんと神経質な指で叩く。
「あなたですね」
私は八角さんの指差す場所を見た。当然だが全くもって見えない。
「その、私には何も見えないのですが」
「そうでしょう、貴方には霊感が無い。」
八角さんはくすりと笑って答えた。からかわれたのだろうか。
「では、少し失礼しますよ。」
彼は私の後ろに回り込むと、私の肩に手を置いた。
「目を閉じてください。」
私は八角さんの言葉に従って目を閉じた。突然、雨音が聞こえ始め目を開けると私はいつの間にか夢の中と同じ診察室に立っていた。隣には八角さんも一緒に立っている。
「先生、どうしてですか」
閉じた扉の向こうから声が聞こえる。
「先生、どうしてですか」
扉の向こうにいたのは彼だった。
「先生、ねぇ、どうして?」
彼の声は段々と大きくなりやがて診察室中に響いた。しかし不思議と恐怖心は無くなっていた。それどころか穏やかな気持ちでさえいる。
「入ってきてどうぞ」
私は扉の向こうにそう声をかけた。
「先生、どうしてですか」
彼は診察室に入るともう一度そう言った。
「先生」
彼は私に近づくと私の白衣の襟をぐいと掴み上げた。八角さんはその様子をただ黙って見つめている。
「先生は僕を見捨てるんですね」
「違うよ。」
「違わない!」彼は私の襟元をさらに強く掴み上げる。
「どうして一緒にきてくれないんですか?」
私は彼の目を見た。その瞳は涙で濡れている。その涙は雨のように止めどなく流れ落ちる。私は彼を抱きしめた。
「ごめんね、私は一緒には逝けないんだ。妻と約束したからね。」
彼は驚いたように目を見張り、そして私の胸に顔を埋めて泣いた。
「君の話を聞かせてくれるかな」
「はい」
彼は私の胸から顔を離し、涙で濡れた顔を拭った。
椅子に座ると彼はぽつりぽつりと話をした。彼の住んでいた家は火事になり、家族全員焼け死んだこと、その後親戚をたらい回しにされたこと、そして誰にも愛されなかったことを話した。
「僕はこのマンションがここに建つ随分前に事故で死にました。トラックに轢かれて、」
彼は自分の両手を見つめ、ぐっと握った。
「即死を免れたせいで、痛くて苦しくてたまらなかった。その中でこのまま誰にも愛されないまま死んでいくのは嫌だと強く想ったんです」
だから幽霊になって長い間ここに留まり、取っ替え引っ替えに取り憑いては治らない傷を癒そうとしたのだと彼は言った。
「このマンションができてからは色んな人に取り憑きました、でも誰も僕の苦しみを分かってはくれなかった。」
「そうだったんだね」
私は彼の頭を撫でた。彼は嬉しそうに目を細める。
「けど、先生ならわかってくれると思いました。僕の名前も知らなかったのに、僕のことが怖かったはずなのに、僕の話を真剣に聞いてくれた。今までごめんなさい、先生」
彼は椅子から立ち上がって私に頭を下げた。
「君が謝る事なんてないよ、私も君からにげようとしてごめんね。」
私が頭を上げると、照れたように笑っていた。そして私に手を差し出す。
「先生、握手してくれませんか?」
私は彼の手をそっと握り返した。彼の手は温かかった。まるで生きている人間のように。
晴れ晴れとした顔で彼は嬉しそうに笑った。
「渡村先生、ありがとうございました。もう大丈夫です」
彼は立ち上がり、診察室の扉に歩いて行った。
扉を開けて出ていく彼の背中に私は声をかけた。
「お大事に」
彼は振り返ってまた微笑んだ。
そして、そのまま扉の向こうに消えていった。それと同時に私の意識も浮上し始め、目を開けるとそこには八角さんの顔があった。どうやらずっと肩を貸していたようだ。
「大丈夫ですか」
そう言って八角さんは私から手を離した。私も立ち上がるが頭がくらくらする。
「はい、なんとか」
私は頭を押さえながら答えた。八角さんは私の顔を見てくすりと笑った。
「凄いですね、まさか霊を祓う力がないのに成仏させてしまうとは。私の出る幕はなかったようだ」
「私は何もしていませんよ、ただ話を聞いただけで、彼は自分で成仏したのです」
八角さんは一瞬驚いた顔をしたがすぐにまたくつくつと笑い出した。
「貴方は本当に面白い方だ。ますます興味が湧きました。」
そう言って彼は私に右手を差し出した。私もそれに応える。
「ありがとうございました。八角さん」
「礼を言うのはこちらのほうですお陰で楽しい体験ができました」
私は八角さんの手の感触を名残惜しく思いながらも手を離した。
「それでは、これで失礼します。」
彼は踵を返して玄関へと向かった。私は慌てて後を追いかける。
「あの!またお会いできますか?」
彼にそう問いかけると、八角さんは一瞬動きを止めてから振り返って言った。
「ええ、もちろんです。近いうちまた会いましょう。渡村さん。」
そう言って彼は玄関の扉を開けた。外はもうすっかり暗くなっていた。蛍光灯の白い光が八角さんの姿を照らす。
「それでは、また」
彼は軽く会釈をして出て行った。私は彼の姿が見えなくなるまで見送った後、リビングへと戻った。テーブルの上には彼が置いていったのであろう名刺が置かれていた。そこには『霊媒探偵事務所』と記されていた。
それから数日後のこと、仕事を終えた私が自宅のマンションに帰ると私の部屋の前に八角さんが立っていた。彼は私に気がつくと片手を軽く上げて挨拶をした。そしてそのまま私に近づいて来る。
「こんばんは渡村さん、引っ越しの準備はもう粗方終わりましたか」
「な、なぜそれを」
「名刺のウラに書いたメッセージを無視する訳がないと分かっていましたからね、それに貴方のあの荷物の量ならもう粗方片付いている頃でしょう」
そう、彼が残した名刺の裏には『また取り憑かれたくなければ早いこと引っ越したほうがよろしいですよ。』と書かれていたのだ。
「いや、そこまで分かるとは、本当に凄いですね。しかし、荷物は纏めただけでまだ住む場所は決まっておらず……ここ数日は職場からは少し遠いですが友人の家に泊めてもらっております」
「賢明な判断です」
彼は満足そうに頷いた。
「住む場所に困っているのであればいい場所を知っていますよ。家賃は少し高いですが、貴方の職場近くですし、何より広い。」
「本当ですか!?」
私は思わず身を乗り出した。
八角さんは目を細めて笑う。
「ええ、ただ少し変わった住人が住んでいますがね。勿論家賃は折半です。同居になりますが、それでもよろしいですか?」
「一度ルームシェアをしてみたいと思っているので、是非紹介をお願いします!」
私は即答した。八角さんはまたくすりと笑った。
「それでは契約成立ですね、ではこれからよろしくお願いします」
「え?」
「え?、ではありませんよ。私は貴方をルームシェアに誘うためにここに来たのですから」
「それか迷惑でしたか?」彼は少し不安げな顔をした。
「いえ!そんなことは!」私は慌てて否定した。正直言うととても嬉しいのだが、こんな好条件でいいのかという不安もある。
「それなら条件をつけましょう」
私の心を察してか八角さんはそう言った。
「条件ですか?」
「はい、なぁに簡単なことですよ」
八角さんは人差し指を立てて言った。
「私の助手になってください」
「へ?」私は思わず間抜けな声を出してしまった。
「助手、ですか?」
「ええ、そうです」八角さんはにっこりと微笑んだ。
「私が霊媒探偵をしていることはこの前お話しした通りですが、この仕事をする上で色々と面倒な手続きや雑務も多いのです。そこで貴方が私の助手として働いてもらえればこちらも助かるというわけです。望めばお給料もお出ししましょう。ね?難しくない話でしょう?」
私は一瞬固まったがすぐに気を取り直して答えた。
「もちろん!喜んで引き受けさせていただきます!私でよければこれからよろしくお願いします!八角さん」
彼の仕事を手伝えるとは。これほど名誉なことはない。
八角さんは満足そうに頷いた。
「僕のことはさん付けでなくていいよ、それに敬語も。僕も君のことを渡村君と呼ぼう。」
「おお…」
いきなり砕けた口調に少し驚いたが、不思議と嫌な気分はしなかった。
「それじゃあ、八角……くん、でいいかな?」
「うん、それで構わないよ。」
これからどんな生活が待っているのか、想像するだけで胸が踊る。
こうして私は探偵の助手として彼とともに暮らすことになった。




