第29話 勇者、戦場へ
人は、戦争を望まない。
だが――逃げ続けることも、またできなかった。
魔族の軍勢が動き始めてから、すでに数か月。
国境付近では小競り合いが続き、街道は封鎖され、村は空になった。
ギルド本部。
円卓ではなく、ただの長机を囲み、人間たちが集まっていた。
「……また、南で衝突があった」
ギルド代表、マルクスが低い声で告げる。
「被害は最小限だが、向こうは明らかに探っている。
本気で攻める前の、前哨戦だ」
沈黙が落ちる。
そこにいるのは、人間だけではなかった。
エルフ、ドワーフ、獣人。
それぞれが武装し、冒険者として席に着いている。
争いを好む者はいない。
だが、守るために剣を取る者はいる。
「……出ます」
静かな声が、その場に響いた。
視線が集まる。
声の主は、まだ若い青年だった。
黒髪、細身。
だがその目だけは、異様なほど澄んでいる。
「セイン……」
マルクスが名を呼ぶ。
「分かってる。
まだ俺は勇者って器じゃない」
セインは、自分自身を過大評価していない。
レベルは――まだ八十台。
この世界で言えば、上位ではあるが、決定打には足りない。
「それでも」
セインは、拳を握った。
「戦場に立たなきゃ、俺は前に進めない」
止める声はなかった。
それは、逃げではなく選択だったからだ。
戦場は、思っていたよりも静かだった。
魔族の斥候部隊と、人間側の迎撃隊。
規模は小さい。
だが、互いに殺意は本物だった。
「来るぞ!」
怒号と共に、魔力が弾ける。
セインは前に出た。
速い。
魔族の放った魔弾を、紙一重でかわす。
――当たらない。
身体が、勝手に動く。
(……速さが、足りないと思ってたけど)
違う。
「足りないのは、慣れだ」
剣を振る。
当たる。
だが、倒しきれない。
魔族の筋肉は、人間よりも明らかに硬い。
(それでも)
一撃、二撃、三撃。
傷を刻み、退かせる。
セインは気づいていた。
――戦っている間、確実に強くなっている。
経験値という言葉では言い表せない何かが、
確実に、身体と意識を作り替えていく。
「勇者だ……」
誰かが呟いた。
その言葉を、セインは聞かなかった。
聞く余裕などなかったからだ。
その頃。
神界。
世界を映す窓の前で、統括――かつて人であった神は、腕を組んでいた。
「……行ったか」
誰にともなく、呟く。
セインの姿は、小さく映っている。
だが、確かに前に進んでいる。
「まだ、だな」
今はまだ、導かない。
干渉しない。
彼が戦場で積み重ねる一年。
その先で――ようやく、舞台は整う。
別の窓では、魔王の影が揺れていた。
異常な魔力。
異常な筋肉。
「……頑張って鍛えてるねぇ」
誰にも聞かれないよう、小さく笑う。
ふと、統括は首を傾げた。
「……ん?」
魔王が、何か呟いている。
読唇まではできない。
だが、どうにも聞き慣れない音だった。
「ウェ……スタ……ん?」
嫌な予感がした。
その瞬間。
別の部屋から、微かな気配が揺れた。
「……?」
火の神――ウェスタが、ほんの一瞬、肩を震わせる。
「……寒気が」
「え?」
アウローラが吹き出す。
「なにそれw
火の神が悪寒ってウケるんだけどw」
「さあ……なんでしょうかね」
ウェスタは、曖昧に微笑んだ。
統括の頭に、大きな「?」が浮かぶ。
――まあ、今はいいか。
下界では、勇者セインが、確実に歩き出している。
戦いは、まだ始まったばかりだ。
だが――
世界は、静かに次の段階へ向かっていた。




