第72話 神獣、筋肉に目覚める
――時間を、少しだけ遡る。
天界。
統括の私邸、その庭。
芝生は整えられ、魔力の循環も安定している。
神獣が全力で走り回っても問題のない、いわば“実験場”のような空間だった。
その中央で、
三つ首の神獣ケルベロスが、全力で遊んでいる。
「きゃはは! エレブス、こっちだよ!」
「待て待て、ハナ!」
「捕まえられるかー!」
三つの首がそれぞれ勝手に叫び、
尻尾を振り回しながら庭を駆け回る。
それを追いかけているのは、闇の神エレブス。
いつもの黒い、少し大きめのタンクトップ。
体格に対して明らかにぶかぶかで、
神としての威厳よりも「動きやすさ」を優先した服装だった。
「待ちなさい! クロ、速すぎます!」
息を切らしながらも、その顔は楽しそうだ。
私は縁側に腰を下ろし、その光景を眺めていた。
「……ケルちゃん、は流石に安直かな」
名前の話だ。
「でも、べろちゃんもなぁ……」
三つ首というだけで、呼び名の難易度が跳ね上がる。
まあ、今はいい。
「おーい、ポチ達」
声をかけると、三つの首が同時にこちらを向いた。
「どうだ? エレブスと遊ぶの、楽しいか?」
「うん、楽しいよ!」
「最高だ!」
「もっと遊びたい!」
即答だった。
エレブスも足を止め、胸に手を当てる。
「父上、僕も楽しいです」
その声には、遠慮も計算もなかった。
ただ純粋な感情。
エレブスは、私を尊敬している。
それも、疑いようがないほど真っ直ぐに。
――いつか、父上以上に“神”になる。
そう本気で思っている目だった。
「そうか。それは良かった」
私は軽く頷いた。
少し間が空いて、
ふと、思いつく。
「なあ、ハナ」
中央の首が首を傾げる。
「なに?」
「もっと遊びたいならさ」
「もっと楽しいこと、するか?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「やる!」
「する!」
「もっと楽しいこと!」
三つの首が、完全一致で飛びついた。
エレブスが、不安そうに聞く。
「父上……なにをするんですか?」
私は立ち上がり、軽く肩を回した。
「それはな――」
数分後。
庭の中央に立つエレブス。
黒のぶかぶかタンクトップの下、腕にはしっかり力が入っている。
その両手には――50キロのダンベル。
「……父上」
「大丈夫だ。神だろ」
背後では、ケルベロスが腰を落としていた。
「準備いいか?」
「うん!」
「落とすなよ?」
「わかった!」
ドンッ、と地面を蹴る音。
ケルベロスが、高く跳んだ。
「わーい!!」
「高い高い!」
「もっと高く飛んで、クロ!」
「よし、わかった!」
さらに深く屈み、再ジャンプ。
「バランスは俺が取るぞ!」
「ありがとう!」
「エレブス、ダンベル落とさないように気をつけてね!」
「はい! 僕もハナと一緒に強くなります!」
その声は、少し誇らしげだった。
尊敬する父の前で、
神として成長している自分を見せたい。
そんな気持ちが、はっきりと伝わってくる。
私は下から声をかける。
「もっと低く屈め!」
「筋肉に負荷が乗る!」
「「「「はーい!」」」」
返事だけはやたらと良い。
――地獄の門番、というくらいだ。
筋トレが必要なのは当然だろう。
エレブスも強くなる。
ケルベロスも楽しむ。
問題は、何もないはずだった。
数日後。
私は、何気なくステータスを開いた。
「……ん?」
もう一度、見る。
「……?」
三度目。
「…………」
表示されていた数値。
【ケルベロス Lv.5000】
「……」
私は、その場で膝から崩れ落ちた。
「上げすぎた……」
完全に。
「いや、他の神より強くなってないか?」
ケルベロスは、尻尾を振る。
「強くなった?」
「楽しかったよ?」
「またやる?」
エレブスが、恐る恐る聞いた。
「父上……これは、良いことですよね?」
私は少し黙り、空を見上げる。
「……後でウェスタに怒られるな」
確実に。
「……黙っとこ」
神獣と筋トレの相性が、良すぎただけだ。
誰も悪くない。
少なくとも、今は。
その日も庭では、
神と神獣の、少しズレた“遊び”が続いていた。
それを知るのは、
もう少し、先の話だ。




