鐘の音
カン、カン、カン、カン──!!
けたたましい目覚ましの音が鳴っている。
布団の心地よい温もりを捨て、厳しい外界に出る決断を迫るその音に、マエリスは眉を顰めながら起き上がる。
「んぅ……仕事行かなきゃ……今何時……?」
近くにあるはずのスマホを探して、周囲のベッドを軽く叩く。しかし右手が探り当てたのは冷たい液晶ではなく、もっと重量感のある温かな存在だった。
「なに……?」
貼り付く瞼を引き剥がし、その正体を目に映せば、それは真っ白な幼女だ。
幼女と同衾……事案……?その事実にサッと青褪め、一気に脳が覚醒する。
(……いや違う。ここは日本じゃない。ボクはマエリスだ)
意識が戻ると同時に、耳障りな音の正体が判別できる。
自分のスマホのアラームは、こんなに甲高く、脳を直接殴るような音をしていない。
まるで時代劇で、この後に「火事だー!」と聞こえて来そうな鐘の音──
「鐘の音……? ……ッ! スタンピード!」
マエリスは跳ね起きた。始まったのだ、『泥の流れ』と呼ばれる災害が。
「んぅ?」
マエリスの大声に、マノンが目を覚ましてもぞもぞと動く。半開きになった紅の瞳がマエリスを見上げていた。
「おはようマノン。ごめんね、ちょっと急ごうか」
マエリスは努めて冷静に振る舞いながら、ベッドの下に手を突っ込む。
着替えなんて後回しだ。今は何よりも優先すべきものがある。
「あった……!」
掴み出したのは、数本の筒。
中には、苦心して書き上げたホバークラフトの魔法陣や、昨日解読した治癒の魔法陣、そしてこれまでに書き溜めた失敗作の束があった。
これさえあれば、戦える。
マエリスは羊皮紙の束をポケットにねじ込み、溢れる分は鞄に詰め込んで、マノンの手を引いた。
「行くよ、マノン。絶対に離れないで」
「うん……おねえちゃ、おと、こわい」
「大丈夫。ボクがいるから」
「慌てないでください! 魔物の群れが来るまでまだ余裕があります!」
「押さないで! おい暴れるな!」
地下の避難所へ続くホールは、既にカオスだった。
屋敷に勤める使用人、そして近隣から逃げてきた領民たちが入り乱れ、怒号と悲鳴が反響している。
「お母さん、パパ大丈夫かな?」
「賢者様……ミシェル様がいらっしゃるんだ、大丈夫だ……!」
「ああ、帝国最強の賢者様が守ってくださる……!」
至る所で聞こえる祈りの言葉。
その対象は、この領地の主であり、マエリスの父であるミシェル・マギカ──『賢者』に向けられていた。
(……お父様)
確かに父は強い。帝国から賢者の称号を賜るほどの魔法使いだ。
だが、相手は数千万の死の泥流だ。
それにマエリスは見てしまっている。その父と共に前線に立つ、母シャーロットの震える指先を。
(二番目の実力者であるお母様があれほど怯える災害に、勝てるの……?)
民衆の祈りは、あまりに細い糸の上に成り立っていた。
「…………」
その空気の異様さに、マエリスは思わず足を止めてしまっていた。
前世で避難訓練の経験はあるが、実際にそれが必要になる場面に遭遇したことはない。
故に、ただ避難するだけだと考えていた甘さは、たった今叩き潰された。
(これが、被災地の空気……)
屋敷に残された騎士や使用人が、必死に避難誘導を行っている。
その中にはリフィの姿も、両親の姿もない。
きっともう、前線で泥流と対峙しているのだろう。
ぎゅ、と手が強く握られる。
見下ろせば、マノンが不安げにマエリスを見上げていた。
「おねえちゃ」
「……大丈夫だよ」
マエリスはポケットの中の羊皮紙越しに、自分の太ももを抓る。
最後に頼れるのは、自分の知識と、この羊皮紙だけ。
(やるしかない)
マノンは絶対に守ってみせる。
周囲の大人たちが賢者への祈りに逃げる中、マエリスだけは戦う覚悟を決めていた。
所変わって、『魔の森』を臨むマギカ辺境伯領境。
気味の悪い程に無風だった。音はなく、声もなく、ただ緊張だけが際限なく高まっていく。
やがて、森の色が様々に変わっていった。赤、黄、黒、茶──様々な体色の魔物たちが、森を抜けようと進軍する。
それは軍勢というよりは、地平線を黒く塗りつぶす津波のようだった。数万、いや数十万の殺意が、物理的な質量を持って防衛線を飲み込もうと迫る。
『泥流』。
迫る地響き。それを裂いたのは、朗々とした詠唱だった。
「全てを破壊する大いなる炎よ、波打ち道示す大いなる海よ、合わさりて天照らす太陽となれ。束ね束ねて帯なりて、彼方と此方を隔てたまえ。この身の力を貪りて、彼岸の境を引きたまえ!」
次の瞬間、地平線から地平線へ引かれた熱線の跡。その大地が膨張し、轟音とともに魔物を吹き飛ばした。
「あなた、詠唱を少し変えたの?」
「あのお転婆の論文を参考にしてね。ご覧の通り想像以上の威力と効率だよ」
末恐ろしいね、とこの光景を作り出したミシェルは言う。
「君も読んでみるといい。我ら魔術師にはとても興味深い内容だ」
「社交の合間にでも、そうさせてもらうわ。これ以上あなたとの差を開けたくないもの」
今度はミシェルの隣のシャーロットが、森に向かって手を伸ばす。
「大地よ、地底より出で聳える大地よ、我が魔力を糧に、その重みを示せ!」
今度は地中から巨大な岩盤が隆起し、魔物たちの方へと倒れ、森の樹々諸共押し潰した。
ミシェルが賞賛するように拍手をしていると、伝令役の声が響く。
「解析出ました! パターン『憤怒』! グレードB! パターン『憤怒』! グレードB!」
「全員接近戦は避けろ! 距離を取って魔法攻撃で仕留めるんだ! 弾幕を絶やすな! 交代体制は頭に入っているな? 無駄撃ちはするなよ!」
「「「応ッ!」」」
戦端が、開かれる。
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