エレノアの授業(後半)
「おかえりー。走るなら、もっと足音を消そうねー? 次の作法の授業、難易度上げちゃうぞー」
「え、まだ上が……?」
「あるよー。やる?」
「謹んで辞退申し上げます」
これ以上ハードルを上げられたら死ぬ。
マエリスは引き攣りそうになる頬を、作法の授業で叩き込まれた「貴族の微笑」で覆い隠した。
「ポーカーフェイスばかり上手になっちゃってー。ほら、座って座ってー」
エレノアはソファを叩く。マエリスは警戒して少し距離を空けて座り、前世の癖でポケットから筆記用具を取り出そうとした。
「あ、ノートはだーめ」
「えっ」
「前も言ったけどー、聞くのと書くの両方に気を取られてー、中途半端な理解で文字に起こされるとー、知識が劣化しちゃうからねー。
私の言葉は、その脳みそに直接刻んでねー」
エレノアがこめかみを指差す。
(……また復習の時間が長くなる)
マエリスは心の中で泣きながらペンを置いた。
「それじゃー、復習。創世神話について」
「……はい。神々の戦争の話ですね。星に満ちる命をどう創るかで争いがあった」
「そーそー。圧倒的な個の力で星を統べるべきっていう『孤狼派』とー、弱くても数を集めて知恵を紡ぐべきっていう『群像派』」
「結果は『群像派』の勝利……私たち人類は、集団の強さを得て繁栄しましたとさ」
マエリスが教科書通りに答えると、エレノアはニヤリと笑った。
「それ、どこまで正しいと思うー?」
「……というと?」
「書庫の本にはなんて書いてあったー?」
「『善神と邪神の争い』としか。善なる神々が、世界を支配しようとした邪神を打ち倒した。負けた邪神の怨念が、今の魔物を生み出した……と」
「だよねー。善神が『群像派』でー、邪神が『孤狼派』。分かりやすい勧善懲悪だー」
エレノアは楽しそうに足を組む。
「でもさー、歴史って結局は『勝者のプロパガンダ』なんだよねー」
「……」
マエリスは息を呑んだ。
その言葉は、この世界の住人が口にするにはあまりに冷笑的で、客観的すぎる。
「客観的に見えて、実は全然公平じゃない……マエリスちゃんは、その『善と悪』の分け方、どう思うー?」
試されている。マエリスは直感した。
これは歴史の授業ではない。「情報の疑い方」の授業だ。
「……勝った方が善を名乗るのは、世の常だと思います」
「お、いいねー。擦れてるねー」
エレノアは満足げにマエリスの頭を撫でた。
「じゃあ、もう少し掘り下げよっかー。もしも『邪神』と呼ばれた彼らが、ただ単に『数が少なかっただけ』の敗者だとしたら? 世界はどう見えるかなー?」
マエリスは想像する。
数で勝る「正義の味方」たちが、少数の「悪」を袋叩きにする光景を。
「……単純に見れば、それは『数の暴力』ですけど」
「けど?」
「戦争になっていたということは、戦力は拮抗していたわけですよね? 圧倒的多数を相手に、少数が渡り合えていた」
マエリスは、開発者としての計算機を弾く。
変数は「数」と「個の強さ」。
数が少ないのに負けていなかったのなら、一機あたりのスペックは、「邪神」側の方が遥かに高かったはずだ。
「なら、その『邪神』たちは、とてつもなく優秀なスペックを持っていたはずです。
それを、ただ『数が少ないから』という理由だけで排除してしまったのなら……」
「なら?」
「単純に、文明としての損失だと思います。優秀なリソースを有効活用できずに廃棄したわけですから……一言で言えば、『勿体ない』ですね」
善悪の話ではない。効率の話だ。
マエリスのドライな回答を聞いて、エレノアは一瞬キョトンとした。
そして直後、堰を切ったように笑い出した。
「くっ、あっはっはっは! はー面白いなーマエリスちゃんは! 『可哀想』でも『酷い』でもなく、『勿体ない』かー!」
エレノアは涙が出るほど笑い、バンバンとソファを叩く。
「そーだよねー。優秀な個体は、管理できないからって排除するより、役立つ形に定義し直して使うべきだよねー。あー、君は本当に面白い」
これは情報の疑い方の授業だ。
マエリスは「善悪」というフレーム自体を疑い、「効率」という別の物差しを持ち出した。
エレノアの爆笑は、その「視点のズレ」に対する合格通知なのだろう。
「それじゃー復習はここまでにしてー、今度はマエリスちゃんにも身近な、地理の話をしよっかー」
「お、お願いします……」
既に脳の容量は限界に近いが、マエリスは気合いで顔を上げる。
エレノアが指先を振ると、空中に光の粒子が集まり、大陸の立体地図が描かれた。
「まずー、ペーラ・ウルト大陸はこの世界の南半球にある大陸で、他と比べると一番小さいねー」
(……オーストラリア大陸みたいだな)
形は前世の地図に似ている。だが、その配色は異様だった。
「ここがマギカ辺境伯領ねー。で、この北側を埋め尽くす濃い緑が『魔の森』」
「……いや、広くない?」
てっきり大陸の北端にちょこんとあるだけだと思っていた。
だが地図上の『魔の森』は、大陸の北部3割を完全に飲み込んでいた。
「百年ぐらい前かなー、ちょっと『ヘマ』があってねー。倍くらいに広がっちゃったんだよねー。
このマギカ辺境伯領が蓋をしてなかったら、さらに倍になってたかも」
「ここって、そんなに重要拠点なんだ……」
(防衛ラインが決壊したら大陸全土がアウトじゃん……!)
マエリスは戦慄する。
だが、脅威は北だけではなかった。
「あとは大陸のど真ん中に、一割くらい『粉々砂漠』があってー。
南端の一割は『吹雪の海』に削られてるねー」
「……」
北は魔獣。中央は死の砂漠。
そして南は、陸地こそあるものの、その先の海が極寒の嵐で閉ざされている。実質的な「壁」だ。
「計算できたー? 魔の森で三割、砂漠と吹雪で二割。合わせて五割が『死に地』」
「……人類の生存圏は、半分だけ」
「そー。私たちは大陸の半分に、かろうじてしがみついてるだけなんだー」
半分あれば十分、ではない。
北と南と中央から、じわじわと生存圏を圧迫されている「ジリ貧」の状態だ。
「気づいたー? この世界ってー、けっこー余裕ないんだー」
一方のエレノアは、他人の不幸を楽しむようにケラケラと笑う。
「そんな、崖っぷち人類の『抵抗の歴史』……教えてあげるねー」
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