第70話 崩壊の始まり
森は、音もなく壊れ始めた。
最初に異変に気づいたのは、エルフでもダークエルフでもなかった。
森に住む小動物たちだった。
リスが巣を捨て、鳥が枝を避け、鹿が森の外縁へと集まり始める。
理由は誰にも分からない。
ただ、居てはいけないと、本能が告げていた。
だが――
森の中央に座す者たちは、それに気づこうともしなかった。
世界樹の残骸が、まだ地に横たわっている。
折られた幹は腐り始め、かつて森全体に巡っていた魔力の循環は、
今や“淀み”へと変わっていた。
ハイエルフたちは、それを見て眉をひそめただけだった。
「……森が騒がしいな」
「気のせいだろう」
「どうせ、また下等種族が何かやらかしたのだ」
彼らは立ち上がらない。
調べようともしない。
責任を負おうともしない。
――森はある。
――怠惰が好きだ。
自ら選んだその言葉に、何一つ疑問を抱かぬまま。
森の外縁。
ダークエルフの集落では、地面がひび割れ始めていた。
かつて闇の加護で支えられていた土地は、
森全体の魔力低下により、均衡を失いつつある。
「……来るぞ」
ケルベロスの三つの首が、同時に低く唸った。
燃やす首が、空気の異変を察知する。
冷ます首が、湿度と魔力の歪みを感じ取る。
癒す首が、すでに“治せない傷”の気配を嗅ぎ取る。
「森が、死に始めてる」
その言葉に、ダークエルフたちは沈黙した。
彼らは戦いを選び、敗れた。
だが、それでも森を守ろうとしていた。
「……上は?」
「何もしない」
短い報告。
それだけで、すべてが伝わった。
一方、エルフの里。
光の加護を受けた彼らは、被害こそ少なかった。
だが、その“無傷さ”こそが、異常だった。
森が弱っているにもかかわらず、
彼らの生活は、ほとんど変わっていない。
「ハイエルフ様が何とかするだろう」
「神なのだから」
「我々は信じて待てばいい」
信仰は、行動を止める理由になっていた。
誰もが、待つことを選んだ。
そして――
待つことが、最悪の選択であると、まだ誰も知らない。
天界。
ウェスタのタブレットが、静かに警告を重ねていた。
【魔力循環率:低下】
【森林自浄機能:停止間近】
【生態系崩壊:予測開始】
「……始まったわね」
アウローラが低く呟く。
「ええ。
しかも、これは“事故”ではありません」
デーメーテールの声は、珍しく硬かった。
「完全に、人為的な怠惰の結果です」
統括は、画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
ハイエルフは選んだ。
エルフは任せた。
ダークエルフは抗った。
――そして、森は。
「……まだだ」
統括は立ち上がらない。
「まだ、選択は終わってない」
だが、その拳は、わずかに握られていた。
下界。
夜。
森の奥で、一本の古木が音もなく倒れた。
それは誰にも気づかれず、
誰にも悼まれず、
ただ、静かに朽ちていく。
だが――
それは、最初の一本だった。
この日を境に、
エルフの森は“衰退”ではなく、
崩壊という段階へと踏み込んだのである。
そして、まだ誰も知らない。
この崩壊が、
誰の選択によって止まり、
誰の怠惰によって取り返しのつかないものになるのかを。




