第5章 星の証明、竜神誕生 第92話 竜神誕生、そしてゴペッ
今日も天界は、平和だった。
雲一つない蒼穹の下、白く整えられた訓練区画。
その中央で、統括は黙々とバーベルを持ち上げていた。
「……ふんっ」
筋肉の収縮に合わせ、床の神紋がわずかに光る。
もはや天界では見慣れた光景だ。
その横で、同じく軽く汗をかきながら報告書を手にしているのが、火の神ウェスタだった。
「本日分の各管理区域の報告です。
大きな逸脱はなし。エルフ側の管理も、管理者が定着しつつあります」
「そりゃよかった」
統括はバーベルを戻し、タオルで汗を拭く。
「しかし……」
ウェスタはふと視線を上げ、雑談めいた口調になる。
「統括が住んでいた“日本”という国では、自然災害が多かったと聞きましたが」
「ああ。多かったなぁ」
統括は少し懐かしそうに笑った。
「地震大国って呼ばれてたし、台風も頻繁だった。
消防士って言っても、火を消すだけじゃない。防災対策、救助、避難訓練……色々やってたよ」
「なるほど……」
ウェスタは静かに頷く。
「この世界が、今こうして安定しているのは、統括の経験も影響しているのでしょうね」
「どうだろ。
ただ、壊れたら困るって思ってただけだよ」
その時だった。
――ピッ。
統括の腰に浮かぶタブレットが、突然淡く光り始めた。
「ん?」
画面が勝手に起動する。
そこに浮かび上がった文字を見て、統括は眉をひそめた。
【神格生成条件:達成】
「……は?」
ウェスタも覗き込む。
「神格生成条件……達成?」
「なんかしたっけ、俺」
統括は首を傾げる。
「神格生成って、あれだよな。
確か……」
ウェスタの表情が、僅かに強張った。
「……もしかして、ですが」
「知ってるのか?」
「理論上は存在します。ただ……」
ウェスタは一拍置いて言った。
「星が完全に安定した時、その“証”として生まれる神格。
ですが、それは本来、もっと長い時を経て――」
「ちょっと待て」
統括はタブレットを指で叩いた。
「そんなイベント、聞いてないんだが」
次の瞬間。
――ぐにゃり。
目の前の空間が、布のように歪んだ。
光が渦を巻き、重なり合い、圧縮される。
そして。
すとん、と。
一人の女性が、そこに立っていた。
年の頃は二十代前半に見える。
黒髪は腰まで真っ直ぐ伸び、瞳は金色――いや、よく見れば“蛇の眼”。
神々しいほどの存在感。
だが、どこか不安定な気配。
「……誰?」
統括が率直に聞く。
女性はゆっくりとこちらを見下ろし、威厳ある声で口を開いた。
「余か?
余は竜神。この星が壊れず、巡り続けた証じゃな」
「……」
「……」
沈黙。
「ちょ、待って」
統括が思わず手を上げる。
「そんな大物、急に来られても困るんだけど」
「困る?」
竜神は首を傾げる。
「余は当然の理として生まれただけじゃ」
ウェスタが小声で補足する。
「統括……彼女が言っているのは事実です。
この星の安定度は、理論上“神格生成条件”を満たしています」
「早すぎない?」
「早すぎます」
即答だった。
その間にも、竜神はゆっくりと歩き出す。
金色の瞳で統括を見据えながら、一歩、また一歩。
「そなたが、この星の創造――」
ゴペッ。
盛大な音と共に、竜神が前のめりに転んだ。
「……」
「……」
「……え?」
統括は思わず声を漏らす。
「おい、大丈夫か!?」
慌てて近寄ると、竜神は床に手をついたまま、むくりと顔を上げた。
「だ、大丈夫じゃ!」
少し頬を赤くして、言い張る。
「まだ人型の体に慣れておらんだけじゃ!
不可抗力じゃ!」
「いや……」
ウェスタは何も言わず、視線を逸らした。
「と、とにかく気を付けてくれ」
統括は苦笑しながら手を差し伸べる。
「俺がこの星の創造神、統括だ」
「うむ」
竜神はその手を取り、立ち上がる。
「統括殿じゃな。
では統括殿、余に名を授けよ」
「……名前?」
「そうじゃ。名が無ければ不便じゃろ」
「急だな」
統括は少し考えた後、肩をすくめた。
「じゃあ……エキドナ」
「エキドナ?」
「俺の生まれた星の神話から取った。
竜に縁のある名前だ」
エキドナは数秒、じっとその名を噛みしめる。
「……随分とあっさりと名をつけるのじゃな」
「深く考えると混乱するからな」
「うむ……」
やがて、彼女は小さく頷いた。
「分かった。
では余は、今日から――エキドナじゃ」
「よろしくな、エキドナ」
「うむ。よろしく頼む、統括殿」
そして、エキドナは胸を張った。
「余が来たからには、この星を慎重に、完璧に、安定した星に――」
ゴペッ。
再び転んだ。
「……」
「……」
「……なあ」
統括は天を仰いだ。
「絶対、これから胃が痛くなる気がする」
床に伏したまま、エキドナは拳を握る。
「こ、これは想定外じゃ……!
慎重に動いておる証拠じゃ!」
「そういうことにしとこう」
ウェスタは静かに報告書を閉じた。
――こうして。
星の安定の証として生まれた竜神は、
誰よりも慎重で、
誰よりもよく転ぶ存在として、
天界に降り立ったのだった。
そして統括は、まだ知らない。
この竜神が、
平和な天界に
新たなドタバタの嵐をもたらすことを。
――胃痛の日々は、始まったばかりである。




