沈黙の祈り――届かない祈り
※カクヨムにも同名のものを公開しています。
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春先の風が吹く頃、アムゼルの村では山の精霊を祝う祭りが行われる。
だが孤児院で暮らすイルゼには、その風の声が“呻き”にしか聞こえなかった。
耳の悪い彼女は祈りの歌にも入れず、子どもたちにからかわれ、修道女に叱られる日々。
ある日、ついに耐えられなくなり、修道院を抜け出す。
たどり着いたのは、彼女がいつもひとりで風を聴いていた高台。
そして――そこで、初めて声を出した。
春の朝。
アムゼルの村には、柔らかな風が流れていた。
丘の上の聖庁孤児院では、祭りに向けて子どもたちが歌の練習をしている。
イルゼは列のいちばん端。
声を出そうとしても、すぐに誰かの肘が脇腹を突く。陰湿なイジメに、満足に声を出すこともできない。
「イルゼ、またズレてる!」
年上の子が笑いながら肘で突く。
「この子、風の唸りしか聞こえないんだって」
「じゃあ神様の声も聞こえないのね」
笑いが波のように広がる。
イルゼは俯いたまま、息をひそめた。
声を出したくても、怖くて出せない。
――声を出そうとすると、みんなが邪魔をする。
「イルゼ!」
修道女の声が鋭く響いた。
「もっと声を出しなさい! そんな声じゃ、神様に届かないわよ!」
その言葉に、子どもたちの視線が一斉に向く。
イルゼは小さく震えた。
喉がからからに乾く。
声を出そうとした瞬間、背後で誰かが囁いた。いじめっ子の声だった。
「どうせ届かないんだよ」
その囁きが胸の奥に刺さった。
届かないという言葉が、自分の世界をそのまま言い当てているようで、苦しかった。
その日の夜、イルゼは祈りの時間を待たず、修道院の裏口を抜け出した。
冷たい空気が頬を打つ。
誰も追ってこない。
丘の上には、春の風が鳴っていた。
彼女がいつもひとりで座っていた高台。
そこから見える村は、祭りの灯で淡く揺れている。
イルゼは空を見上げた。
雲が流れ、風が頬を撫でる。
胸の中に渦巻いていたものが、すこしずつ溢れそうになる。
――どうして、僕だけ。
――ちゃんと、祈っているのに。
こみ上げるものが抑えられなかった。
彼女は息を吸い込み、叫んだ。
「ちゃんと、僕もお祈りしたいの!」
風が一瞬、止まった。
次の瞬間、山々にその声が跳ね返る。
木霊がいくつも重なり、まるで彼女の代わりに、世界が祈ってくれているようだった。
胸の奥が熱くなった。
涙が頬を伝い、風がそれを静かにさらっていった。
――届いた。
誰かにではなく、自分の心に。
その風の中で、イルゼは初めて、心まで届いた自分の声を聴いた。
祈りは誰にも届かなかった。
けれど、その声は自分の中に息づいていた。
それで、十分だった。
イルゼは、“届かない祈り”を抱いた少女です。
耳が悪く、人の声や聖句を正しく聞けない彼女は、
人々の中で「神に見放された子」とされ、笑われ、傷ついてきました。
けれど、修道院を抜け出し、
高台で初めて叫んだ「お祈りしたいの!」という言葉は、
誰にも届かなくても、彼女の中で反響し、世界に溶けていった。
祈りとは、誰かに伝えるものではなく、
自分の心を確かめるための声なのかもしれません。
イルゼの“声なき祈り”は、
誰よりも静かで、誰よりもまっすぐでした。
■用語解説
アムゼル村
グライフェナウ郊外の寒村。春になると“風祭り”が行われる。
風の唸りを“山の精霊の声”として喜ぶが、
イルゼにはその音が泣き声にしか聞こえない。
聖庁孤児院
聖堂の管理下にある孤児施設。
孤児たちは祭りで聖歌を歌う役目を持つ。
耳の悪いイルゼは音を外すことが多く、子どもたちからいじめを受けていた。
高台
村の北の丘。
風がよく通り、祭りの音が遠くに聞こえる。
イルゼがひとりになりたいとき、いつも訪れていた場所。
沈黙の祈り (シュティレ・ゲベート)
声を出さずに行う祈り。
イルゼの叫びが木霊として自分に返ってきた瞬間、
彼女は“祈りが届く”とは何かを理解した。
それは、神への呼びかけではなく、心と世界の共鳴だった。




