マギカ辺境伯領の噂
ペーラ・ウルト大陸北部に位置する、マギカ辺境伯領。 北の砦として魔獣の侵略を防いできたこの地には今、奇妙な噂が流れている。
曰く、「当主の娘は魔法の天才であり、言葉を話せるようになる前から魔法が使えた」。
曰く、「当主の娘はそれはそれは美しい姫であり、帝都の皇子に求婚された」。
曰く、「当主の娘は夜な夜な屋敷を徘徊し、奇声を上げながら怪しげな研究をしている」。
一人の少女を巡る噂話が、こうして領内に蔓延しているわけだが──。
「……どれも微妙に間違ってるんだよね」
領主の館の一室で、少女が溜息を吐いた。彼女は手にした羊皮紙を一瞥すると、正面の人物へ放るように手渡す。
「果たしてそうでしょうか? 真実も含まれているように思えますが」
「真実って、どれが?」
「この、『夜な夜な屋敷を徘徊し、奇声を上げながら怪しげな研究をしている』というのは、まさに」
「ボク、徘徊も奇声もやってないよ!?」
「では、怪しげな研究は否定しないと?」
「いや、怪しくは、ない……と思うけど」
「面白かったですよ」
「何の感想!?」
真顔で冗談を言うメイドに頭を抱え、少女は深々とソファに沈み込んだ。 彼女こそ噂の主。マギカ辺境伯家の長女──マエリス・マギカ、四歳である。
銀髪というには黒く重たい、鋼のような色をした髪と、翠玉のように輝く緑の瞳。そして澄んだ紅茶を思わせる浅黒い肌。
まるで神に創られた至高の人形のような少女であり、溜息を吐く姿も、頭痛に悩む姿も一つの絵画のようである。
「というか、どうしてこんな噂が流れてるの?」
窓の外には、碁盤の目のように整然と区画された街並みが広がっている。 住民の半数近くは何かしら魔法に関わる職に就いており、家屋同士の間隔が広いのは、魔法実験による隣家の突然の爆発被害を抑えるためだ。
そんなマッドな魔法都市の住民にすら「怪しい」と噂されるのだから、彼女の奇行ぶりは推して知るべしだろう。
「私が喋りました」
「おい担当侍女」
「冗談です」
すました顔のメイドはリフィ、マエリスの担当メイドである。マエリスよりも明るい銀髪と、彼女より少し濃い肌、そして黄色い瞳──この地では一般的な容姿だ。
「噂などいつの間にか流れているものだと思いますが、調べておきますか?」
「そうだね、お願い。特に皇子関連が漏れてるのはちょっと問題かなって思うし」
「秘密の関係ですからね」
「喧嘩を売られてるだけの間柄を、そういうのはやめて」
「では夫婦漫才ということで、よろしいですね?」
「ねえ、今日のリフィ元気過ぎない?」
リフィは年齢不詳であり、表情筋が死滅している。 だが、付き合いの長いマエリスには分かる。今の彼女は楽しんでいる。
「実はですね」
「うん」
「今朝マノン様に『おねえちゃ』と呼ばれまして」
「せめてボクが理由であって欲しかったなー」
「マノン様を悪く言うのは止めてください」
「言ってないよ!?」
心外だと憤慨するマエリスと、それを煽るリフィ。 マノン・マギカは、二歳になるマエリスの妹だ。 姉とは対照的に、輝くような白髪と、色素の抜けた白い肌。そして紅玉のように赤く煌めく瞳。 いわゆる、アルビノと呼ばれる体質だった。
「白い物は何でも『おねえちゃ』って呼ぶんだよね。……やっぱり、よく見えてないのかな」
「そうかもしれませんね」
ふと、マエリスの脳裏に、遠い前世の記憶が蘇る。アルビノに伴う視力障害。その主たる原因は、眼球内のメラニン欠乏による光過敏か、あるいは──。
「網膜、特に中心窩の発育不全……だとしたら」
ブツブツと呟くマエリス。先天性の形成不全──単なる怪我の治癒では治せない。組織そのものを正しく成長させる、再生医療的なアプローチが必要になる。
「『紅眼』の治療は不可能と聞いていますが」
「今は、でしょ?」
そう言って、マエリスは思考の海に沈んでいく。
(今のボクには、一般的な魔法は使えない)
マエリスは唇を噛んだ。この世界に生まれ落ちて四年、彼女には魔法の才能が欠片もなかった。
魔力はある、なのに外に自力で放出できない。だからこそ、彼女は「魔法陣」という外部装置に頼るしかない。
描くのに時間がかかり、精密さが求められ、その割に詠唱魔法よりも威力が低い。誰も見向きもしない過去の遺物。
けれど、この不便な「コード記述」だけが、神の作ったバグを修正できる唯一の手段だとしたら。
(……上等だよ。デバッグ作業は慣れてる)
マエリスは不敵に笑い、手元の紙にサラサラと図形を描き始めた。
その様子を、リフィは静かに見つめている。
マエリスは魔法の天才だと、リフィは断言できる。 確かに彼女は、一般的な魔法を行使できない「欠陥」を持って生まれた。 魔法が全てのマギカ領において、いやこの世界において、それは致命的なハンデだ。
しかしマエリスは、今までにない発想とアプローチで廃れた魔法陣を解析し、三歳の誕生会ではあの賢者にすら一目置かれる存在となった。
リフィは魔法の専門家ではなく、ただの一般人だ。だが、確信している。マエリスはいずれ、たった一人で魔法陣を実用可能なレベルにまで押し上げると。
だからリフィはマエリスを心から敬愛している。おまけに、彼女だけはリフィの表情を読み取ることができ、いじると反応が面白い──そんなところもまた、可愛くて仕方がないのだ。
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