予兆
それは、あと一ヶ月で冬も終わるという日のことだった。
午前の授業を終えて、食堂へ向かう道中。
マエリスは屋敷全体が、異様な緊張感に包まれていることに気づいた。
すれ違う使用人たちの足取りは早く、どこか顔色が悪い。窓の外では、普段は見かけない武装した兵士たちが走り回っている。
「おねえちゃ」
「あれ、マノン。今日は外でお散歩じゃなかったの?」
ロビーのソファに、マノンがぽつんと座っていた。
昨日までなら、この時間は庭で遊んでいるはずだ。
(……外に出せない理由がある?)
マノンと手を繋いで食堂へ向かう。
その小さな手の温もりに安堵しながらも、マエリスの胸中には冷たい予感が澱み始めていた。
「ごちそうさまでした」
「でした!」
「……食後の紅茶です」
リフィがカップを置く。その動作は洗練されているが、カチャリ、という陶器の音が、やけに大きく響いた気がした。
「ありがとうリフィ──ねえ」
マエリスは単刀直入に切り出す。
「何があったの? 屋敷の空気が変だよ。兵隊さんも多いし」
「……マエリスお嬢様なら、もうお気づきかと」
リフィは一度だけ視線を伏せ、それから静かに告げた。
「マノンお嬢様にはまだ早い話ですが……お二人とも『マギカ辺境伯家』の血筋。無関係ではいられません」
「辺境伯家の義務……『魔の森』の管理?」
マエリスの脳裏に、エレノアの授業で習った最悪の事態がよぎる。
魔物が溢れ、森から染み出してくる災害。
「──スタンピード?」
「……ご明察です。騎士団より、その『予兆』を確認したと報告がありました」
リフィの肯定に、食堂の空気が凍りついた。
「道理でー、屋敷も領地も騒がしいわけだねー」
午後の授業。
マエリスはリフィを連れてエレノアの研究室を訪れたが、魔女はどこ吹く風で紅茶を啜っていた。
「リフィ、スタンピードまでどのくらいか分かる?」
「早ければ明日。遅くとも一ヶ月以内になるかと」
「ロルカちゃんが里帰りした理由が『魔の森』の活性化でしょー? 遅くとも二週間以内ってとこじゃないー?」
「二週間……そんな……」
マエリスは絶句する。
ゴーレムの腕となりそうな骨格が決まったのが、つい数日前だ。指の設計図はあるから、形にするだけなら間に合うかもしれない。
だが──動かない。
動かすためのモーターが、未だに手がかりゼロだ。
これではただの頑丈な置物にしかならない。
どうすれば……焦燥感に爪を噛むマエリスの前で、エレノアがパンと手を叩いた。
「ま、それはそれとしてー、楽器の授業を始めよっかー」
目の前に突き出されたのは、金色の管楽器。
マエリスは我が目を疑った。
「は!? こんな時に何を──」
「なーにー、マエリスちゃん?」
エレノアの金色の瞳が、冷ややかに細められる。
そこには教育者としての厳しさと、得体のしれないの冷徹さが同居していた。
「外で戦争が起きようがー、領地が滅びようがー、私のカリキュラムには関係ないよー?」
「っ、でも!」
「緊急事態だからってー、特例が許されるとでも思ったー?」
ぞくり、とマエリスの背筋が粟立つ。
この人は本気だ。マエリスが泣きつこうが、魔物が押し寄せようが、授業を放棄することは許さない。
「……ただしー」
エレノアは悪戯っぽく唇を歪める。
「ちゃんと合格点を取れば、研究の時間くらい融通してあげるよー。夜更かしも解禁してあげるよー。まー授業の難易度は下げないけどー……何がヒントになるか、わかんないよねー?」
「……分かりました」
「よろしー。それじゃーやろっかー」
サックバットと呼ばれたその楽器は、前世では違う名前だったはずだ。楽器に詳しくないマエリスには見覚えがある程度だが。
ラッパのような構造なのだが、腕で長さを調整できる管が取り付けられている。これを伸び縮みさせることで音程を調整できるようだ。
(こんなことしてる場合じゃ……)
ただでさえ小柄な身体には扱いの難しい楽器な上に焦りもあるマエリスは、演奏が雑になってしまう。
「マエリスちゃん……真面目にやろっか」
「ひっ、はい……!」
間延びした口調が消えたエレノア。これはマジで怒ってる時の声だ。
マエリスは命惜しさに、必死でサックバットに向き合う。
(うう、難しい……! 音程を変えるために、いちいち腕を動かして管をスライドさせなきゃいけないなんて……!)
小柄なマエリスにとって、金属の管を物理的に伸ばしたり縮めたりする動作は重労働だ。
息を吹き込みながら、腕を前後に動かす。
プォー、プォー、と間の抜けた音が響く。
(もっと簡単に……指先だけで制御できればいいのに。なんでこんなアナログな『伸縮機構』なんだ)
その時──マエリスの脳裏に、稲妻が走った。
(……待てよ?)
マエリスは、自分の手の中にある「二重構造の筒」を凝視する。
外側の筒と、内側の筒。それがスライドして伸び縮みする。
今は「手」で動かしているが、この中には息──すなわち空気が通っている。
(もし、この筒の底を密閉して……『手』の代わりに、『風魔法』を思い切り吹き込んだら?
内圧が高まって、筒は勝手に伸びる。逆に空気を抜けば縮む)
「──動力は、必ずしも電気である必要はない……!」
蒸気機関。油圧ショベル。そして空気圧シリンダー。
前世の記憶と、目の前の楽器がリンクする。
「マエリスちゃん?」
「ありがとうエレノア! 答えは『風』だったんだ!」
「へ?」
キョトンとするエレノアを他所に、マエリスは猛然と楽器を吹き始めた。
構造さえ理解できれば、あとは計算だ。
スライドの位置と息の量。その相関関係を瞬時に計算し、マエリスは課題曲を完璧なピッチで吹き切った。
「ご、合格ですか!?」
「……うーん、まー、音色はともかく技術点は完璧だねー。合格」
「やったー! リフィ、実験室に行くよ! 直ちに『風』を詰める!」
楽器を放り出し、マエリスは風のように部屋を飛び出して行った。
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